水ぬるむ春──。今回は手塚治虫のマンガの中で人気ヒーローが活躍した場所や、悪のアジトがあった(という設定の)場所を訪ねて東京都内を歩きます。手塚先生がお話の舞台にその町を選んだのはなぜだったのか。たまたまだった? それとも深~い意味があった!? そんなことを考えながら歩く東京さんぽ、さっそく出発です! さらにゴールには、2年前に読者情報で判明した“ある場所”へも立ち寄る予定! うおお~~っ、楽しみだぜ~~~っ!!
今回のさんぽは、手塚ヒーローマンガの代表格『鉄腕アトム』に出てきた場所からスタートだ。その場所とはJR池袋駅! 『鉄腕アトム』の中でここ池袋が出てくるのは雑誌『少年』1954年6月号から9月号にかけて連載された「コバルトの巻」だ。
この物語では、アトムはあることに悩んでいた。それは小学生としてごく普通の生活がしたいのに、何かというとみんながアトムの力に頼ること。学校にいても家にいても、ひとたび事件が起きるとすぐに大人が助けを求めにくる。さらにクラスメートまでもが他校生とのケンカでアトムの力をあてにしていた。
そしてある日アトムはついに家出をしてしまう。しかも間の悪いことにそのタイミングで水爆を積んだ飛行機が日本近海へ墜落し、大爆発の危機が迫っていた。
大人たちはアトムに頼りすぎていたことを反省しつつも、ここは一刻も早くアトムを探して水爆を止めてもらわなければならない。
その時警察に、アトムらしき人物を池袋で見たという情報が飛び込んで来た!
というわけでわが虫さんぽ隊は池袋駅に到着。現在の池袋駅はJR山手線・埼京線・湘南新宿ラインのほか、東武線、西武線、東京メトロ丸ノ内線・有楽町線・副都心線が乗り入れる巨大ターミナル駅だ。だがこのマンガが発表された1954年当時は、旧国鉄の山手線と赤羽線、東武線、西武線に加えて、ちょうど1954年1月に当時の営団地下鉄丸ノ内線が仮ホームで営業を開始したばかりだったようだ。
マンガでは、アトムと見られる人物は池袋駅西口から椎名町方面へと向かったという。では彼はいったいどんなルートで椎名町方面へ向かったのだろうか。
地図を見ると、池袋西口から徒歩で椎名町方面へ向かうには、東京芸術劇場のある池袋西口公園の脇を抜けて都道441号線=通称「西池袋通り」を西へ向かうのが、もっとも素直で距離的にも近い道筋だろう。ということでこの周辺を散策することにした。
じつはさんぽ当日は東京に寒波が襲来中で、路肩には数日前に降った雪がカチコチに凍って山になっていた。首からさげているデジカメが氷のように冷たくなり、弱ったバッテリーをカイロで暖めながらのさんぽとなった。西から東へ向かって一直線に延びた道路を寒風が吹き抜ける。キビシーッ!!
ちなみにこの西池袋通りのすぐ脇には、過去の虫さんぽで何度も取材協力していただいている「豊島区立郷土資料館」がある。時間があればさんぽの途中で立ち寄ってみるのもお薦めだ。
それにしても、このお話でアトムが向かったのがなぜ椎名町だったのか。椎名町といえば、この虫さんぽでも2009年と2014年に歩いた、元トキワ荘のあった町である。手塚先生はこの「コバルトの巻」を描く1年前の1953年春ごろに豊島区椎名町(現・豊島区南長崎)のトキワ荘へ入居した。そして翌1954年10月に豊島区雑司が谷の並木ハウスへ引っ越すまで、そこを仕事場にしていたのだ。つまり「コバルトの巻」は、手塚先生がトキワ荘に住んでいたころに描かれた物語だったのだ。
物語では、その後警察は、アトムらしき人物をついにビルの建築現場へと追いつめた。ところが捕えられたのはアトムのニセモノだったのだ! では本物のアトムはいったいどこへ……!? そして爆発までの残り時間が刻々と迫る水爆はどうなる!? この続きはぜひマンガを読んでみてください。
かじかんだ手をこすりあわせながら、いったん池袋駅へ戻り、次に向かったのは山手線で2駅目の高田馬場駅だ。
ここ高田馬場も、現在の手塚プロダクション本社がある街なので過去の虫さんぽで何度か歩いているが、今回紹介するヒーローマンガ、いやヒロインマンガは『こじき姫ルンペネラ』だ。1980年、雑誌『ヤングマガジン』に連載されたギャグタッチのSFファンタジー作品である。
このマンガ、かなりギリギリなタイトルだけど中味も相当にハチャメチャだった。2000年前の中東のどこかの国からやってきた不思議な能力を持つ謎の少女。ほとんど裸同然の彼女が、見知らぬ予備校生・陣内の元へ押しかけてそのまま居候することになる。じつはこの少女、その某国からやってきたランプの精で、不思議な力を使って陣内の周辺を大混乱に陥れることになる。
その陣内が通っているのがここ高田馬場にある「W予備校」で、彼がランプの精と出会ったのも予備校近くの早稲田通り沿いだったと思われる。
ということでW予備校を探して駅周辺を散策してみよう。今回は高田馬場駅のメイン出口である早稲田口ではなく小さな戸山口の方へと向かう。この改札を出て徒歩数分の場所に、W予備校と頭文字が一致する早稲田予備校がある。住宅街の路地に面して建っているのが東京本校で、表通りの早稲田通り沿いには13時ホールというもうひとつの校舎が建っている。W予備校がここだとすれば、陣内が通っていたのは早稲田通り沿いの校舎の方だろうか。
この作品が連載された当時は受験戦争がもっとも厳しかった時代で、高田馬場駅周辺には予備校が林立していた。駅を下りるとロータリーを取り囲むように予備校の看板がいくつも並んでいて、駅周辺は予備校銀座とも呼ばれていたのだ。現在は少子化で受験戦争という言葉もあまり聞かれなくなり、駅周辺の風景も大きく様変わりしている。
それでもさんぽ当日は1月下旬でちょうど受験シーズン真っ直中だったから、さすがに受験生たちの熱気が感じられるんじゃないかと思っていたんだけど、どちらの校舎もひっそりとしていた。でも中では受験直前の熱い勉強が行われていたのかも知れない。
そして『こじき姫ルンペネラ』にはもう2ヵ所、高田馬場駅周辺に実在する、あるいは実在した場所の名前が出てくる。映画好きの陣内が通う「ワセダ松竹」と「パール座」という2つの映画館だ。高田馬場パール座は、早稲田予備校からほど近い早稲田通り沿いの西友の地下にかつてあった名画座だ。邦画も洋画もかかるノンジャンルの映画館で、話題の新作がわりと早くかかるので、お金のない学生に人気の映画館だった。ぼくも大学時代に足しげく通ったが、『こじき姫ルンペネラ』の連載から9年後の1989年に閉館してしまった。今回久々にその場所を訪ねてみたらライブハウスになっていました。
そしてもう1ヵ所の「早稲田松竹」は、高田馬場駅から早稲田通りを早稲田大学方面へ向かって東へ歩き、明治通りの手前にある名画座である。こちらはうれしいことに昔の建物のままで今も元気に営業を続けている。洋画邦画問わず名作映画が安く見られる映画館で、たまに珍しい旧作をかけてくれるので映画好きに人気の劇場だ。そしてここもぼくが学生時代には毎週のように通った劇場だった。これからもここで映画を学んだ学生が、次の世代のエンターテインメントを担う創作者となってくれたらうれしいですね!
さかえ通りの場所はJR高田馬場駅の早稲田口を下りてすぐのガード脇、手塚治虫壁画のすぐ横にある細い路地だ。マンガの中では高田馬場という地名は出てこないが、さかえ通りのシンボルでもある入り口のアーチがはっきりと描かれているので確かにこの通りに間違いない。
小さな飲み屋さんなどがひしめくこの通りはややアヤシゲな空気があるけど実際はいたって健全で、学生向きの安い飲み屋や食堂が建ち並び、地元の人や学生に愛される通りだ。
ちなみに手塚プロダクションが練馬区富士見台からここ高田馬場のセブンビルへ移転してきたのは1976年5月のことなので、『ふしぎな少年』「時限爆弾」編の発表から15年後のことである。
高田馬場駅周辺をぐるぐる歩いてかなり体が冷えてしまったが先を急ごう。高田馬場駅から東京メトロ東西線に乗車。電車はそのままJR中央線に乗り入れて西へ。到着したのは高円寺駅だ。
ここにもある手塚マンガの中で事件のキーマンとなる男が住んでいた。
作品は『ケン1探偵長』「北京原人の化石事件」の巻である。
戦時中に中国で行方不明になった北京原人の化石──。その行方を知るという旧日本軍の将校がここ高円寺で暮らしているという。怪盗マウス・ボーイと謎の男・蛭川からその情報を得たケン一はさっそく東京駅から中央線に乗って高円寺へと向かった。
果たして元将校の男・戸袋は高円寺の屋敷でひっそりと暮らしていたが、彼は過去の犯罪にからむ重大な秘密を隠していたのだった。やがてケン一の調査により事件は思いがけない方向へと展開していくことになる。
戸袋邸は高円寺のどのあたりにあったのだろうか。その屋敷を探して住宅街を歩くうち、大きなお寺に行き当たった。「宿鳳山高圓寺」と書いてある。山門前の案内板を読むと、ここが高円寺という地名の由来となったお寺らしい。
その内容を要約すると……高円寺が開山したのは弘治元年(1555年)のことで、当時はこの周辺は小沢村と呼ばれていた。だが徳川幕府第3代将軍家光が遊猟のおりにたびたびこの寺を訪れて休息し、家光が村名を高円寺村と改めさせたのだという。
お寺の周囲はひっそりとした住宅街で、道路が曲がりくねっていて昔からの地形を保っていることが分かる。北京原人の秘密を知る戸袋の屋敷も、手塚先生は恐らくのあたりに建っていたというイメージで描いたのではないだろうか。
高円寺駅からは、ケン一がここへ来たルートを逆向きにたどり中央線に乗って東京駅方面へと向かう。次に目指すのも『ケン1探偵長』に出てきた悪のアジトだ。
中央線で東京の中心を西から東へ横断し、下りたのは東京駅のひと駅手前、神田駅である。サラリーマンの町・神田は、駅の周辺に近代的なオフィスビルが建ち並ぶ一方で、そのビルの隙間には昭和を感じさせる古い建物も多く残るという味わい深い町である。
ここが物語の舞台として描かれているのは『ケン1探偵長』「昭和新選組の巻」だ。
ケン一が観覧に来ていたボクシングの会場で拳銃発砲事件が起き、ボクサーの母親が死亡した。ケン一がこの事件の手がかりを追ってたどり着いたのが「キュー商会」という名前の謎の会社だった。
その会社のある場所が「神田永富町二ノ二八」と作中には地番まではっきり書かれている。ところがだ。地図を見ても神田永富町という地名は見当たらないのだ。ネットで検索してみると、じつはこの地名は旧住所で現在は存在しない町名であることが分かった。
千代田区のホームページによれば現在の内神田2~3丁目あたりが旧永富町だったらしい。神田永富町という町名が残っていたのは明治2年までで、その後は旭町と名前が変わり、さらに関東大震災後の区画整理によって内神田に変わったのだという。
手塚先生はもしかしたら時代劇映画か時代小説などでこの古い町名をご存知だったのかも知れませんね。
そしてもうひとつ、この神田界隈が舞台として登場する手塚作品がある。それは『鉄腕アトム』「電光人間の巻」だ。
都内で開かれていたロボット芸術展の会場から、展示中の最新ロボット「電光」が逃げ出した。電光の体は特殊なガラスで作られていて偏光ライトを当てないと姿が見えない。その逃亡した電光が最初に足跡を残したのが神田だった。電光は神田の商店街を荒し現金や宝石を強奪して逃走した。後で分かるのだが、電光はけっして悪いロボットではなく、純粋すぎたために悪人たちに利用されていたのだ。
と、ここで単行本バージョンの『鉄腕アトム』を読んだことのある方は「おやっ?」と思うかも知れない。じつは単行本では地名が神田から銀座に書き変えられていたのだ。
ということで、ここでは雑誌連載時の初出バージョンに従って神田の町を歩いてみることにしました。
さていよいよ最後の目的地へと向かいます。神田駅から山手線でひと駅のJR東京駅だ。
ここ東京駅の丸の内口周辺が舞台となっている手塚ヒーローマンガは1968年に雑誌『少年ブック』に連載された『グランドール』だ。
主人公の少年テッチンがある日拾って帰った人形がみるみる美しい少女に変身する。じつは彼女はただの人形ではなくグランドールという人造人間だったのだ。
お話が進むにつれて明らかになったのは、グランドールはインベーダーが地球侵略のために地球へ送りこんだ尖兵だったということだ。グランドールは人間に化けて人知れず人間社会へ入り込み、世論を操作するなどして少しずつ人間を奴隷化していくことを企んでいた。
そして物語の中盤、グランドールによって扇動されたおよそ一万人の市民がデモ隊を組み、日比谷公園からここ東京駅の丸の内へと大行進を始めた。だがテッチンはグランドールの唯一の弱点を知っていた。それは首筋に傷を付けるとたちまち人形に戻ってしまうことだ。テッチンは新聞記者の父親とともにヘリコプターに乗り込み、空から蜂の入った箱を投げ落とした。蜂にグランドールの首を刺させて人形にしてしまうという作戦だ。果たしてこの作戦は成功するのか……!?
『グランドール』のお話の行方はマンガを読んでいただくとして、東京駅丸の内口まで来たらぜひとも立ち寄っていただきたい場所がもうひとつある。それは丸の内口のロータリーの一角に立つ「愛(アガペー)の像」というブロンズ像だ。
このブロンズ像が描かれているお話は1974年に発表された『ブラック・ジャック』第22話「血が止まらない」である。お互いに重い病気を抱えながら遠距離恋愛を続ける博と由紀が束の間のデートを楽しむ、そのシーンのバックに描かれていたのがこの像の台座だった。ただし作中では地名は書かれていなかったので、当初はこの像の場所がどこだか分からなかった。
お話の流れから推測して、ぼくは上野公園周辺にあるに違いないと踏んで2016年の上野さんぽの際に探したが見つからず、読者に情報提供を求めたところ、ひとりの方からすぐにご連絡をいただいた。そしてこの絵の場所が、ここ東京駅丸の内口に立つ「愛(アガペー)の像」だと分かったのだった。
ところがこの像は、東京駅の駅舎復元工事が始まった2007年に一時撤去され、その後、ずっと見られない状態が続いていた。それが昨年2017年12月7日、駅前広場の再整備が完了して、ようやくここへ戻って来たのだった。
10年ぶりにこの場所へ戻ってきた愛(アガペー)の像は、『ブラック・ジャック』の絵と見くらべると、前とは場所が少し移動しているようだけど、円柱形の台座の形はそのままで、10年前と同じように東京駅の見える場所に両手を広げて立っていた。 ぼくは初めて見るのに何だかとても懐かしい気持ちになって、像の台座にそっと手を触れてその場を後にしたのだった。
ではまた、次のさんぽでもぜひご一緒してください!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番