関東地方でも有数の観光地・古都鎌倉。今回の虫さんぽはその鎌倉が舞台となった手塚マンガの風景を訪ね歩きます。さらに手塚マンガの人気キャラクターをあしらった素敵なお土産品もご紹介っ! 春を呼ぶ強風の中、虫さんぽ隊は嵐をつんざいて突き進むぜ~~~~~っ!!
花粉症の皆さーん、くしゃみしてますかーっ? ハーックション!! ということで花粉症持ちにはつらい季節がやってきた。が! それと同時に寒かった冬が終わりに近づき、さんぽに好適な季節がまもなくやってくる。
ということでさんぽの季節に先がけて、春近い強風の中、神奈川県鎌倉界隈で、手塚マンガの舞台となった場所を巡ります。鎌倉は2010年10月に一度訪れていますが、今回歩くのは前回とはまったく違う完全新コースです。なのでこの虫さんぽを参考に鎌倉を歩こうと思っておられる方は前回の鎌倉さんぽもぜひ忘れずにチェックしてください。
・虫さんぽ 第12回:神奈川県鎌倉・河童と大イチョウとフクちゃんに会いに行こう!
今回のさんぽはJR鎌倉駅からスタートだ。駅の東口を出てバスロータリーのある駅前を左に折れると、小さなお店が軒を連ねた人通りの多い小道がある。ここが小町通りである。鶴岡八幡宮の参道・若宮大路と並行して南北に走るこの通りは長さがおよそ360メートル。道の両側には若い女性向けのおしゃれなお店や、修学旅行の学生・生徒が喜びそうなお土産小物を売るお店などがおよそ250軒も並んでいるという。
今回最初に訪問する手塚スポットは、その小町通りのど真ん中で営業されている『鎌倉くるり』というお店だ。店名からは何を売っているお店なのか分からないが、いったいどんな手塚スポットなのだろうか。さっそく訪ねてみよう!
あらかじめおじゃますることをお伝えしてあったので店長の盛山綾子さんとスタッフの山田志保さんのおふたりが出迎えてくださった。こんにちはー、風が強いですね。さっそくですが盛山さん、こちらは何を扱うお店なんですか?
「当店はてぬぐいと風呂敷の専門店で、てぬぐいは常時300種類以上、風呂敷も200種類以上をご用意しています」
それでしっとり落ちついた和風の雰囲気のお店なんですね。こちらに手塚マンガに関連する商品があると聞いてきたんですけど、どれでしょうか。
「こちらです。手塚治虫先生のマンガをモチーフとした手染めのてぬぐいを販売しています」
おおっ、こ、これはっ! 手塚治虫関連イベントや宝塚の手塚治虫記念館などでしか買えないと言われた手塚治虫ワールド×かまわぬコラボレーション商品「手塚治虫てぬぐい」じゃないですか。この貴重なてぬぐいに鎌倉で出会えるとは! 買います、全種類買わせていただきます! 何種類あるんですか?
「ありがとうございます(笑)。今日はこちらに5種類置かせていただいていますが、手染めの商品なので大量生産できませんから、仕入れの状況によって品揃えが変わります」
こちらのお店ではいつから手塚治虫てぬぐいを扱っておられるんですか? それと人気商品はどれでしょう。
「扱い始めたのは2016年10月からです。一番人気はピノコ語が書かれた『ピノコ語練習帳』で、2番目が『ブラック・ジャック』ですね」
やっぱりそうですか。ブラック・ジャックは幅広い世代にファンがいますからねー。ちなみに盛山さんはどのてぬぐいがお好みでしょうか。
「私はこのアトムくんがかわいくて好きですね」
『アトムの歴史』てぬぐいですね。ぼくもです。アトムの時代ごとの絵柄の変遷がひと目で分かるし、ベージュっぽい地の色も昔の雑誌の紙の色みたいでベストマッチですよね。気が合いますなー盛山店長、こんどアトムくんについてじっくりと語り合いましょう。
あ、大丈夫ですか、ちょっと引いてませんか? では話題を変えて、昔はてぬぐいってどこの家庭でも普通に使ってましたけど最近はほとんどタオルですよね。
せっかくなのでぼくも今日からアトムてぬぐいを普段使いしようと思うんですけど、専門家として便利な使い方があったら教えてもらえませんか。
「てぬぐいを使わないのはもったいないですよ。吸水性があってタオルより乾きも早いので使い勝手がすごくいいんですよ。
たとえば家の中ではグラスの下に敷いたり、食器の上にかぶせてホコリよけにもできますし、パソコンを使わないときにキーボードにかけておいてもいいですよね。それとお風呂で体を洗うのに使うとお肌がきめ細かくなります。
外でも活躍しますよ。私はてぬぐいをハンカチ代わりにいつも持ち歩いています。食事の時はひざかけになりますし、焼肉の時にはエプロン代わりにもなります。急な雨の時には頭にかぶって雨よけにも使えます。
それからてぬぐいというのは、あえて両端が切りっぱなしになっているので、縦に裂くことができるんですね。なので急な怪我の時には包帯代わりに使うこともできるんです」
へーっ、てぬぐいってそんなにいろんな使い道があるんですね。盛山さんは昔からてぬぐい派だったんですか?
「じつは私も7年前にこの仕事を始めるまではそうではなかったんですが、使い始めてその魅力にはまってしまったんです。今では60枚以上持っていますので、毎日取り替えても2ヵ月以上使えます(笑)」
てぬぐいの魅力がぼくにも少し分かってきました。
最後に盛山さんに、てぬぐいを折り畳んで端を縫うだけで簡単に作れる手さげ袋「あずま袋」の作り方を教えていただいた。手塚治虫てぬぐいでこれを作って持ち歩くと、さりげなく手塚ファンであることをアピールできるオリジナルグッズが完成する。ぜひ皆さんも試してみてください。盛山さん、山田さん、ありがとうございます!!
鎌倉くるりを出たぼくは小町通りを北上、鶴岡八幡宮に突き当たったところで右へ折れてそのまま県道204号線を道なりに歩き、路地を曲がって鶴岡八幡宮の真裏にそびえる大倉山の方向を目指す。
小町通りから徒歩15分ほどで到着したのが、清泉小学校という小学校の角に立つ「大蔵幕府旧蹟」と書かれた石碑だ。
資料によれば治承4年(1180年)に源頼朝がこの場所に居を構え、後にここに幕府を開いた。以来46年間にわたってここが政治の中心地だったという。
その源頼朝が登場する手塚マンガが『火の鳥 乱世編』である。源氏と平家の醜い覇権争いの中で、覇権を握らんとする者たちが不老不死の力を求めて火焔鳥(火の鳥)を探し求める。そんな権力者たちのうごめく姿を思いきり戯画化して描いたのが『火の鳥 乱世編』だった。
そして源頼朝は、そんな権力者たちの中でも特に猜疑心が強い人物として描かれていて、弟・義経の動きを警戒し、鎌倉から電話で(!)後白河上皇に文句を言ったりするなど粘着質な一面が強調されていた。その頼朝が電話をかけていた場所がまさにここだったんですね。登場シーンこそ少ないものの、レッド公が演じる源頼朝は、さすがベテランという存在感たっぷりの名演技でありました。
「大蔵幕府旧蹟」から路地をさらに北へ歩くと目の前に細くて急な古い石段が見えてくる。ここを登り切った先に「源頼朝の墓」とされている史跡がある。
石段は長い年月にわたって人が上り下りしたからか、踏み石の足を置く面が若干斜面側に下向きに傾いていて、うっかりすると足を滑らせてしまいそうだ。雨の日とか霜が下りるような真冬の早朝は特に注意が必要だろう。
年配の方々も観光客としてたくさん来られて普通に歩いているから必要以上に心配することはないけど、今回の鎌倉さんぽのルートを歩かれる際には、ハイキングシューズやトレッキングシューズなど歩きやすくて滑りにくい靴底の靴を選ぶことをお勧めいたします。
この日ぼくは履き慣れたスリップオンのスニーカーを履いてきたから靴ずれの心配はなかったんだけど、靴底はかなりすり減っていたので、後から出てくる山道で滑りそうで恐かった。
と、そんな感じでぼくが石段をびくびくと登っているのに、その横を修学旅行の中高生が何の苦もなくぴょんぴょんと駆け上がったり駆けおりたりしているのはさすが若さですね。
息を切らせながら石段を登り切ると、目の前には大倉山のひっそりとした森が広がり、その森を背にして高さ186cmの五層になった石塔が立っていた。これが「源頼朝の墓」である。
といってもじつはこの石塔は頼朝の死からずっと後の江戸時代、安永8年(1779年)に薩摩藩主・島津重豪が建立したもので、厳密にはこの墓の下に本当に頼朝が眠っているのかどうかははっきりしていないらしい。ただし文化庁の調査では、頼朝が葬られた法華堂の範囲に、この頼朝の墓所も含まれていたとのことで、現在はこの丘一帯が法華堂として国の史跡に指定されている。
法華堂というのは頼朝が生前に持仏を祀るために建てたお堂だったがその後廃れてしまい、明治時代にこの丘のふもとに頼朝を祀る白旗神社が建立されて現在に至っている。
こうしてさまざまな時代の歴史が一つの場所に幾重にも重なっているのがさすが歴史の町・鎌倉といったところである。
ちなみにこの頼朝の墓から東へ数百m歩くと前回の鎌倉さんぽで訪ねた絵筆塚のある荏柄天神社へと至る。そもそも荏柄天神社は頼朝が大蔵幕府の鬼門封じとして建立した神社だったのだ。
鶴岡八幡宮まで戻ったらそのまま住宅街の細い路地を西へ向かって歩き、JR横須賀線の踏み切りを渡ったら右折して北へ進む。ゆるやかな坂を上りながらなおも住宅街の中を歩いて行くと、左側の細い路地の方角を示した「源氏山公園」と書かれた案内板がある。
ほんとにこんな路地の先に公園があるのかと疑いながら歩いて行くと坂道はどんどんときつくなり、ついには突き当たりの家の前で舗装が途切れて道が終わってしまった。
これって、この住宅に住んでいる人だけが使う私道だったんじゃないの? と思ってしまいそうだが、よく見るとその突き当たりの家の先の崖に、人がひとりやっと通れるだけの獣道のような山道がのびている。ここが鎌倉時代の歴史を今に伝える旧道「化粧坂(けわいざか)」なのだ。
海以外の三方を山に囲まれた鎌倉は、ここを都とする際に、陸路として山を切り開いて7つのルートが開拓された。それが後に「鎌倉七口」と呼ばれることになる7つの切り通しで、そのうちのひとつがここ化粧坂なのである。
次の目的地の源氏山公園はこの化粧坂の先にあるんだけど、じつはこの化粧坂も『鉄腕アトム』「電光人間の巻」に登場する手塚スポットである。話の展開上、後ほど紹介しますので覚えておいてくださいね。
ではさっそく化粧坂を昇り始めよう。今度はかなり本格的な山道である。装備の点検はいいか? 気を引き締めて行くぞ! などと気合いを入れていたところ、山頂の方からハイキング風の服装の年配のグループが談笑しながら軽々と坂を下ってきた。なんか気負ってるのはぼくだけなんですかね。
ともかく800年前に巨大な岩に人力で刻まれた石の踏み段を滑らないように踏みしめながら一歩一歩上っていく。
ふうふう言いながら3~4分、にわかに視界が開けたところが源氏山公園だ。この源氏山公園の中でも小高い丘のようになった広場の真ん中に「源頼朝公・像」が建っている。この像は頼朝が治承4年(1180年)に鎌倉入りしてから800年目を記念して1980年に地元有志の寄付によって建立されたものだということだ。
リアルに作られたこの像を見ると、ワシ鼻ではないが鼻は大きく面長で意志が強そうなところはレッド公に似ていなくもない。
ちなみに手塚先生が1954年に発表した読み切り作品『弁慶』(原題『はりきり弁慶』)の中にも源頼朝が登場していたが、じつはこの時も頼朝を演じていたのはレッド公だったのだ。
『火の鳥 乱世編』で25年後に頼朝を再びレッド公に演じさせたのは『弁慶』の読者への目配せだったのか、それとも手塚先生のイメージする頼朝像が本当にレッド公に近かったのか、今となっては確かめようがないですが、手塚ファンにとっては、これでもう頼朝といえば完全にレッド公のイメージと重なってしまっていることでしょう。
この源氏山公園の頼朝像の周りはビニールシートを広げてお弁当を食べるのにちょうどいい芝生になっている。お弁当持参の皆さんはここらで昼食タイムになるようにルートを考えるといいと思います。ただしトンビがお弁当をかっさらっていく危険性があるらしいので背後からの空襲には注意が必要です。
では本日最後の手塚スポットへと向かおう。最後の目的地は鎌倉の大仏様である。源氏山公園からは徒歩でおよそ2km。歩けない距離ではないんだけど、事前にネットで調べたところ、このルートもかなりの山道らしかったので、早くもへこたれたぼくは楽をして電車を使おうと思い北鎌倉駅方向へ下ることにした。
ところがこれが大誤算で北鎌倉駅までの道のりも同じような山道だったのだ。だったらこのまま徒歩で大仏様を目指した方が良かった。結局、源氏山公園へ行く場合、山歩きに自信がない人は鎌倉駅周辺からタクシーに乗って公園入り口まで行き、そこで待っていてもらって帰りもそのタクシーで帰ってくるというのが得策のようだ。実際、そんなタクシーが入り口前に2台ほど駐まっておりました。距離は車だと若干大回りになるけど、それでも4~5kmと大したことはないので、仲間と相乗りで行ってワリカンにすればそんなに高額にはならないだろう。
ということでようやく北鎌倉駅に到着したぼくは、JR横須賀線で鎌倉駅まで戻り、そこから江ノ電に乗りかえて長谷駅で下車。徒歩数分で鎌倉大仏のある高徳院に到着したのでした。あー、やっぱり電車は楽ちんだな(半分嘘)。
ついでに言うと、この長谷駅周辺にも「生しらす丼」の看板を掲げたお店がたくさんあって、お昼はこっちで食べれば良かった、とも思ったのでした。
高徳院の入り口で拝観料200円を払って院内へ。すると目の前に大きな大仏様が見えてきた。学生時代に友人と遊びに来て以来だからおよそ数十年ぶりである。お懐かしや大仏様。
鎌倉大仏は高さが約11.3m。暦仁元年(1238年)鎌倉幕府第三代・北条泰時の時代に建造が始まって5年後の寛元元年(1243年)に開眼式が行われた。建立当初は奈良の大仏のようにお堂に納められていたが明応7年(1498年)の大地震などによって損壊してしまい、以後は現在のように露坐の大仏となっている。
この鎌倉大仏が登場する手塚マンガは2作品ある。ひとつ目が雑誌『少年』の1955年1月号別冊付録として発表された『鉄腕アトム』「電光人間の巻」である。
この作品の中で、特殊ガラス製の透明なロボット“電光”が、ロボット展覧会から盗まれ悪人・スカンク草井の悪事に利用されてしまう。
そして時限爆弾を持った電光が警察に追われて逃げてきたのがここ鎌倉だった。
真冬の町はあっという間に日が暮れて小雪が舞い始める。そんな中、警察はようやく電光の足跡を発見。電光は、つい先ほどぼくらが歩いた「化粧坂」を通って大仏の後ろへと出るルートを取ると予測されたのだった。
爆発までの残り時間30秒。アトムがシルエットの大仏をかすめて飛ぶ光景に緊張感がみなぎる。果たして爆発を阻止することができるのか!? 手塚先生がこの物語のクライマックスになぜ鎌倉を選んだのかは分からないが、古都鎌倉の森を真っ白い雪が覆いつくし、真冬の太陽が沈んであっという間に宵闇となった中、黒々と浮かび上がる大仏様の姿はあまりにも美しくもの悲しい舞台装置ではありました。
そして鎌倉大仏が登場するもうひとつの作品が1972年10月から73年1月にかけて雑誌『週刊少年サンデー』に連載された『サンダーマスク』だ。
デカンダーは気体状の宇宙生物で、地球上のあらゆる生き物や無機物に乗り移ることができる。そのデカンダーの地球侵略を阻止しようとしているのが同じ宇宙生物のサンダーマスクだった。
デカンダーについて調べていて命を落した高瀬博士。その遺子である高瀬まゆみに会いに横浜へやって来た命光一ことサンダーマスク。その目の前にデカンダーが現れた。
光一はサンダーマスクの姿になってデカンダーに戦いを挑むが、デカンダーは鎌倉大仏の裏に隠れ、あろうことか大仏に乗り移ってその目から怪光線を発射した。
その後の展開はここに紹介したマンガでご覧いただきたい。何とまあ、やむを得なかったとはいえ、この両者の戦いによって大仏は見るも無惨なほどむちゃくちゃに破壊されてしまったのだった。
さて帰りは江ノ電で終点の藤沢まで行ってもいいんだけど、久々の鎌倉なので最後にもうひとつ懐かしい乗り物に乗ることにした。江ノ島と大船を結ぶ湘南モノレールである。江ノ電を江ノ島駅で下車して北側へ50mほど歩くと右側に湘南モノレール湘南江の島駅が見えてくる。
モノレールは前回の羽田空港から東京タワー・赤坂を巡った虫さんぽでも乗ったけど、あちらの東京モノレールが1本のレールの上にまたがった跨座式(こざしき)だったのに対して湘南モノレールは車両が頭の上にあるレールにぶら下がる形で走る懸垂式(けんすいしき)と呼ばれるタイプのモノレールだ。
今回検索してみたところ、湘南モノレールが全線開通したのは『サンダーマスク』の連載が始まるちょうど1年前の1971年7月1日だった。サンダーマスクとデカンダーもせっかく大仏様まで来たんだからついでに湘南モノレールも壊して帰ればよかったのに。
などとくだらないことを話している間にモノレールは大船駅に到着。今回はここで解散といたします。ではまた次回のさんぽもぜひご一緒してください!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出合いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番