手塚治虫先生の交友関係の広さは有名だった。マンガ界にとどまらず、SF作家をはじめとした多くの小説家たち。画家、映画監督、落語家、華道家……。山のような締め切りに追われながら、手塚先生の交友は広くそして深く続いていた!
今回は、そんな手塚先生の文化交流の足跡をたずねながら、渋谷から青山、六本木方面へと歩いてみた。多くの芸術家たちが集い、手塚先生がアニメへの情熱をたぎらせた「情報発進基地」とはどこか!? 手塚先生が舌鼓をうった、当時、日本でも珍しかった「ある料理」とは!? 今回も蔵出し情報満載で、早春の大都会・東京を歩きま〜〜〜〜すっっ!!
今年の冬は大寒波が来たりしてチョー寒かったけど、そんな冬もようやく去り、ここ東京にも、スギ花粉とともに春がやってきました。はっくしょん!!
さて今回は、冒頭にも書いたように大都会東京の真ん中で、手塚先生の文化交流の足跡を訪ねてみようと思います。
出発地点は大都会・渋谷駅。
渋谷駅といえば、駅前に昔から変わらぬ姿でたたずんでいるのが忠犬ハチ公の銅像である。
そしてこのハチ公像、さっそくだけど、見逃しちゃいけない手塚スポットなのだ!
1954年から56年にかけて、講談社の雑誌『少年クラブ』に連載された『ケン1探偵長』の中に、このハチ公像が登場している。
そのお話は、55年9月号から12月号にかけて掲載された「北京原人の化石事件」だ。
この物語で少年探偵ケン一は、戦時中に行方不明になった北京原人の化石の行方を追っている。その調査の中で、ケン一は手がかりを知っていると思われる男を、新聞のたずね人欄を使っておびき出す。その待ち合わせ場所として指定したのが、渋谷のハチ公前だったのだ。
ところで、マンガに描かれたハチ公像と現在のハチ公像の置かれている向きが違うのがお分かりだろうか。
じつは1948(昭和23)年にこのハチ公像が設置されたときは駅ビルに背を向ける形、つまり北向きに設置されていた。『ケン1探偵長』に描かれたときもこの向きだったわけである。
しかし平成元年に駅前広場が再整備されたとき、現在の改札口の方向を向く形(東向き)に置き直されたのだ。
そもそも今のハチ公像は二代目で、初代は太平洋戦争前の1934(昭和9)年に建造されたものだった。そしてこのときは改札口の方を向いて置かれていたというから、現在の置き方は本来の向きに戻ったということになりますね。
さて、それではいよいよ今回の散歩の主題である手塚先生の文化交流の足跡をたどろう。
渋谷駅から地下鉄東京メトロ銀座線に乗って向かったのは青山一丁目駅だ。
改札を出て地上へ上がると、目の前を東西にのびている片側4車線の幅広い直線道路がある。これが青山通りである。
この青山通りを西に行けばさっきまでいた渋谷。反対に東へ向かうと赤坂見附交差点を通過して皇居まで行くことができる。
この青山通りを東に向かって歩いて行くとおよそ5分で、右側に空や周りの景色を映して美しく光り輝く11階建てのミラービルが見えてくる。
ここが次の目的地「草月会館」だっ!
この草月会館と手塚先生にはどんな縁があるのか!? とにかくイロイロありすぎて、ひとことでは紹介できないので、ひとつずつ順番にひもといていきましょう。
今回、この建物を案内してくださったのは、財団法人草月会 広報部の八ッ橋紀子さんです。八ッ橋さん、まずはこの建物がどのようなところなのか、ご紹介いただけますか?
「草月会館は、いけばな草月流の創始者である初代家元・勅使河原蒼風が、いけばなだけでなく、さまざまな創作活動の発信の場にしたいという考えで建てたものです。
現在の建物は1977年に建て替えられたもので、最初の建物が完成したのは1958年6月でした」
八ッ橋さんのお話は続きます。
「草月会館の開館と同時に、蒼風の息子の勅使河原宏がディレクターとなって「草月アートセンター」が発足しました。
草月アートセンターは、草月会館を拠点としてさまざまな芸術活動を発信していこうというものでした。
最初に企画されたのは、当時、西ベルリンに在住していたピアニストの園田高弘氏を招いての演奏会でしたが、その後は、ジャンルレスであらゆる芸術に門戸を開いていくようになったんです。
この草月アートセンターの活動の中から、手塚先生と草月会館との接点も生まれた。以下、手塚先生のエッセイからの引用。
「久里洋二、真鍋博、柳原良平、この三人の絵描きを結ぶ線は一見何もない。三人とも威勢のよい兄ィであり、当代一流のイラストレーターだが、ひとりは大阪でサントリーのコマーシャルを作り、ひとりは未来図に凝り、ひとりはドイツ製のアニメーション撮影機をガチャガチャいじっている……その三人が、どう結束したものか、「アニメーション三人の会」を発足させて、発表会をすると通知してきた」(講談社版全集第383巻『手塚治虫エッセイ集1』より)
このアニメーション三人の会が作品発表の拠点としたのが草月アートセンターだった。草月会館で彼らの最初の発表会が開催されたのは1960年11月のことである。
このときの手塚先生の感想はというと……「どうという印象もなかった」と手きびしい。だが文章はさらに次のように続く。
「だが、二回目の発表会のとき、これはやるなと思った。たしかに従来の動画にない実験意欲と熱気がこもっていたのだ。お客が、デザイナーとか学生で満員なのにも驚いた。三度目の発表会のとき、来あわせていた田河水泡氏が、
「うむ、こういうものなら、わしも、作ってみたい気がする」
と、感想をもらされた。ぼくも同感だった。久里洋二氏は、ぼくに、
「あんたが作るのを待ってるぜ」
と、ニヤリと笑った」(前出『手塚治虫エッセイ集1』より)
この第二回と第三回というのは、それぞれ1962年1月と1963年3月のことだ。だけどこう言われた手塚先生は、実はこのときもうすでにアニメーションにどっぷりと漬かりはじめていた。
虫プロダクションの前身である手塚プロダクション動画部が設立されたのは1961年の春。そして翌62年4月には富士見台にアニメーション製作のための新スタジオが完成、同年11月には虫プロダクション第1回作品『ある街角の物語』を発表している。
さらに1964年9月、柳原氏らの「アニメーション三人の会」も発展的解消をとげて「草月アニメーションフェスティバル」と改名し、広く一般からも公募作品をつのることになった。
そして手塚先生がさっそくこのときのアニメーションフェスティバルに出品したのが『めもりい』と『人魚』という2本の実験アニメーションだったのである。
手塚先生はこうして草月会館へ通ううち、勅使河原宏氏とも親しく交流するようになっていったのだろう。
今回、おふたりの交流に関するエピソードがないかと事前取材をしている中で、手塚先生のあるマンガが、勅使河原宏氏が監督した映画の影響を受けているのではないかという話を耳にした。
それは勅使河原宏氏が監督し、安部公房の原作・脚本で1966年に公開された映画『他人の顔』という作品だ。
化学薬品の事故で顔に大やけどを負ってしまったひとりの男(仲代達矢)。以来彼は人間不信となり、医者に作ってもらった他人の顔の精巧なマスクをかぶって妻を浮気の誘惑へといざなうのであった!
そしてこの映画に影響されたのではないかと言われる手塚マンガが、その2年後の1968年に雑誌『ビッグコミック』に連載された『地球を呑む』である。
大酒飲みの男・関五本松が、謎の美女ゼフィルスの謎を追って闇の社会を駆け回るというお話で、手塚先生の『ビッグコミック』初連載作品だ。
この作品の中核をなすアイテムとして、作中に出てくるのが人工皮膚デルモイドZである。この人工皮膚をかぶると誰もがまるで別人になることができる。そう、これはまさしく『他人の顔』のモチーフそのものといっていいでしょう!
皆さんも興味があったらぜひ見くらべてみてください。
さて、ここまででもかなり草月会館に長居しておじゃましちゃってますが、実は手塚先生と草月会とのご縁はまだあります!
それは2004年から2006年にかけて放送されたテレビアニメシリーズ『ブラック・ジャック』についてである。
このアニメのKarte29「命を生ける花」という、いけばなをテーマとしたお話で草月会に協力をしていただいたというのだ。
物語は、永湖流いけばなの家元・永湖清水(えいこせいすい)が、ブラック・ジャックに娘の治療を頼みに来るところから始まる。
20歳になる家元の娘・ソノは重い病気をわずらい、何人もの医者から余命1年もないと見放されていた。
だが家元は娘が死ぬ前に、わずかでもいいから家元を継がせたいと思い、それまで生きていられるよう延命治療してほしいとBJに願い出たのだ。
しかしBJは、本人に生きる意志がなければ治療はできないと言って、その要求をはねのけた!
この作品について草月会にどんな協力をしていただいたのか?
ぼくはまず、このエピソードの脚本を担当した森田眞由美さんにお聞きしてみることにした。すると森田さんからはこんな返事が返ってきた。
「確かあのお話では草月会に協力してもらいました。いけばながメインの話ですから、そこでうそは描けないだろうということですね」
しかし森田さんは直接取材はされていないということで、当時、実際に取材をされたチーフプロデューサーをご紹介いただいた。
以下、『ブラック・ジャック』のチーフプロデューサーである久保田稔さんのお話です。
「「命を生ける花」のときは、早い段階から演出家とも「取材が必要だろうね」という話はしていました。
それでどこに協力をお願いすればいいかということになったとき、「いけばな」といえばやはり草月流だろうということで、失礼ながら、まったくの飛び込みで、草月会に電話でご相談をさせていただいたんです。
手塚先生が勅使河原宏さんと親しかったという話は、このときはまったく知りませんでした。
しかし草月会さんからは、突然のお願いにもかかわらず、ご快諾をいただきまして、草月会館で実際にいけばなを生けていただいたんですよ。
それを演出家と作画の代表者とで目の前で見せていただきましてね、それを作画に取り入れたんです。
おかげさまで、いけばなのシーンはとてもリアルに描くことができました」
森田さん、久保田さん、お話ありがとうございます。いやー、手塚先生のご縁とはまったく別のところでも、草月会と手塚プロにはご縁があったんですね!
ちなみに2006年12月には、ここ草月会館で手塚治虫ファン大会も開催されています。
当時の「虫ん坊」でイベントレポートが公開されているので、ぜひそちらも読んでみてください。
『手塚治虫ファン大会2006』レポート!
それでは、ここで草月会館とお別れいたしましょう。草月会の八ッ橋さん、長々とおつきあいいただきありがとうございました!
さて、ここからは再び散歩に戻ります。天気がよければ、ここから青山通りを少し西へ戻り、明治神宮外苑のイチョウ並木をそぞろ歩いてみるのも、今の季節、気持ちがよくておすすめだ。
だけど今回は次の目的地へと急ごう。イチョウ並木の手前で青山通りを左折し、外苑東通りを南下する。
およそ10分ほど歩くと六本木交差点に着く。そこからさらに南へ歩くことおよそ7〜8分。高速道路の真下が飯倉片町交差点である。
この交差点のすぐ近くにあるイタリアンレストラン「キャンティ 飯倉片町本店」が、本日最後の目的地だ。
このレストラン「キャンティ」と手塚先生の関わりについて、まずは手塚先生のエッセイをお読みいただこう。
「今日はトコン大会というのに行く。トコンとはTOKONで、「東京コンベンション」の略。つまりSF、サイエンス・フィクションのマニアどもの集りだ。
酒も飲むが食いぐせの悪いのがこの仲間で、小松左京、星新一、筒井康隆など、酒をサカナに飯を食うのである。そして食うほどに、ひどく口が悪くなる」
しかしその後、悪酔いする者が出てきたりして会場が荒れてきたので、手塚先生たちは「席をかえて飲みなおそう、いや食いなおそう」ということになって会場を後にした。そしてやってきたのが、ここ「キャンティ」だったのである。
再び手塚先生のエッセイの続きをどうぞ。
「六本木のバー・キャンティへぞろぞろと出かける。星ダンナの注文でピンク・ワインを飲んで、バジリコのスパゲティを食うのが常である」(講談社版全集第392巻『手塚治虫エッセイ集4』「酒中日記 阿呆失格」より ※初出は『小説現代』1968年11月号)
ということで、手塚先生がこのとき食べたバジリコのスパゲティ、今回の散歩でも、もちろん食べてまいりましたので、後ほどご紹介いたしま〜〜〜〜す!!
その前にまずは「キャンティ」について、ご紹介いたしましょう。
レストラン・キャンティがオープンしたのは1960(昭和35)年春のことである。創業者の川添浩史氏は、戦後すぐのころ、高松宮邸内に設けられた「光輪閣」(GHQ高官や、海外からの来賓をもてなす施設)で支配人を務めたことがあり、「キャンティ」をオープンする前から、さまざまな分野の人びとと幅広い交流があった。
それで「キャンティ」にも、早くから文化人や芸能人、作家、芸術家、ミュージシャン、政財界の人びとなどが集まるようになったのである。
今回、虫さんぽでキャンティへ立ち寄らせていただくに当たり、手塚先生がこちのお店に来ていたという記録はないか、お尋ねしたのですが、あいにくそうした記録はないとのことでした。
しかし星新一先生とのご縁については、こんなお話をうかがいました。
星新一の父・星一(ほしはじめ)氏は、星製薬の創業者で星薬科大学の創立者であった。
その星一氏と、キャンティの創業者・川添浩史氏の父・後藤猛太郎(ごとうたけたろう)氏が大変親しい間柄だったのだそうである。
川添浩史氏は、明治の政治家・後藤象二郎の孫に当たり、その息子・猛太郎氏(浩史氏の父)は日活の前身・日本活動フィルムの創業者であった。
その猛太郎氏が、星一氏が星製薬を設立する際に全面的に資金援助をしたのである。
星新一は、のちにそのことを著書『明治の人物誌』の中で一章を割いて、くわしく書いている。またその章のしめくくりの部分ではキャンティについても触れているのだ。その部分を引用してみよう。
「友人が教えてくれた。
「象二郎の孫なら、六本木でレストランをやっているよ」
かつて私たちSF作家仲間が、しばしば利用した店である。あ、あれがかという気分。久しぶりに出かけていって、顔なじみの店の人に聞くと、その店をはじめたのは、保弥太(黒沢注:象二郎の長男)の末弟で、他家へ養子に行った人とのこと(黒沢注:川添浩史氏のこと)。数年前になくなられた。もう少し早く知っていれば、
「あなたのお父さんに、うちのおやじがお世話になりまして」
と、あいさつができたのに。」(星新一著『明治の人物誌』1978年新潮社刊より)
この本がご縁となったのか、川添浩史氏の息子でキャンティの二代目経営者となった川添光郎氏も、どこかで星氏とお目にかかったことがあったそうです。
しかしその光郎氏も、3年前にお亡くなりになったということで、当時のお話をうかがえず大変残念でした。
でもこのお話からも、手塚先生たちを「キャンティ」に誘ったのは星先生だったと考えられますね。しかも「常である」と書いているところから、手塚先生は少なくとも複数回、星先生とここを訪れていたと類推できます!
それではお待ちかね。手塚先生も食したという「スパゲッティ バジリコ」をいただこう!!
このスパゲッティ・バジリコは、創業当時からの看板メニューで、基本的な作り方は開店当初から変わっていないという。
その特徴は、みじん切りにした青じそとパセリが入っていること。これは創業者の梶子夫人と当時のシェフが、日本人の口に合うよう工夫して考案したものだったということだ。
パスタやピザなどのイタリア料理は、今でこそ一般的になっているが、1970年代ごろまではほとんど知られていなかったのだ。
ということで、スパゲッティ・バジリコを食べた感想は……ンマイっっ!!
しそとパセリがたっぷりで、その上には新鮮な生バジルのトッピング。この3種類の香りの調和が実に絶妙だ。お店によれば、常連さんいわく「クセになる味」とのこと。確かに、ほかでは味わえないこの独特のハーモニーは、ぜひともまた来て食べたくなる味でありました。というか、常連さんならきっと、お店に来て席に座ったら、まずこれしか思い浮かばない、なんて充分にありそうです。そんな素敵なお味でした。
ということで今回の散歩は以上です。手塚先生は、ふだんは忙しいくてコンビニおにぎりとかインスタント食品とかで、食事をチャチャッと済ませちゃうこともあったようですけど、本当はかなりの食通だったと聞いております。またかなりの大食漢だったとも。
今回は、文化人としての手塚先生の一面のほか、先生のグルメな側面も垣間見えた散歩でありました。
今回もおつきあいくださいましてありがとうございます。ではまた次の散歩でお会いいたしましょう!!