マンガの読者が大人にも広がり始めたのは昭和30年代の半ばごろからだ。新しい読者に向けて、どんな作品を提供したらいいのか。手塚治虫は、そこで様々な表現手法を試しながら、自らの青年マンガのスタイルを確立していった。今回は、そんな青年マンガ黎明期に描かれた手塚マンガの試行錯誤を振り返る!
今月のこのコラムが公開される直前の7月30日、WOWOWで手塚治虫原作のドラマ『人間昆虫記』の放送が始まった。皆さんはご覧になっただろうか。……って、これを書いてる時点ではまだ放送前なので、ぼくも見てないんですけどね(笑)。
ということで、これもきっと公式サイトのあちこちに書かれていると思うけど、『人間昆虫記』は1970年から71年にかけて雑誌『プレイコミック』に連載された作品だ。
他人の才能をそっくりそのままコピーする才能を持った女性・十村十枝子。その才能を武器に欲望渦巻く社会でのし上がって行く彼女と、彼女に振り回される男たち。そんなドロドロした世界を描いたサスペンスドラマである。
人間の生態を昆虫になぞらえて描いているところや、悪女・悪人を主人公としたところなど、いかにも手塚流青年マンガのエッセンスが詰まった作品で、ぼくも大好きなマンガである。
それにしても手塚は、こうした独自の青年マンガの作風をどのようにして確立していったのか。
実はぼくもそれを正面から考えてみたことがなく、今回このコラムを書くためにあらためて過去の作品から流れを俯瞰してみたところ、そこには手塚の様々な試行錯誤の軌跡が見えてきた。
ということで今回は、これまであまりまとめて語られることのなかった、手塚治虫の青年マンガの変遷を、皆さんと共に振り返ってみよう。
スポーツ選手は壁にぶつかったとき、しばしば自分のプレースタイルを意図的に変えることがある。例えば直球勝負で勝ち上がってきた野球投手が、それまでの投球フォームを捨てて新たに変化球に挑戦するなどだ。
今回の調査で、手塚治虫の青年マンガにもそうした“作風改造”の遍歴があったことが見えてきた。
しかし野球投手の投球フォーム改造がそうであるように、マンガの場合も作風改造には大きなリスクが伴う。改造が成功するという保証はないし、失敗したら元に戻すことも出来なくなってしまうかも知れないからだ。
けれども手塚は、そんなリスクをも恐れず自らの作風改造に果敢に挑戦していった。
手塚が大人向けに描いた最初の作品は、本人が、1955年に雑誌『漫画読本』に掲載した読み切り『第三帝国の崩壊』だと語っている。これは、独裁者がロボットを使って人間を管理する社会を描いた10ページの風刺漫画だった。
絵柄のタッチは、当時の大人向け風刺漫画の代表的なスタイルだったハリガネのような細い線を手塚流にアレンジしたもので、ストーリーマンガの骨格を持ちながらも、喜劇の味わいを強調した風刺コメディとなっていた。
続いて『漫画読本』よりももっと若いヤング向けの雑誌『小説サロン』に1957年1月号から『雑巾と宝石』を連載、さらに同年9月からは雑誌『平凡』にも『ひょうたん駒子』の連載を開始した。
こちらもタッチは風刺漫画風で中味はストーリーマンガという、手塚の初期の青年マンガによくあるスタイルを取っている。
だけど、この段階ではそれが必ずしも成功していたわけではなかった。
『ひょうたん駒子』について、手塚は後年、こんなことを述べている。
「おとなものは、それまでにも新聞などにかいていたのですが、ハイティーン向けははじめてで、正直いってまごつきました。ターゲットをしぼりきれないのです。もちろん、ヤング向けの劇画なんかは、ほとんどまだ生まれてなかったころの話です」(講談社版全集第84巻『ひょうたん駒子』あとがきより)
結局、手塚は迷い続けたまま、「あとはかいているうちになんとかものになっていくだろうという、まことに無責任きわまるスタート」を切ったものの、結果は「予想どおり無責任なキワモノになってしまいました」(同あとがきより)と反省している。
ここで、当時の子ども向け以外のアダルト向け漫画雑誌の状況についてざっと紹介しておこう。
このころは手塚も書いているように、ヤング向けの劇画誌や青年コミック誌といったジャンルの雑誌はいまだ影も形もない。
ただし大人向け漫画雑誌はすでにあり、その先駆けが、手塚が『第三帝国の崩壊』を発表した『漫画読本』だった。
『漫画読本』は文藝春秋が1954年12月に創刊した雑誌で、当初は雑誌『文藝春秋』の増刊号として刊行された。ところがこれが17万部を数日で完売するほど好評で、すぐに定期刊行となる。その後、読売や産経なども相次いで漫画特集を組んだり、新雑誌を出すようになり、ちょっとした大人漫画のブームがやってきた。
といってもこの時代の大人向け漫画雑誌は、表題に“漫画”とあるにもかかわらず、ページの大半を小説や記事が占めていた。そして肝心の漫画も、時事ネタやお色気ネタを扱った数ページの風刺漫画がほとんどだったのだ。
今のぼくらの感覚からすると、大人向けのストーリーマンガがまったくないことに違和感を感じてしまうが、当時はそうした“人間ドラマ”を読ませるのは、小説の役割りだった。
一方大人漫画は、簡略化された表現と少ないコマの中で、いかに社会の本質や人間の性(さが)を風刺できるかが重要な要素となっていた。それは“漫画”という言葉が誕生した明治以来、脈々と受け継がれてきた漫画というものの、いわば本流だったのである。
ただしその“漫画”を理解してそこに込められた皮肉を笑うためには、読者にもある程度の教養と基礎知識が求められた。従って当時の大人漫画は、限られた知識人だけが楽しめるものだったのだ。
そんな閉鎖的な大人漫画の世界にクサビを打ち込んだのが“劇画”の登場だった。
1957年、貸本の世界で産声を上げた劇画は、それまでの子どもマンガよりも物語や心理描写に力を入れ、絵を細密にし、リアリティを追求した。だがその一方で大人漫画のような小難しい理屈はスッパリと排し、娯楽に徹することで、幅広い青年層から絶大な人気を博したのだ。
この劇画という新しい潮流の登場には、手塚も大きなショックを受けた。以下、手塚のエッセイからの引用だ。
「劇画が貸本屋に溢れだし、ぼくの家の助手たちまでが二十冊も三十冊も劇画を借りてくるようになったとあっては、ぼくも心中おだやかでない。
ついにぼくはノイローゼの極みに達し、ある日、二階から階段を転げ落ちた」(講談社版全集第383巻『手塚治虫エッセイ集1』より)
手塚が戦後、自ら築き上げてきたと自負するストーリーマンガの世界。だが一方ではそれがいまだに大人の読者には通用しないという現実。そうしたジレンマの中で、一気に青年読者の人気を勝ち取った劇画の登場は、手塚をノイローゼにさせるほど大きな脅威だったのだ。
そんな苦悩の時代に、手塚が劇画に対して真っ向勝負を挑んだ珍品がある。それが1959年に貸本劇画雑誌『X』(鈴木出版)に発表された3本の読み切り作品だ。
『刹那』(6月号)、『落盤』(9月号)、『花とあらくれ』(12月号)と続いて描かれたこれらの短編は、ベタを多用し、線をあえて荒れさせた、一見して明らかに劇画を意識したものになっている。
中でも『花とあらくれ』は、主人公が流れ者の漁師で、その男が港町へとフラリとやってくるところから物語が始まる。すると港では荒くれどもが殴り合いの大ゲンカをしていて、そこに主人公が加わり……という、当時の劇画がお手本とした日活アクション映画をモロに意識した展開になっている。
これらの作品で手塚は、あえて敵の本丸で自分流の“劇画”を描いてみたのである。これはいわば青年読者に向けた手塚マンガの最初のフォーム改造だった。
だが結論から言うと、これは失敗だった。個々の作品には、それぞれ手塚らしいアイデアが盛り込まれていて、見るべきところも多かったが、ライバルの表現をまねただけでは、やはりそのライバルを追い越すことはできないと、手塚も早々に悟ったのだろう。こうした表現の作品はこの3作でスッパリと終わった。
以前にも書いたことがあるけど、手塚治虫の天才たる理由のひとつに、「自分がやってきた過去の業績や努力に固執しない」ということがある。
自分がどんなに苦労して切り開いた道でも、それが「違う」と感じたら、いさぎよくスパッと切り捨てて新たな道を探る。手塚にはそんな才能があったのだ。
モノ作りに関わったことのある人なら分かると思うけど、これは凡人にはなかなかできることではない。フツーは「この道は間違っているかも?」とは思っても、そのままズルズルと歩き続けてしまい、ついには取り返しのつかないところまで進んでしまうものなのだ。
ところが手塚治虫はそうではなかった。自分の前に壁ができて作品の進化が止まりそうになると、まるで昆虫が脱皮をするようにその作風をガラリと変え、再び新たな出発点に立って進化を再開する。それが一度のみならず二度三度と繰り返されたのだから、手塚はやっぱり天才だったのだ。
そんな手塚の2度目のフォーム改造は1967年に発表されたこの作品からだった。『漫画サンデー』に連載された『人間ども集まれ!』である。
男でも女でもない第3の性を持った人間=無性人間が、世の中に大量に誕生する。それは、たったひとりの日本人・天下太平の精子から人工授精によって生み出されたものだった。
無性人間には働きバチのように人間の言いなりになる性質がある。人間たちはその性質を利用して、無性人間たちを兵隊にしたり、殺人ゲームのコマとして使ったりと、いいようにコキ使う。だがやがて彼らの反乱が始まる!!
このころは『漫画サンデー』も、今とは違ってユーモアとナンセンスを主体とした雑誌であり、手塚も、それに合わせて絵柄を再び、『第三帝国の崩壊』からの流れを受けたナンセンス漫画風のペンタッチに戻した。
当時の絵柄について手塚自身が述べている。
「なぜこういう画風でこれらの作品をかいたか、という点については(略)、なによりも、それまでのぼくの漫画の画風に限界を感じていたからです。子どもむけの、あかぬけしない、ごちゃごちゃしたペンタッチから、ぬけだしたいとも思っていたからです」(講談社版全集第82巻『人間ども集まれ!』第2巻あとがきより)
しかしこの作品で興味深いのは、物語が佳境に入って手塚の筆が疾ってくると、改造したはずの投球フォームを忘れて、表現がどんどんとリアルになっていくことだ。
特に、太平の精子から最初に作られた長男(長女?)の未来(みき)が、殺された母親の復讐に向かうシーンなどは、後の『人間昆虫記』や『MW』などにも通じる凄みさえ感じられる。
これについては手塚自身も自覚していて、同じあとがきの中でこう述べている。
「たくさんのこどもむけ連載漫画をかかえているなかに、ひとつやふたつこのように画風をかえてかくと、どうしても劇画ふうのペンタッチがまぎれこみます。この『人間ども集まれ!』にも、そんなゴタゴタした部分があちこちにでています」
そして絵柄が変わったことに気づくとまた次の回では元のナンセンス風タッチに戻しているわけだが、実はそのリアルなタッチの方にこそ、後の手塚流青年マンガの本流が隠されていたということは、当時は本人も気づいていなかったのである。
そして1968年、初めての本格的な青年コミック誌が2誌、創刊された。小学館の『ビッグコミック』(2月創刊)と秋田書店の『プレイコミック』(9月創刊)である。
手塚はこの2誌に、さっそく創刊号から作品を発表している。『ビッグコミック』には『地球を呑む』を、『プレイコミック』には創刊号に読み切りを掲載した後、読み切り連作『空気の底』を発表した。
これらの作品で、手塚はあのナンセンス漫画の筆致とも、劇画の模倣とも違う、新たな青年マンガの画風を誕生させた。
そしてその後、どんどんと増えていった青年コミックの世界で、この画風で次々と傑作を発表していくのである。
ところで天才手塚はこのフォーム改造が成功したことで、その過渡期の産物だったナンセンス漫画風のタッチは捨ててしまったのかというと、さにあらず!
新たにリアルな表現方法を確立したことで割り切りができたのか、ナンセンス表現にも磨きがかかり、『上を下へのジレッタ』などの傑作を生み出したのである。
手塚先生、やはりタダモノではありませんでした。ではまた次回のコラムでもおつきあいください!!