人間の社会を風刺的に描いた手塚治虫の『人間昆虫記』が、ついにドラマ化されました!
今月30日からの放送に先駆けて、今月の虫ん坊では、
エキゾチックな顔立ちと、清潔感のあるほっそりとしたスタイルが印象的な美波さん。蝶を思わせる
美波:はい。手塚治虫さんの作品が家族で好きだったので。「ブラック・ジャック」とか、「火の鳥」などとともに、触れる機会はありました。お話いただいたときはあの絵の世界の中に入れる、ということで本当に嬉しかったです。
手塚さんの作品は、どんな作品の中にも人間の心理をえぐりだすようなところがありますよね。「人間昆虫記」もドラマの撮影に入る前にもう一度読んだのですが、改めて、十枝子目線で読むっていうのが、なんだかぞくぞくしてしまって。
過去にも一度、読んだことがあったのですが、そのときに純粋にマンガとして楽しんだ時の読み方と、十村十枝子を演じることになったあとに読んだ印象とは違っていました。演じるにあたって、私は十枝子をまもらなくちゃいけない役割だから、普通に無責任に「おもしろいな」っていうふうに読めなかったので。どれだけ彼女を弁護してあげられるだろうか、って意識的に考えていました。
美波:十村十枝子に対して、否定的な感情はふしぎとわきませんでした。ただ、エロティックだな、と思っただけで(笑)。読んだのはずいぶん前でしたので。小さい頃に、ピアノの教室においてあったものを読んでいたので、すごく遠くから見ている感じで。大人の社会や、企業の陰謀の話なんかもよく分からなかったし。
あと、手塚治虫さんの原作マンガでは、十枝子の心の闇や、他の登場人物の心の反応や傷を、遠近法をつかった表現とか、画面をゆがませたり、破れた絵を描いたり、と、絵で表現しているじゃないですか。誰かの心が傷ついた、というときも、絵全体でその感じを出している、というか。
今回のドラマでも、そのあたりを忠実に表現しています。——もちろん、ドラマにはドラマのオリジナリティのある表現なのですが。
原作が描かれてから、ずいぶん時間が経っているところも面白くって。ドラマの世界は、現在のリアルではなく、また別の時間の感じがして。十枝子も、原作どおりだと話し方とか、けっこう昭和タッチだったから、最初に監督とお会いして、台本を読んでいくときに、そんなところも「どうしましょう?」ってお話したんです。もし、今の現実に近づけるんだったら、現在の表現に変えたほうがよいのか、それとも、十枝子の生き方や考え方、というのは多分変わらないから、この話し方は彼女のものとして、そのままでいいのかどうか、というところが知りたかったのです。すると、監督は、「昔に描かれた作品を現在にもちこむのではなく、むしろ近未来のような感じにしたい」とおっしゃって。だから、衣装だったり、小道具といったものが、現在と似たような、でもちょっと違う世界のお話にしたい、と。すべて撮り終わったあと、完成した作品を見てみて、どこかそこの違う時間が回っている、違う地球というか、世界をのぞき見ている感覚がありました。
美波: 迷いがないところ。よく、なにか踏み切る前って、理性的に考えたりすると、一歩引いてしまって。最初に思いついたことや、やると決めたときの勢いが削がれてしまいますが、それに対して、十枝子は気持ちいいぐらいに思い切ってやっていくんです。そこは演じていても気持ちがよかったです。
普段の私には出来ないこともやってしまう。人殺しまでやってしまう。でも、彼女は決して人をバカにしているわけじゃないから、男性を貶めてやろうとか、やりこめてやろう、とかそういうのはあまりないとおもうんです。他人からみると、そう見えるかも知れないけど。ただ、ある場所に達するために必要な行為だから、結果的に周りの人を陥れてしまう。
彼女は多分、なにか一つモラルの一部を身体で習わずに成長しちゃったんだと思うんですよ。それは、親から教わるものなのか、社会生活のうちから習うものなのだと思うのですが、ひとつすごく……欠けている、というか、知らないというだけで。
一つ、難しかったのは、しじみ役と十枝子役の両方を演じなければならなかったこと。
十枝子に対して、ふしぎだな、と思ったのは、十枝子って、自分の生き方を否定したら、すべて崩れてしまう人なんだな、って思ったんですよね。すごくぎりぎりのところで生きていて。誰も賛同もしてくれないし。だから、本当はこわいのよね、すごく。
十枝子はしじみと対面して、「まけた」っておもったの。しじみにすごく嫉妬してしまったし。
そんな十枝子と、しじみを二役で演じることで、なんだかぐちゃぐちゃになってしまって。
わたしはいつも、十枝子をまもらなくては、理解してあげなくちゃ、と思っていました。十枝子、という新しいキャラクターを私が作る、という感じでは、その役から離れちゃう気がしました。なので、そういうことはあまりやらないようにしました。
美波: はい。撮影は1ヵ月半でしたし、髪型とかメイクも頻繁に変えていったのが大変だったですね。ごはん休憩中に髪の毛をメイクしたりとか、撮影中には気を抜けなかったです。
美波: それぞれに一本の軸を持つ、ということだと思います。十枝子は変化が出来る役柄だったから、たとえば釣り竿があれば、釣り針を自由にいろいろなところに投げ入れられるように、一つ軸をつくれば、けっこう遊べちゃうんですよね。女性って、けっこう、演じちゃうところがあるじゃないですか。それが十枝子の場合、自由にできちゃうんです。まず十枝子にある軸を一つ、与えて。
十枝子の軸はおそらく、「ほしいものにピュアであること」だと思うんですよね。それは、その人がほしいんじゃなくて、その人の“もの”がほしい。だから嘘も、罪悪感もなく平気でつけちゃうんです。「ほしい」というきもちは正直なものだから。
しじみの撮影は中盤ぐらいからだったから、ひとつ十枝子を作っておけば、彼女は十枝子の対比の役、つまり、十枝子にないものを持っている役として、わかってくるんですよね。
「居場所」とか、「人を認められること」とか、「弱さに対して素直になれる」とか。その、十枝子にないものの塊をしじみに投影していったんです。
また、京都弁は役の切り替えにすごく助かりました。方言じたいはとっても難しかったけど。ことばづかいが違う、というのは、すごく助かった部分でした。
私自身は、しじみよりも十枝子寄りの考えでした。しじみって、自分からは何の行動も起こさず、全部受身的なのに、ほしいものはちゃんとつかんでしまう(笑)。それが、十枝子としてはうらやましくもあり、ゆるせなくもあり、かなわないなあ、って思っていて。
十枝子の感情がうごけばうごくほど、しじみが強く見えるんですよね。じっと、そこにいる、っていうのも、強さだと思う。
面白いのが、しじみ役でARATAさんの演じた水野さんといるのと、十枝子で接するのと、ぜんぜんちがうんですよね。やっぱり。ARATAさんも、しじみのときは、すごいほっとする、って言ってました(笑)。
美波:そうですね……。何か自分で発見したあとって、前の自分のことを思い出せないものじゃありませんか?
でも、ラストシーンを撮った時、……ラストシーンは、クランクアップの何日か前に撮っていて、最後に撮ったというわけではないんですけど、このシーンに到達したとき、どんなふうに思うかな? 感じるかな? どんな気持ちがわくんだろう? っていうことには、ものすごく興味がありました。
それは悲しい感情なのか、「これからいく」っていう感情なのか分からなかったのだけれども、実際撮ったときに、悲しくもなく、「これから」というのでもなく、ただ、にごってはいるんだけど、ふっきれた部分もあって…とてもふしぎな感じでした。
十枝子の人生がこれで終わりというわけではないから、最後のカットだからって、こうしよう、なんてことは絶対したくなかったし。これからもつづいていくんだなあ……っていう感じ。
私があの終わり方で好きなのは、あそこで終わり、というのではなく、その先を感じさせるところです。渋谷の人ごみというのが、また監督もおしゃれだなあ、とおもって。皆のなかに溶け込んでいく、というか。
十枝子の生き方や人生は、皆も少しずつ持っている感情だったり、欲望でもあるんですよね。だから物語はあそこで終わりではない、ということで。
美波:十枝子って、生まれたときからではないかも知れないけど、根っからの女優さんですよね。そこがすごい、と思います。
私自身、最近感じていることに、役を演じるにしても、絵を描くにしても、感覚を扱うことについてなにか不確かな引っ掛かりを感じていて。ふしぎなことに、お芝居をしていても、絵を描いていても似たようなひっかかりがあるんです。でも、それがいったいなんなのか、はっきりは分からなくて。
今後はそれをもっと、追求していきたいな、と思っています。
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