1960年代半ば、水木しげるの妖怪マンガ『ゲゲゲの鬼太郎』のヒットをきっかけに少年マンガ界に起きた妖怪ブーム。手塚治虫はこの人気作への対抗心から妖怪マンガ『どろろ』の連載を始めたと言われていた。だけど『どろろ』誕生の理由は本当にそれだけだったのか!? 今回は当時の妖怪ブームの中でも異彩を放った傑作『どろろ』誕生のあのころにスルドク迫ります。またこの作品の連載当時、手塚治虫に妖怪のアイデアを提供した長男・手塚眞氏の貴重なインタビューもあるでよ!!
今回は、1967年から68年にかけて『週刊少年サンデー』に連載された、手塚治虫の妖怪マンガ『どろろ』がテーマです。
舞台は戦国時代。体の48ヵ所を魔物に奪われ、それを取り戻すべく旅をする青年・百鬼丸。その旅の途中で彼は孤児の泥棒少年・どろろと出会う。やがてふたりはともに旅をするようになるが、その行く手には次つぎと恐ろしい妖怪たちが立ちはだかるのだった!
この作品について手塚は、当時大ヒットしていた水木の妖怪マンガへの対抗心から『どろろ』を描いたと、かつてよく語っていた。実際、『どろろ』のあとがきにも次のように書いている。
「ぼくは人一倍負けん気が強く、たとえば漫画でも、ある作家が一つのユニークなヒットをとばすと、おれだっておれなりにかけるんだぞ、という気持ちで同じジャンルのものに手を出す、おかしなくせがあります。
というわけで「どろろ」は、水木しげる氏の一連の妖怪もののヒットと、それに続く妖怪ブームにあやかって(?)作り上げた、いうなれば、きわものです」(講談社版全集第150巻『どろろ』第4巻あとがきより)
これを読むと、手塚は妖怪マンガの大ブームが巻き起こっている最中に後追いで『どろろ』を発表したように読める。
でもホントにそうだったんだろうか。『どろろ』の連載が始まったのは『週刊少年サンデー』1967年8月27日号からだ。
ところがこの時点では、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』も、いまだ旧タイトル『墓場の鬼太郎』のころだった。
水木しげるの『墓場鬼太郎』シリーズは、もともとは貸本漫画として描かれた作品だった。1960年に兎月書房から刊行された単行本全5巻がその始まりで、その後、三洋社へ移って『鬼太郎夜話』全4巻などが刊行されている。
その水木が『週刊少年マガジン』に初めて『墓場の鬼太郎』の読み切り作品『手』を発表したのは1965年8月1日号のことだ。
以後、水木は同誌で、おおよそ月イチペースで『墓場の鬼太郎』の読み切りを発表していくが、当初の人気は、それほど高くなかったという。
その人気が少しずつ盛り上がりはじめたのは、水木が『墓場の鬼太郎』と同時期に『週刊少年マガジン』に連載していた『悪魔くん』が、1966年から67年にかけて、東映の製作でテレビドラマ化されたころからだ。
これによって『墓場の鬼太郎』の人気も高まってゆき、折からの怪獣ブームに妖怪ブームが重なって、少年たちの注目が妖怪ににわかに集まった!
そしてタイトルも『少年マガジン』1967年11月12日号からは『ゲゲゲの鬼太郎』に改められ、1968年1月、フジテレビ系列でテレビアニメの放送が始まると、いよいよ本格的な妖怪ブームが始まったのである。
つまり『どろろ』の連載開始は、いわゆる妖怪ブームの時期よりも半年から1年も早かったのだ。
ではなぜ手塚は先に紹介したように「ブームにあやかったきわもの」などと書いたのか。その秘密は、手塚の流行を感知するアンテナの感度にあったとぼくは見ている。
これまでも何度か紹介してきたけど、手塚の流行をとらえるアンテナの鋭さには驚くべきものがあった。ときには未来の流行さえも先取りしてしまい、誰もついていけない作品を描いて読者をポカンとさせたことも間々あった。
作品の発表から数年後、ときには数十年後になってやっと時代が手塚マンガに追いつき、手塚がやりたかったことがぼくらにも初めて見えてくる。そんなことは一度や二度ではなかったのだ。
前回のコラム第26回「手塚萌えの異色作『プライム・ローズ』の時代!!」で紹介した『プライム・ローズ』も早すぎた手塚マンガの好例だろう。
そしてこの妖怪ブームのときも、手塚のアンテナは来たるべき妖怪ブームをいち早くとらえていた。だから手塚自身は「ブームにあやかった」ととらえられていたとしても、さっきも書いたように実際のブームがやってきたのはもっと後のことだったのだ。
まーでも、一方では、このころすでに放送されていた東映の特撮テレビドラマ『仮面の忍者赤影』などにも妖怪は登場してきていたし、楳図かずお『猫目小僧』の連載も始まっていた。つまり妖怪がブームになりつつある徴候は少なからずあったのだ。
だからこと妖怪に関して言えば、手塚の流行アンテナがとびぬけて優れていたとは必ずしも言えないかも知れない。
でもコレは現在の視点から過去を振り返っているから見えるものであって、1967年の前半に、その後の妖怪ブームを予見した人というのは、恐らくほとんどいなかったんじゃないだろうか。
そんなことからも、この『どろろ』というマンガが、単に成熟したブームを後追いした作品じゃなかったということは、ぜひ皆さんの記憶にも記録にもとどめておいていただきたいのである。
さて、こうして始まった手塚治虫の『どろろ』。このマンガの魅力はいろいろある。中でも最大の特徴は、主人公が体の48ヵ所を妖怪に奪われた青年だったという、読者の想像をはるかに超えたすさまじいキャラクター設定だろう。
だけど今回は、この作品のもうひとつの魅力である、数多く登場するオリジナル妖怪に注目したい。
水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくる妖怪たちは、その多くが日本に古くから言い伝えられてきた伝説や伝承に残る妖怪たちがベースとなっている。
それに対して手塚は『どろろ』に完全オリジナルの妖怪を数多く登場させてそれに対抗した。
「金小僧」「白面不動」「マイマイオンバ」など、いずれも個性的でいかにも戦国時代に現れそうなムードや造形が実にチャーミングな“もののけ”たちだった。
そんなオリジナル妖怪たちの中で、とりわけ異色の出自をもった妖怪がいる。連載の終盤に登場した「四化入道」がそれだ。
四化入道というのは、入道という名の通りふだんは僧侶の格好をしているが、その正体は、野ねずみやカエルやカワウソなどの獣たちが寄り集まってもののけ化した妖怪だった。
この「四化入道」の原案を考えたのは、当時、まだ6歳で幼稚園から小学校へ上がったばかりの手塚治虫の長男・手塚眞氏だった。
このことはファン大会などで手塚治虫自身が語ったこともあるし、オールド手塚ファンの間ではわりと知られた話である。
しかーし! じゃあジッサイのところ、眞氏はどのような形で手塚治虫にアイデアを提供し、手塚はそれをマンガのキャラとして昇華させたのか。そこまで知る人は少ないんじゃないだろうか。
ということで今回は、手塚眞氏本人から直接お話をおうかがいすることにしたっっ!!
大変遅くなりました。ではここで手塚眞氏にご登場いただきましょう! 手塚眞さん、どうぞーーー!!
「いやー、黒沢さん、なかなかお呼びがかからないんで、もう帰ろうかと思っちゃいましたよ(笑)」
あーーっすいません、『どろろ』はぼくもリアルタイムで読んでいて大好きな作品だったんで、ついつい前置きが長くなっちゃいまして……(大汗)。
で、さっそくですが、眞さんは四化入道のアイデアを手塚先生にどのように提供されたんですか?
「それはですね、現物を見てもらった方が早いと思うんですけど、当時、ぼくは自分でこんなものを作っていたんですよ」
そういって眞氏が取り出したのは、布表紙の古びた1冊のダイアリー(日記帳)だった。
表紙にはマジックインキで『ババー百鬼』と手書きされている。その中を開くと、ダイアリーだから365ページ以上あるその各ページに、さまざまな怪獣や怪物、宇宙人、妖怪の絵がていねいに手描きされている。
まずはその数に圧倒されるが、一体一体見ていくと、テレビや映画で見たことのある怪獣の模写も数多くある中で、それ以上にオリジナルの怪物も多数描かれている。また、その柔軟で独創的な発想には舌を巻くほどだ。
眞さん、これはいつごろ描かれたものなんですか?
「これは一気に書いたものではなくて、確か幼稚園のころから小学校の低学年ごろまで、2〜3年かけて書いたものだったと思います。
当時ぼくは怪獣が大好きでしたから、自分で好きな怪獣などをこうしてコツコツ描きためていたんです。黒沢さんもご存知だと思いますが、当時、怪獣の図鑑が流行していたでしょう。あれを自分で作りたいと思っていたんですね。
そこへしばらくすると妖怪ブームが起きてきて、妖怪の絵も混じってきて何だかよく分からない図鑑になっちゃいましたけど(笑)」
そして眞氏はダイアリーのあるページを開いて見せてくれた。
「これが、父が四化入道の参考にした妖怪です」
絵の横には「死毛」と書かれている。
眞さんがこれを手塚先生に見せて、それで先生がマンガにされたんですか?
「いいえ、そのためにわざわざ見せたわけではないんです。手塚家の家族関係というのはちょっと変わっていましてね。例えば家族が同じリビングにいても、それぞれ別々のことをしているんです。それでお互いに相手を意識しつつも干渉はしないという微妙な距離感があるんです。
そんな中でぼくは一所懸命この図鑑を描いていて、父も近くで「ああ眞がまた何かやってるな」というのは横目で見ているけど何も言わないという……。
そんな中で、『どろろ』の連載がそろそろ終わるというころになって、父がある日「眞、あれ貸して」と言う感じでぼくに言ってきたんです」
眞さんの描いた「死毛」はモグラに似てますね。
「ええ。ぼくはもぐらの妖怪のつもりで描いたんですが、父が四化入道にしたときにネズミやカワウソが寄り集まった妖怪というふうにアレンジしたんですね。
あと、その段階で父は鳥山石燕の『百鬼夜行』に出てくる「鉄鼠」のイメージも参考にしたようです」
鳥山石燕というのは江戸時代に活躍した妖怪画の大家ですね。
「今日、ぼくのノートと一緒にある本を持ってきたんですが、これは当時、父が持っていた鳥山石燕の『画図 百鬼夜行』という本です。ここにも「鉄鼠」が描かれていますから、父は恐らくこれを参考にしたんだと思います」
これは手塚先生の蔵書だったんですね。
「そうなんですけど、ぼくもこの本は大好きでしたので、父の部屋へ入っては引っぱり出して見ていました。それで今はそのまま勝手にぼくの蔵書にしてしまったんです。まあ父もぼくの妖怪好きは認めてくれていましたから、きっと怒らないだろうと(笑)」
眞さんは手塚先生のマンガになった四化入道を見てどう思いましたか?
「父が描くとこうなるのかあ、と思ってものすごく興味深かったですね。
父の描く妖怪には元ネタがあるものでもないものでも、独特の個性がありますよね。それは『どろろ』の前に『少年サンデー』に連載していた『バンパイヤ』もそうですし『どろろ』以後の作品に出てくる妖怪たちもそうですけど」
なんかみんな“なまめかしさ”がありますよね。手塚先生が製作に関わった東映動画の長編アニメーション映画『西遊記』(1960年公開)のときも、先生はオリジナルの妖怪をたくさん登場させていますし。
「そうなんです。父は時代の流行に敏感だったから、『どろろ』のときは、たまたま妖怪ブームが来たから妖怪の話を描いたけど、そのルーツとなる元ネタはすでに自分自身の中に蓄積されていたんだと思います」
眞さん自身の妖怪のルーツはどこにあったんですか? やはり水木しげるのマンガの影響が強かったんでしょうか。
「それがぼくは水木しげるさんのマンガそのものにはあまり影響されなかったんです。ただ『少年マガジン』の増刊で水木さんがイラストを描いた『日本妖怪大全』という妖怪図鑑があったんですが、これはものすごく好きでした。今でも大切に持っていますよ。
あとは何といっても大映が製作した映画の妖怪三部作です。『妖怪百物語』『妖怪大戦争』(ともに1968年公開)、『東海道お化け道中』(1969年公開)の3本ですね。これがぼくの妖怪好きの原点なんです。
もっともこれもきっかけは怪獣映画でして、大映の『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』の併映作品が『妖怪百物語』だったんです。それで、それを見てはまってしまったという流れですね」
なるほどー、眞さんの中で怪獣と妖怪が共存している理由がよく分かりました!
ところで、眞さんと手塚先生のコラボレーション作品は、実はもうひとつあるんですよね。しかもそれも妖怪がテーマだという。
「はい。今度はぼくの作品でして1986年に『妖怪天国』という映画を撮ったときに、父に役者として出演してもらったんです」
この作品はオリジナルビデオ映画という、当時としては非常に珍しいスタイルの作品だったそうですよね。
「そうなんです。当時はまだVシネという言葉もなかった時代で、ビデオで撮り下ろしの映画を作るということ自体が新しい試みだったんです。
それでどうやって売り出したらいいか、あれこれ考えて、劇場映画とは違う仕掛け作りが必要だろうと。それで、妖怪マンガを描いているマンガ家にたくさんゲスト出演してもらったらどうだろうというアイデアを思いついたんです。
それで父から各先生方に話をしてもらって了解をいただいて、一緒に父にも出てもらうことになったんです」
手塚先生は、おでん神社の神主という奇妙な役柄でしたね。神社の賽銭箱の中で、おでんがグツグツ煮えていて、楳図かずお演じる百姓の権介がそれを盗もうとしてやってくるのを神主がひたすら追い払うという……。
「奇妙といったら、出てくる人物や妖怪はみんな奇妙なキャラクターたちばっかりなんですけどね(笑)」
このときのことを手塚先生もエッセイに書かれていますので、ちょっと引用してみますね。
「カツラをかぶり、白無垢の着物と袴をつけたところは……われながら実に神主然としている。
「よくお似合いで……」
「うーん、そういえばぼくの先祖はもと神主なんだそうですよ。諏訪神社の神主だったそうです」
「えっ、ほんとうですか。どうりで……」
と感心されているうちに、出番になる」(講談社版全集第398巻『手塚治虫エッセイ集8』「『妖怪天国』出演の記」より。※初出は1983年の『キネマ旬報』)
このあと手塚先生はメガネを外した状態で何も見えないままに演技をさせられ、おまけに腹も減ってきて大変だったとあれこれグチを述べているが、そんな中にも息子の映画を心から応援している様子がうかがえて微笑ましい。
こうして手塚父子は片やマンガ家として、片や映像作家として、それぞれが別々の道を歩みつつ、“妖怪”を共通項として2つの交点を結び、そこで2つの作品が作られた。
そこに生まれた作品そのものの魅力もさることながら、こうした背景を知ることで、作品により血が通ってくるように感じられるのはぼくだけではないでしょう。
最後に、眞さんから『どろろ』に関してもうひとつ、興味深いお話をしていただいたのでそれを紹介して今回の締めといたしましょう。
「『どろろ』について、家族の間でいまだに謎なのが「どろろ」の語源についてなんです。
父はこれを「ぼくの子どもが、どろぼうのことを片言で“どろろう”といったことからできた」と書いているんですが、実際にそれを誰が言ったのかが分からないんですよ。
ぼくが言ったのなら父は「子どもが」とは書かずに「息子が」って書くと思うんです。
じゃあ親戚の子どもかっていうと、それも思い当たるような年齢の子はいないんです。父の妹の美奈子さんには娘さんがいますが、当時はまだうんと小さかったはずで、ほとんど言葉もしゃべれなかったんじゃないかと。
それに「どろぼう」なんて、子どもが日常的に使う言葉じゃないですよね。いったいどんな状況で言ったんだろうかという疑問も残ります。
ただぼくが小さいころ、うちに泥棒が入ったことがありまして、もしかしたらそのときに誰かが「どろろう」と言ったのかも知れません。あるいはそう言っていなくても、父にはそう聞こえたとかですね。
ちゃんと確かめておけばよかったんですが、今となっては謎のままなのも、それはそれで面白いかなと思っています」
眞さん、貴重なお話をありがとうございました!!
ではまた次回のコラムにもおつきあいください!!