今月から3回にわたり、夏休みスペシャル企画として北海道を巡ります。日本各地を舞台にマンガを描いている手塚治虫先生ですが、北海道にはとりわけ関心が高かったようで、この美しい北の大地を舞台とした名作マンガをいくつも残しています。今回はそんな名作の舞台を巡りつつ函館を出発、昭和新山から一気に道東までを走ります。いざ出発進行!! みんな乗り遅れるなよ~~~っ!!
みなさん夏休み楽しんでますかーーーっ? ってまだ気が早いですかそうですか。いやーもうね、北海道遠いです。東京から青森まで車で10時間。そこからさらにフェリーに乗って3時間半。金曜日の夜中に家を出て日曜日の未明にやっと函館に上陸しました。
今回は1日ごとの移動距離が大きく、かつさんぽ行程に不確定な部分があったため、全コースのほとんどを車で移動しています。電車やその他の交通機関を利用して現地を巡る場合には、運行ダイヤなど事前の準備をしっかりとしてください。
ということで北海道さんぽ前編はJR函館本線・函館駅からスタートだっ。
2016年3月、北海道新幹線が開通し新青森駅から新函館北斗駅までの運行が始まった。だけど今回の虫さんぽであえて函館駅を出発地点にしたのには意味がある。現在はすでに終了しているが、2017年3月から5月までここ函館駅前にある「はこだてみらい館」で、『手塚治虫と描くみらい展』という企画展示イベントが開催されていた。訪問日がまさにその開催期間中だったのでぜひとも立ち寄りたい、ということでここがスタート地点となったのである。
はこだてみらい館は函館駅の真ん前の商業ビルキラリス函館の中にある。エレベーターで3階へ上がるとすぐに受付があり、チケットを購入して入館する。
館内には手塚マンガの複製原画や貴重な本などが展示され、手塚マンガが読めるライブラリーコーナーなども設けられていた。館内は土足禁止で靴を脱いで上がるので、小さな子どもがじゅうたんの床に直接座り手塚マンガを読んでいる光景がじつにほのぼのとしていて微笑ましい。
また個人的にはスタンプラリーが楽しかった。館内に隠すように置かれた4箇所のスタンプをすべて集め、受付に提示すると手塚キャラの缶バッジがもらえる。ぼくも小さな子どもを押しのけての後ろに並んでスタンプを集め、リボンの騎士のチンクの缶バッジをもらった。
続いて向かったのは、幕末から明治へという激動の時代に起こった箱館戦争の舞台「五稜郭」である。
五稜郭は徳川幕府が安政4(1857)年に蝦夷地での威信を誇示する目的で建設を始めたもので、中央にはこの地を管轄する箱館奉行所が設けられた。
ところが明治元(1868)年、旧幕府海軍の副総裁だった榎本武揚が新政府の軍門にくだるのをいさぎよしとせず、脱走軍およそ3000名を率いてここへ立てこもった。そして7ヵ月の激戦の末、明治2(1869)年5月17日、戦争は脱走軍の降伏で終結した。榎本は東京へ移送されて投獄されたが、後にその才能を買われて明治政府の要職を歴任、日本の発展に力を尽くした。
ここ五稜郭が作中に出てくる手塚マンガは1974年から76年にかけて雑誌『ビッグコミック』に連載された『シュマリ』だ。妻を奪った男を追って北海道を放浪する男・シュマリ。だがようやく追いつめた男は洪水であっけなく命を落してしまう。目的を失ったシュマリは果たしてどこへ行くのか──。まるでアメリカの西部開拓時代のような明治初期の北海道を舞台に、壮大でどこか悲しい冒険物語が展開する。
この『シュマリ』で五稜郭の話題が出てくるのは冒頭の物語が始まって間もないころだ。シュマリの時代の北海道では、榎本武揚が降伏する直前に莫大な軍資金をどこかへ隠したという噂が広まっており、一攫千金を狙う強欲な人間たちがそれを血眼になって探していた。
その軍資金の隠し場所を知っていると疑われたシュマリに次々と怪しい人物が近づいてくる。そしてシュマリは独自の情報網を駆使してついに軍資金のありかを知る人物を突き止めた。果たしてそのありかとは──!?
函館駅から五稜郭へ行くには函館市電を使う方法と函館バスに乗る方法がある。市電の場合は「五稜郭公園前」で下車し徒歩15分ほどで到着。函館バスの場合は「五稜郭公園入口」で下車して徒歩7分ほどである。
五稜郭は明治政府の時代には練兵場として使われていたが、大正時代に公園として整備された。現在は公園の南端に五稜郭の全景を見下ろせる五稜郭タワー(二代目)が立っている。
まずは五稜郭タワーに登って五稜郭の全景を見てみよう。展望料金を払い、エレベーターで地上90mの展望2階へ向かう。展望室は回廊になっているので周囲360度どちらの方向も見られるんだけど、なぜかある一方向にだけお客さんが集まっている。そのお客さんたちの視線の先にあるもの。それはもちろん五稜郭だ。ここから見下ろすと星形をしたその美しい全景が一望できる。
後でもちろん園内も歩く予定ではあるが、地上を歩くだけでこの全景をイメージするのは難しい。なので、五稜郭へ来たらぜひ五稜郭タワーにも登ってみていただきたい。
ちなみに展望室は2階建てになっていてエレベーターで最初に到着するのが展望2階だ。帰りはそこから階段を降りて地上84mにある展望1階から下りのエレベーターに乗ることになる。
ここで裏技を発見! 展望2階の五稜郭側には大勢の人が常に群がっていて五稜郭をゆっくり見ていられない。ところが展望1階は、上の階とくらべたらほとんどガラガラと言っていいほど空いているのだ。高さの差はわずか6m。ここなら遠慮がちで奥ゆかしいあなたも五稜郭の風景をひとり占めできますよ。
続いてタワーを降りて五稜郭公園の園内へ向かおう。五稜郭は桜の名所としても有名でおよそ1,600本もの桜が植えられているという。そしてさんぽ当日はまさにその桜が満開の時期だったので多くの花見客と団体さんで大変な混雑となっていた。
そんな中、首からカメラをぶら下げてひとりで園内をぶらぶら歩いていると、記念写真のシャッターを押してくれと頼まれる頼まれる。「いいですよ」と笑顔で引き受けたら、我も我もとたちまち行列が出来てしまい、途中から「有料です」と言おうかと思ったほどだった。
桜色の喧噪に包まれた五稜郭を後にして、ここからは車で道央自動車道に乗って一気に200kmほど北上し、次の目的地を目指す。
次に向かうのは北海道有珠郡
昭和新山は太平洋戦争真っ直中だった昭和18(1943)年に有珠山東麓で火山活動が始まり噴火によって畑地が隆起し、わずか2年ほどで誕生した山である。
この新しい火山にまつわる物語を手塚先生は2度マンガとして描いている。
1度目は1976年、雑誌『週刊少年チャンピオン』に掲載された『ブラック・ジャック』第147話「昭和新山」だ。珍しい石を求めて昭和新山の立ち入り禁止区域へ入ってしまった男が、右腕を岩に挟まれて動けなくなった。救助要請を受けた医者がヘリコプターで男の所へ向かったが救出できず。そこへたまたま居合わせたブラック・ジャックが3百万円で救出しようと名乗りを上げた。
火山ガスが渦巻く危険な場所でB・Jは男に代金支払いの誓約書を書かせ、腕の切断手術を開始する!!
そしてもう1作がその3年後の1979年に雑誌『ビッグゴールド』に掲載された100ページの読み切り『火の山』である。お話の舞台はまさに昭和新山誕生のころだ。
物語は三松正夫氏という実在の人物を主軸とし、本州で食い詰めて北海道へやってきた流れ者の男・井上
三松正夫氏は昭和新山が活動を始めた当時、壮瞥村で郵便局長をしていた。だが自分がいま歴史的な火山生成の現場に立ち会っていることを知った正夫氏は、たったひとりでこの山の活動記録を取り始めた。そして後年にはこの山を守るために私財をなげうって私有地化し、生涯をこの山の研究と保護に捧げたのだった。
『火の山』を描く前、手塚先生は1977年8月に始まった有珠山の噴火活動継続中に現地取材に訪れている。正夫氏は1977年12月に亡くなっており、取材に随行して手塚先生を案内したのが正夫氏の息子の三松三朗さんだった。
息子と言っても三朗さんは正夫氏と血縁はない。京都生まれの三朗さんは北海道の帯広畜産大学へ入学して獣医になるための勉強をしていた。だがそのころに知り合った三松正夫氏の昭和新山に賭ける思いと人間性に魅せられ、正夫氏の元へ足しげく通うようになった。やがて正夫氏の孫娘と結婚して三松姓を名乗り、正夫氏の業績を後世に伝えることを生涯の仕事に選んだのである。
手塚先生が昭和新山の取材にこの地を訪れたのは、三朗氏が正夫氏からバトンを託されたちょうど1年後のことだった。今年80歳になった三朗さんは現在、昭和新山のふもとで個人経営の資料館「三松正夫記念館」をたったひとりで運営されている。
ということで三朗さんにお話をうかがうべく「三松正夫記念館」を訪ねた。
記念館の玄関を入ると、三朗さんご本人がすぐに出迎えてくださった。朝一番に訪ねたのでお客さんは誰もいなかった。5月とはいえ道央の山間部はまだ寒く、事務室には石油ストーブが赤々と燃えていた。
「遠いところよく来てくださいました。天気が良くてよかったですねえ。今日は昭和新山の山頂もはっきりと見えますよ」
ストーブを挟んで座った三朗さんは、ゆっくりした口調でこう語り出した。一時は医者の道を志していたという三朗さんは、お医者さんらしく温厚で、話を筋道立てて分かりやすく語ってくださる方だった。さっそく手塚先生が取材に訪れたときのことをうかがった。
「ある日、手塚プロの方から電話がありましてね、手塚先生が取材をされたいと。それで私の方もすぐに準備を始めて、後日1泊2日のご予定で取材に来られました。
手塚先生はその前に『ブラック・ジャック』でも昭和新山のお話を描いておられますから、昭和新山についても三松正夫についても基礎知識は持っておられて、私が車で案内しますと『ああ、ここが当時の郵便局ですか』などとひとつひとつ確認しては納得されているご様子でした。
昭和新山はあらゆる角度から見て、同行された方がたくさん写真を撮っておられましたね。手塚先生はカメラではなくスケッチブックを持っておられたと思います」
手塚先生が特に突っ込んで取材されていたこととか、何かありましたでしょうか。
「正夫は何のためにこんな研究を始めたのか、そこにはどんな思いがあったのか、山を守ってその後どうしようとしていたのか。正夫の行動の根底にあった“思い”について特に詳しく知りたがっていました。
日本が戦争をしているさなかに戦争と全く関係ない火山の記録など、当時はそんなことをしているだけで激しく非難される時代でしたからね。そんな時代に正夫の心を突き動かしていたものは果たして何だったのか、手塚先生はそんな正夫の気持ちを強く知りたがっておられたんです。
手塚先生も戦争中にマンガを描いておられたでしょう。そのころは人に言えない辛いことが相当あったはずです。正夫もそうでしたからね。手塚先生はそんな自分の姿と正夫の体験とを重ね合わせて見ていたのかも知れませんね。
ある時代の中では悪として非難されても、時を経ればきっとその価値を分かってくれる人が増えるはず。手塚先生がそんな正夫の思いをくみ取ってくださろうとしていることは、私としても、ものすごくうれしかったですね」
さて、ここでもうひとりのゲストに飛び入り参加いただこう。1978年当時、小学館の『少年サンデー』で編集者をされていて、手塚先生の『火の山』の北海道取材に同行された白井康介さん(66)である。
1974年に小学館へ入社した白井さんは『ビッグコミック』に仮配属され、当時連載が始まったばかりだった『シュマリ』の担当になった。後に数多くのマンガ家を担当することになる白井さんですが、編集者人生は手塚番から始まったんですね。
「ぼくが『シュマリ』を担当したのは連載2回目からです。ちょうど上がったばかりの第1話の原稿を読まされて、2回目からお前がやれということで担当になりました。
しかし手塚先生が『火の山』を描かれたころは『少年サンデー』編集部に移っていました。だけどちょうどサンデーが1000号記念で様々な企画を立てていたときで、手塚先生にもぜひ読み切りを描いていただきたいということで手塚プロに通ってたんです。
そうしたら近々北海道へ取材旅行に行くからその時に一緒に来れば打ち合わせができますよというので、ならば行きます、という話になったんです。同行したのは確かビッグコミックの担当編集者と当時手塚先生のマネージャーだった松谷(孝征 現・手塚プロ代表取締役社長)さんのおふたりだったと思います。
ところが出発当日になっても例によって手塚先生は仕事が終わらなくて、我々3人で先に洞爺湖畔の宿に泊まってずっと先生が来るのを待ってまして、結局先生は1日遅れで合流しました。
もちろん昭和新山へはぼくも行きましたが、なぜか手塚先生と一緒にそこを歩いた記憶がないんですよ。もしかしたら手塚先生とは別行動を取っていたのかなぁ。当時、洞爺湖の湖畔に美味しい天丼屋さんがありましてね、そこで海老天丼を食べた記憶はあるんですけどね(笑)。だけど残念ながらそのお店はもう閉店してしまったのでさんぽはできません」
『少年サンデー』のマンガの打ち合わせはうまく行ったんですか?
「とくに打ち合わせなんてないんですよ。行ってご挨拶してよろしくというくらいで。けれども手塚先生からタイトルを教えてもらいましたよ。朝食の時、先生は『朝の踏切』っていうタイトルはどうですか? って言われましてね。聞いたことないでしょ。作品になったときのタイトルは『ころすけの橋』になりましたからね」
なるほど! 『ころすけの橋』はカモシカの子どもが橋の踏み板に足が挟まって抜けなくなるというお話でしたが、最初は橋ではなく踏切を舞台として考えていたのかも知れませんね。
「その時手塚先生は本気か冗談か、“ころすけの橋”ではなく“こうすけの橋”にするとおっしゃったんです。つまり私の名前です。それは恥ずかしいから絶対やめてくれって言って、それで『ころすけの橋』になったんです」
手塚先生はそういう楽屋落ちのお遊びと言いますか編集者サービスもたまにやられますよね。もったいない。ぼくだったら自分から頼んでも名前を使ってもらうところです。白井康介さん、ありがとうございました!!
ここで再び三松三朗さんのお話に戻ろう。三朗さんは、完成した『火の山』をお読みになって、どんな感想を持たれましたか?
「北海道らしい、壮瞥らしい、昭和新山らしい物語になったなと思いました。手塚先生が来られたのはわずか2日間でしたけど、先生はその取材をきちんと生かされて、実際の風景やここに生きる人々の暮らしがそこかしこにさりげなく描かれていましたのでね。
それから手塚先生は自然保護を早くから訴えておられた方ですから、そういう方に昭和新山をこのようなマンガにしていただいたことがとてもうれしかったです。
『火山は災いではない』というのが正夫の考え方でした。火山は人に多くの恵みをもたらしてくれる。時には人間に対して牙を剥く時もあるが、長い目で見ればそれも恵みのひとつだというのですね。恵みをもらって生きている以上、災いにも心を配れ、それが正夫の教えでした。手塚先生の『火の山』にはそんなメッセージも確かに込められていました。
そして何よりうれしかったのが正夫の熱い思いをそのまま描いてくださったことですね。正夫は無口で人づきあいの苦手な人でしたので、山と資料は残しましたが、彼の熱い思いというのは誰かが語らないと残らないんですね。忘れ去られてしまうんです。それを手塚先生がこうしてマンガとして残してくださったことで、それを知ることができる。大人マンガですから子どもには読ませにくい部分もありますが、ぜひ多くの人に読んでいただきたいですね」
ときおり天井を見上げては遠い過去の記憶をたぐり寄せるようにしながら三朗さんのお話は続いた。ストーブの火は暖かく、おとぎ話を聞いているような時間はあっという間に過ぎた。こうしていつまでも三朗さんのお話をうかがっていたい気がしたが、ぼくは次の目的地へ向かわなければいけない。
三朗さん、今日はありがとうございます。三松正夫さんが守った昭和新山を見学させていただいて次の目的地へ向かいます。
「そうですか、ではお気をつけて。駐車場の先にくま牧場という施設がありますので、そのあたりから昭和新山を見上げてみてください。『火の山』にちょうどそこから見た風景が描かれていますから」
三朗さんは帰りもぼくを玄関まで見送ってくださった。そして記念館を後にしたぼくの姿が見えなくなるまで、玄関の前に立っていつまでも手を振り続けてくれたのだった。
ここからは再び高速道路に乗って450km先の湖、屈斜路湖を目指す。休憩を挟みながら車でおよそ7時間。現地へ近づくころにはすっかり夜になってしまったので、この日は手前の弟子屈町で温泉に入り翌日に備えて早めに就寝をした。
そして翌朝、さっそく摩周湖へと向かう。
ここ摩周湖が登場する手塚マンガは『勇者ダン』だ。1962年に雑誌『週刊少年サンデー』に連載されたこの作品は、アイヌの少年コタンと、動物園へ向かう途中のオリから脱出したトラのダンの心の交流と冒険を描いたお話だ。
この作品は多分にSFファンタジー的な要素に満ちており、地下に隠されたアイヌの神殿がまるでインカ帝国の遺跡みたいだったりして、後の『三つ目がとおる』を彷彿させる場面も多い。
そしてアイヌの財宝が眠る大宝窟が、ここ“北海道の東のはし近くにあるカルデラ湖”のどこかにあるというのだ。カルデラ湖とは、火山の噴火後に火山中央にできた陥没穴に水がたまってできた湖のことだ。
作中では湖の名前は書かれていないが、道東にある有名なカルデラ湖といえば摩周湖と屈斜路湖がまず思い浮かぶ。そして作中に描かれた湖の地図を見ると湖の中央にぽっかりと浮かぶ島が見えている。これは屈斜路湖に間違いない! というわけでぼくは片道450km近くを走ってここ屈斜路湖までやってきたのだ。
マンガの中ではこの湖の西の岬に大宝窟への入口がある設定になっている。そして屈斜路湖の西側にもまさにマンガと同じように湖に突き出た和琴半島という岬があるのだ。
車で行けるのは半島の根元の部分までで、そこから先は徒歩となる。そこに掲げられていた案内板によると半島を1周できる2.4kmの遊歩道が整備されているらしい。人影もまったくなくて不安だが行ってみることにした。
遊歩道の出発地点近くには公園の池のように開放的な露天風呂がある。このあたりはどこを掘っても温泉が出るらしい。そのせいか風は冷たいのにさほど寒く感じない。
遊歩道を200mほど入ったところにもうひとつの温泉場があり、そこからは人の話し声が聞こえていたが、そこを越えると人っ子ひとりいなくなった。さらに進むにつれて上り坂の道はどんどん急になり湖面は遠ざかり、逆側の森はますます深く険しくなっていく。もしもここで山側から熊が出てきたら湖に飛び込むしかない。ぼくは手を叩いたり、「わっ、わっ、わーっ!!」と大声で叫んだりしながら恐る恐る先へ進んだ。
しかし周囲の風景にカメラを向けていて思った。これぞまさに『勇者ダン』の世界だと。
さて、写真を撮ったら熊が出ないうちに大急ぎで撤収だ。
車へ戻ってホッとしたところで、いよいよ北海道さんぽ前編最後の目的地へと向かおう。それは屈斜路湖の北西にある美幌峠(びほろとうげ)である。事前にネットで調べたところ、この峠の頂上に道の駅「ぐるっとパノラマ美幌峠」があって、そこの展望台から湖の全景が一望できるというのだ。
さっそくそこへと向かったが、峠を登っていくにつれて次第に深い霧が立ちこめてきた。先ほど湖畔を歩いていたときも霧深かったけど、峠の頂上付近までくると10m先も霞んでしまうほどの濃霧なのだ。
お土産を買うついでにレストハウスの店員さんに「この霧は晴れますかね?」と聞いてみたが、「さあねえ、その時次第ですからねぇ、何ともいえませんね」と言われてしまう。
さらに30分ほど待ってみたが一向に晴れそうにないのであきらめて峠を下り、札幌方面へ帰ろうと車で走り出した。
ところがである。屈斜路湖から40kmほど離れたところで段々と太陽が顔を出し始めた。
もしかしたら今から引き返したら晴れているかも。そう思って急遽Uターンして美幌峠へ向かう。いいぞ、晴れてる。
そして……、
「見えたーーーーっ!!」
虫さんぽの神様は、この努力に報いて屈斜路湖の全景を見せてくれたのだった。
虫さんぽ北海道編はまだまだ始まったばかりです。来月再来月と続く中編と後編にもぜひご一緒してください。
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番