手塚治虫は昭和20年代に発表した初期作品の中で、数多くの“ロボット”を登場させてきた。その延長線上に生まれたヒューマノイド型ロボットの、ひとつの究極のカタチとも言えるのが、言わずと知れた“鉄腕アトム”である。アトムは当初、亡くなった少年の身代わりとして造られたいわば代用品だった。だが彼はやがて意志を持つようになり、豊かな感情表現を獲得し、人間のように泣き、怒りながら、自らの存在意義を探すようになる。そしてついにはロボットとしてのプライドをも獲得することになるのだ。今回はそんな鉄腕アトムのロボットとしての進化の過程を追ってみよう!!
昭和26年4月、雑誌『少年』で『鉄腕アトム』の前身『アトム大使』の連載が始まった。
そのアトム誕生のエピソードが描かれたのは連載の第4回目だ。天馬博士の愛するひとり息子・トビオが交通事故で死んでしまい、博士はその悲しみを埋め合わせる目的でトビオそっくりの少年型ロボットであるアトムを作ったのだ。
手塚マンガの中で“人間の身代わり”として造られたロボットはアトムが初めてだった。従ってこの時点で手塚が、ロボットの役割としてそれをどのくらい意識していたかは分からないが、実はこれは現代のロボット開発においても、大きな目的としてすえられているものなのだ。
かけがえのない家族や恋人の代わりとしての役割。それは今は人形やぬいぐるみ、あるいはペット動物などが担っている。だけどやがて人間型ロボットが進化し、より人間に近いロボットが造れるようになったら、いずれその役割をロボットが担うようになるかも知れない。
だけど完成当初のアトムは、その身代わりとしての役割において天馬博士を満足させることはできなかった。天馬博士はアトムの身長が伸びないことに腹を立て、アトムをサーカスへ売り飛ばしてしまう。
ここでは子どもの読者に分かりやすいように「身長が伸びない」=「成長しない」ことが原因だったとしているが、天馬博士がアトムに絶望した理由はもちろんそれだけではないだろう。やはりこの時点ではアトムがいまだ「人間らしくない」という根本的な問題を抱えていたことが、博士がアトムに絶望した大きな原因だったのである。
実際、この時のアトムにはまだ自らの意志もなく、感情表現さえ満足にはできないロボットだった。サーカスに売られれからも、アトムはずっと何を考えているのか分からない無表情でいる。タマオとの“人間対ロボット”対決においても、計算能力の高さは示したものの、積み木対決では面白味のない立方体を組み立ててタマオに完敗したのだった。
しかしその後、アトムはどんどん「人間らしく」なっていった。『アトム大使』の連載に続いて翌昭和27年から『鉄腕アトム』の連載が始まると、それはさらに加速する。
『鉄腕アトム』第1話で母親に甘えるタマオを見て寂しげな表情をするアトム。そんなアトムを見てお茶の水博士はロボットの両親を作ってあげることにした。
つまりはこの両親もまた身代わりとしてのロボットの役割を担って誕生したものだったわけで、人の心を持ってしまったアトムは、とうとう自分自身のためにも身代わりを必要とするようになっていたのである。
そんなわけで『鉄腕アトム』には、ほかにも身代わりロボットを求める多くの人びとが登場している。その代表とでもいうべきお話が昭和35年に発表された「ロボット流しの巻」だ。
毎年7月15日、亡くなった人の魂があの世から3日間だけ里帰りをしてくると言い伝えられているお盆の日。アトムのいる世界ではこの日が“思い出の日”と呼ばれていて、亡くなった人そっくりのロボットが精密機械局から各家庭へと派遣される。そして家族は3日間だけそのロボットとつかの間の団らんを過ごすのである。
そんなある年の思い出の日、アトムはヒゲオヤジ先生に頼まれて、アトムとよく似た少年がいたという家へ、思い出ロボットとして出かけることになる。つまりは、これこそがまさに身代わりとしてのロボットの役割を極めたお話だったのだ。そしてそのラストシーン、無事に役目を果たしたアトムがほかのロボットたちと一緒にゆっくりと川を流れていく、その後ろ姿が描かれて物語は終る。
身代わりとしての役目を終えたとき、やはりロボットはこうして去っていくものなんだろうか……なーんてことを考えるとハッピーエンドなのにちょっぴり切なくもなってくる忘れがたい名場面ではありました。
またさらにこの3年後の昭和38年の作品「ロボット宇宙艇の巻」では、冷徹な軍人としてふるまう女性大佐が、実は戦争で死んだ息子のことが忘れられず、日本から奪ってきたロボット宇宙艇のパーツを自分の息子そっくりに改造してしまうというエピソードが描かれている。
改造されて少年となったロボットを抱きしめる女大佐。「ママと呼んでおくれ」と言ってむせび泣く女大佐の表情と、その意味が分からずキョトンとしているロボットとの対比が女大佐の孤独と悲しさを際立たせる。
ただし物語の中では、アトムは大佐がロボット宇宙艇のパーツを少年の姿に改造した理由については知らないまま終わる。だからアトムも最後に少年のロボットが改造前の姿に戻されることに対して何の異議も唱えなかったわけだけど、もしもここでアトムがこの女大佐の思いを知っていたらどうなっただろうか!?
女大佐がロボットを改造した目的は天馬博士がアトムを作った意図とまったく同じだったわけで、もしそれを知っていたらアトムも何かしら思うところがあったに違いないのだが……。
しかし結局、手塚がその問いの答えをここで描くことはなかった。これは皆さんで考えてくださいね、ということなのかも知れませんね。
『鉄腕アトム』の中では、こうして数多くの身代わりロボットが描かれているが、その一方でアトム自身は身代わりという当初の役割を早々に捨て、自らの意志を持って行動する「自我を持ったロボット」へと成長していった。
だけどアトムがそのように人間社会と密接な関わりを持って行動するようになると、それを規制するルールも必要になってくる。そこで手塚が考え出したのが“ロボット法”だった。
ロボット法は、昭和28年に発表された「海蛇島の巻(原題:アトム赤道を行く)」で初めてその名が出てくる。無断で日本を離れたアトムに対して父親が、それはロボット法に違反していると強く叱るのだ。
ここに出てくるのは「ロボットは無断で国を離れてはならない」という条文だけだったが、その後、このロボット法はアトムの世界でロボットの行動を厳しく規定する“縛り”として様々なシーンで登場することになる。
昭和40年に発表された『青騎士の巻』にそのロボット法の内容がまとめて出てくるので、そこから一部を引用すると……「ロボットは人をきずつけたり殺してはならない」「ロボットはつくった人間を父と呼ばなくてはならない」「ロボットは何でもつくれるがお金だけはつくってはいけない」「男のロボット女のロボットはたがいに入れかわってはいけない」「人間が分解したロボットを別のロボットが組み立ててはならない」などなど。人間の法律にそのまま当てはまるものもあるけど、全体的にはロボットにとってかなり窮屈な法律であることは確かなようだ。
ここでSFファンならすぐに思い出すのがアシモフの“ロボット工学三原則”だろう。“ロボット工学三原則”というのは、アメリカのSF作家、アイザック・アシモフが1950年に刊行した短編作品集『わたしはロボット(原題:I,ROBOT)』の中で示した、ロボットが絶対に従わなくてはならないという3つの原則だ。
(創元推理文庫版『わたしはロボット』伊藤哲訳より)
手塚のロボット法はこのロボット工学三原則がモデルだろうとよく言われるが、手塚は、ロボット法はオリジナルだったと、それをきっぱり否定している。
こうして『鉄腕アトム』の物語の中には、ロボット法を楯にして悪人がアトムに詰め寄るシーンがよく出てくる。
「くやしかったら殴ってみろ! ロボットだからできないだろう!!」
これに対してアトムは、たとえ相手が悪人と分かっていても黙って耐えるしかない。時には軽く突き飛ばしたりケガをしない程度に殴ることはあっても、せいぜいその程度である。
じゃあロボット法に従って作られたロボットならば、殺人などの重大犯罪を犯すことは絶対にないのだろうか!?
手塚はその問いに対しても『鉄腕アトム』の中でひとつの可能性を示している。それが「エジプト陰謀団の秘密の巻」(昭和34年)というエピソードだった。
物語は、バリバリー博士という科学者が古代エジプトの女王・クレオパトラのロボットを造り、人びとをだましてエジプトを支配しようと企むというものだ。
しかしこのロボットクレオパトラは最初からバリバリー博士の企みには否定的であり、最後には生みの親である博士を道連れにして自ら命を絶ってしまうのだ!
初めて読んだ当時、子ども心にもこれはかなりショックだったのを覚えている。
この場合クレオパトラは、“より多くの人間のために”自らの命と博士の命とを犠牲にする決断を下したのである。
『鉄腕アトム』のお話の中には、クレオパトラと同様にアトムが“人間と人間社会のために”人間の命令に逆らったことも少なくない。
そんなエピソードが『アトム大使』の中に早くも登場している。天馬博士が宇宙人を縮小液で消そうとしているのに対してアトムが「わるい考えはおよしなさい」と言ってそれを制止しようとするのだ。
またその次の『鉄腕アトム』になって最初のエピソード「気体人間の巻」(昭和27年)でも、アトムは毒の入った水が都市部へ流れるのを防ぐために、自分自身の判断で水道管をふさいだ。そしてその理由を知らない人間たちがどんなにアトムを説得しても、アトムはがんとしてその場をどかなかったのだ。
そう、アトムにはもともとその電子頭脳の中に、ロボット法を遵守するという実直さ以上に、自分が何を正しいと信じるかという“信念”と、それに従って行動する“決断力”とが備わっていたのである。
ということは、場合によってはアトムもクレオパトラのように人を殺したり自殺したりすることもあり得るのか? いやいやいやいや、そんなことは絶対にないと信じよう。
ちなみにロボットの自殺については、手塚はその後『火の鳥・復活編』でさらに深い考察を行っているるので、興味のある方はぜひそちらも併読していただきたい。
人間の命令に背くということでは、『鉄腕アトム』にはうそをつくロボットも登場した。その名も「うそつきロボットの巻」(昭和39年)がそれだ。
この物語には、イソップ寓話の「オオカミ少年」そのままのうそつきロボット少年が登場する。
少年はなぜうそをつくのか。実は少年は病気の母親を看病するために息子が作ったロボットだった。余命の短い女性に対して本当の病状を言うことは、決してプラスにならない。そう考えた息子は、うそをつくことのできるロボットを開発したのだった。
実はこれは現代の介護用ロボットにもそのまま当てはまることだ。
2006年に理化学研究所で介護用ロボットRI-MANの開発に携わった羅志偉教授(現・神戸大学大学院教授)が、その著書『友だちロボットがやってくる』(くもん出版)の中でこれとまったく同じことを述べているのを読んでぼくは驚いた。
この本の中で羅教授は、介護の現場ではロボットが患者の言いなりになってその病状を詳しくしゃべったり、全ての命令に従うことが必ずしも患者のためになるわけではないと書いている。
例えば「抱きかかえてトイレに連れて行って」と頼まれた場合でも、その患者の状態によっては「あなたの足はもう大丈夫ですよ、私につかまって、立ち上がってみてください」と提案することが患者のより早い回復につながることもあると言うのである。
そういえばこの「うそつきロボット」の話のラストではアトムもうそをついていたっけ。つまりはアトムにも、もうすでにうそをつく能力が備わっていたのだ!
やがてこのように命令に背くロボットやうそをつくロボットの研究も進んでくるのかも知れませんね。
ここまで見てきたように最初はただの身代わり人形に過ぎなかったアトムは、やがて自らの意志を持つようになり、その意志に従って自信を持って行動するようになっていった。
そして、それと同時にアトムが獲得したもうひとつのもの、それは“感情”だった。
昭和30年の作品「電光人間の巻」の時点では、アトムにはまだ涙を流す機能は備わっていなかったようだ。ヒゲオヤジ先生や田鷲警部から「事件に関わってはいけない」とキツく言われたアトムは、悔しそうに顔をゆがめながら、こうつぶやく。
「もしぼくが人間のように涙を流すことができたら、きっといまぼくの目は涙でいっぱいで見えないでしょう」
そんなアトムが初めて涙を流したのは、昭和31年の「アルプスの決闘の巻」だった。このときアトムは、自分には芸術の良さが分からないといってケン一の前で涙を見せた。そしてこれ以後、アトムはより感情豊かになり、悲しいときには人目をはばからず、滂沱の涙を流して号泣するようになったのである。
またこの「アルプスの決闘の巻」ではアトムが初めて泣いただけでなく、ロボット工学的にもとても興味深い物語が展開している。
それは、アトムが“怖い”という気持ちを持ったことだ。人間と同じように、ものを美しいと感じる心が持ちたいと願ったアトムが、お茶の水博士に頼んで人間の心を組み込んでもらう。すると同時に“怖い”という気持ちまでが備わってしまったのだ。
実はこれも現代のロボット工学では重要なテーマとなっている問題を先取りしたものだった。
それは、コンピュータを単なる電子計算機から“知能”へと近づけるためには、人間の肉体に相当するロボットの体が不可欠だということが人工知能を研究する学者たちの間でつい最近になって分かってきたからだ。
どういうことかというと、例えば人間の“美しい”“楽しい”“うれしい”などという感情は、人間が単に頭だけで考えているものではなく、人間が肉体を持っているからこそ感じられるものなのだという。
言われてみれば確かにハムスターのように弱くて小さな動物とゾウのように大きくて力強い動物とでは同じ世界でもその見え方・感じ方がまったく違うだろうことは容易に想像がつく。つまり動物が外敵から身を守るために本能的に持っている恐怖心と、何かを見て美しいと感じる心とは表裏一体のものなのである。
しかしその考え方を発展させて人工知能の開発にロボットの体が必要だという認識に至ったのは、専門家の間でもごく最近のことだという。ここでも当時の手塚の“人工知能”に対する認識がいかに本質を衝いたものだったかがよく分かる。
ちなみに昭和42年の「ゾロモンの宝石の巻」には、シーラという首だけの女性型ロボットが出てくる。シーラは元々は体もあったのだが「ものを考えるのにじゃま」だという理由で取り去ってしまったのだ。
思索のために肉体を捨てたことで、彼女が感性をも失っていたことは恐らく本人も気づいていなかったに違いない。
自らの意志で行動し、感情をもそなえたアトム。そのアトムが、その進化の果てに最後に獲得したもの、それは“ロボットとしてのプライド”だった。
アトムの世界では、ロボットがこんなに高度に発達し、人間の生活と密接なつながりを持っているにもかかわらず、いまだロボットに対する人間の偏見や差別感情は根強く残っていた。
「人工太陽球の巻」(昭和34年)ではロボット嫌いの英国国際諜報部員のシャーロック・ホームスパンから「ロボットは奴隷だ」と言われてアトムは強く反論する。
「ロボットは人間の友だちだけど奴隷じゃありません!」
そうした中で、世界最強のロボットは誰か、ただそれを決めるためだけに作られた百万馬力のロボット・プルートウが暴れまくるお話が「地上最大のロボットの巻(原題:史上最大のロボットの巻)」(昭和39〜40年)だった。
感情を押し殺し、世界の名だたるロボットたちを情け容赦なく次々と破壊していくプルートウ。
お茶の水博士はそんなプルートウを作らせたサルタンに無意味な戦いをやめるよう、こう言って説得する。
「ロボットがちからくらべなどしてなんになる?」「ほんとに世界一のロボットとは正しくそしてかしこく世界のためにつくすものをいうべきなのじゃ」
このときお茶の水博士の頭にあった世界一のロボットとは、もちろんアトムのことだ。
この物語のクライマックス、阿蘇山に噴火の危機が迫ったとき、アトムはプルートウとの戦いを放棄して、たったひとりでその噴火を食い止めようと巨岩を運び始める。そう、これこそがまさにお茶の水博士の言う「世界一のロボット」としてのアトムの存在証明だった。
アトムは何もせずにいるプルートウに向かってこう叫ぶ。
「プルートウっ どうしてつったってるんだ この危機がわからないのかっ」
そしてその言葉の次にアトムがプルートウに投げかけたのはこの言葉だった。
「おまえはそれでもロボットか」
これはアトムの中に「ロボットとしてのプライド」がはっきりとあることを示した名セリフだったと言えるだろう。
そしてこの言葉はプルートウの心にズシンと響いた。プルートウはおもむろに巨岩をかかえあげアトムを手伝い始めたのだ。
それを見たお茶の水博士は喜びをあふれさせてサルタンにこう言う。
「サルタン見たか! あのふたりがちからをあわせてる あの美しい姿を!」「あれこそほんとのロボットの姿なんじゃ」「プルートウはほんとのロボットの心にかえってくれたのじゃ」
人間でも動物でも、そして単なる機械でもない「ヒューマノイド型ロボット」という“新たな命”。それが生まれる時は果たして本当に来るのだろうか。そしてその時、ぼくらは彼らの“心”とどう向き合うことができるのだろうか。
遠い未来、もしもそんな空想が現実となって、人間がロボットとのつきあい方に迷ったらその時はぜひ『鉄腕アトム』をひもといていただきたい。そこに解決の糸口はきっとあるはずである。
それではまた次回のコラムでもよろしくおつきあいください!!