『ブラック・ジャック』、『三つ目がとおる』の大ヒットによって手塚治虫は長いスランプを脱し奇跡の復活をとげた。そんな1979年4月、東京の九段会館で第1回「手塚治虫ファン大会」が大々的に開催された。会場には1000人を越えるファンが押し寄せ、手塚先生との夢のような時間を過ごした。このファン大会はどのように企画され実現したのか。今回は、当時ファン大会開催の中核にいた篠田修一さんを訪ね、大会が開催されるに至った経緯や準備段階での苦労などをうかがった! ファン大会前夜、その楽屋ではいったいどんな出来事があったのだろうか!?
毎年、手塚治虫の誕生日である11月3日が近づいてくると、ぼくはあるイベントのお知らせが来るのを待ってソワソワと落ち着かなくなってくる。「手塚治虫ファン大会」開催のお知らせである。
2018年現在で「手塚治虫ファン大会」は通算第何回目になるのだろうか。毎年、手塚治虫の誕生日である11月前後に東京で開催され、日本中から100人以上のファンが会場に集まってくる。
「手塚治虫ファン大会」は、10年ほど前からはファン有志のボランティアによって自主運営される手作りの会となっているが、かつては手塚プロが主催し、協賛企業の協力も得て開かれる大きなイベントだった。
その「ファン大会」の全ての始まりである第1回「手塚治虫ファン大会」が開催されたのは1979年4月30日のこと。場所は東京都千代田区の九段会館だった。
会場には1,000人以上のファンが集結し、ものすごい熱気に包まれていた。当時大学生だったぼく・黒沢も一観客としてそこにいた。
この時のファン大会の様子について当時発行された『手塚治虫ファンクラブ会誌1号』は次のように報じている。
「当日は昼の12時開場というのに朝の7時からファンの列ができ、中には新潟県や岩手県から来たという人もいて、スタッフ一同驚くやら感激するやら。
会場ではバンダーブックのセルや本の販売もあり、悟空の大冒険、青いトリトン等のパイロットフィルム、ユニコの公開など、アニメの魅力をたっぷりと堪能した後、手塚先生の講演となりました」(『手塚治虫ファンクラブ会誌1号』1979年7月発行より)
この短い文章からも、当時のファン大会の盛り上がりと熱気が伝わってくる。そんなファン大会はどのように企画され、開催にこぎ着けたのだろうか──。
第1回「手塚治虫ファン大会」開催の舞台裏を探るべく、2018年8月某日、ぼく黒沢と手塚プロ「あの日あの時」編集担当のT井は、神奈川県のJR茅ヶ崎駅で待ち合わせ、タクシーに乗り込んである人物のお宅へと向かっていた。
その人物とは、元大都社編集長・篠田修一さんである。篠田さんは、ハードコミックスというレーベルで手塚治虫の『奇子』や『ばるぼら』、『鳥人大系』などの作品を多数単行本化して出版されていた方だ。
手塚プロで毎月開いているコラム会議において次回のコラムテーマが「第1回手塚治虫ファン大会開催当時のあの日あの時」と決まった。そこで当時を良く知る人物はいないかと関係者に聞き回ったところ、何人かの方から「だったら篠田修一さんに話を聞くといいよ」という答えが返ってきたのだ。
駅から車で10分ほどで篠田さんのお宅に到着。玄関のチャイムを鳴らすと、篠田修一さんご本人と愛犬・ハルくんが出迎えてくださった。
応接間へ通していただくと、篠田さんはこちらの取材意図を汲んで、あらかじめ当時の資料を揃えて待っていてくださった。さすがは元編集者である。
さらにT井の方からも手塚プロに保存されていた当時の写真アルバムを持参してきており、篠田さんは、これらの資料をひもときながらゆっくりと話し始めた。
「ファン大会を開きたいと最初に言われたのはもちろん手塚先生です。ただ、そもそもファン大会をやろうという話が最初に出たわけじゃなくて、ファンクラブを作りたい、という話が先でした。
1978年の夏に日本テレビで放送された「24時間テレビ 愛は地球を救う」の中で、手塚先生のオリジナルアニメ『100万年地球の旅 バンダーブック』が放送されました。それが好評だったので1979年の夏には同じ「24時間テレビ」の中で『海底超特急マリン・エクスプレス』を放送することが決定、さらに1980年には新作『鉄腕アトム』のテレビ放送と、劇場版オリジナルアニメ『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』の公開も決定し、それらの下準備が着々と進んでいました。
そこでそれらの宣伝活動とファンとの交流をはかる目的で公式の手塚治虫ファンクラブを作りたいという話が手塚プロの中で持ち上がったんです」
このように手塚治虫にとって生涯何度目かの絶頂期が訪れていたこの年、手塚プロから篠田さんへある相談が持ち込まれた。
「確か1979年の1月か2月だったと思いますが、手塚プロのマネージャー・松谷孝征さん(現・手塚プロ社長)に呼ばれました、そこで手塚先生がファンクラブを作りたがっているので協力して欲しいと言われたんです。
そのころぼくは大都社の編集者として手塚プロに頻繁に出入りしていました。ぼくは手塚ファンで手塚コレクターでもありましたから、手塚先生の原稿を取りにきている他の出版社の編集者とはまったくちがう行動をしていました。
原稿待ちの編集者が待機する部屋があったんですが、ぼくはそこへはほとんど行かず、手塚プロへ行くと資料室(単行本制作の為の専門部署。当時は先生の
当時の社長は、かつて明治製菓で『鉄腕アトム』の宣伝担当をされていた方で、その後虫プロに出向され、初代手塚プロ社長になった島方道年さんという方です。
また、そのころは手塚先生のお父さんもお元気で、毎日手塚プロへ出社して、原稿の複写や、ファンの相手をしたりしていたんです。(オヤジはいつも女性ファンばかり集めて、ぼくの所には男のファンしか回ってこないと先生はいつも冗談を言っていました)
そんな関係でしたので、松谷さんとしてもぼくに相談するのが手っ取り早いと考えたんでしょうね」
篠田さんに公式ファンクラブ設立の相談がもたらされた時点で手塚治虫ファンクラブが存在していなかったわけではない。ファンが主体となって運営する公認のファンクラブが東京、京都、名古屋などに点在していたのだ。
だが当時東京でファンクラブを運営し、『虫のしらせ』という会報を発行していた森晴路氏(講談社刊「手塚治虫漫画全集」制作の為、1977年手塚プロダクション資料室に入社。浜口氏の退社後、手塚プロ資料室長となる)が学業に追われ、東京のファンクラブはほとんど休眠状態となっていた。
そんな状況で篠田さんに公式ファンクラブ設立の相談が持ちかけられたのだが、篠田さんは大都社の社員である。本業の編集をこなしながらファンクラブの仕事をする余裕などあったのだろうか。またそのことは大都社内で問題にはならなかったのか。
「手塚プロの島方さんからは、最初は手塚プロに来ないかって誘われた。それをうち(大都社)の社長に話したらそれは困ると。その代わり仕事の合間に出来ることは協力してやれという許しをもらった。
だからどこからが仕事でどこからがファンクラブの活動なのか、境目はまったくなくなりました。むしろ境目があったら出来なかったでしょう」
こうして篠田さんは、ファンクラブ設立の準備を開始した。するとすぐに熱心な手塚ファン達が続々と集まって来た。
「大阪の「まんがはうす」代表の山本博一さん、名古屋の「全日本マンガファン連合」代表・岡田鉱治さん、「手塚治虫ファンクラブ京都」代表・石川栄基さんらがすぐに集まってくれました。3人にはその後、各地区の支部長をお願いし、ファン大会や上映会の世話役にもなってもらいました。ぼくは全員と面識があったから便利屋として一番都合が良かったんです。
またファンクラブの事務局長には、アニメ『バンダーブック』などでプロデューサーを務めた金田啓二さんが就任し、事務局スタッフに新人の藤田睦子さん。初代ファンクラブ会長と副会長にはそれぞれ、『虫のしらせ』メインスタッフだった大西克己くん(現・ミステリー作家の二階堂黎人氏)と、『リボンの騎士』の大ファンだった高松直丘くんが就任しました。
そこに文民社の清野正信さん(もと虫プロ商事勤務)と私が編集顧問という立場でお手伝いをするということで、4月上旬に手塚プロ主催の公式ファンクラブがめでたく誕生しました」
篠田さんに相談が持ちかけられてからファンクラブ結成まで、わずか数ヶ月。何とか設立にこぎつけたものの、さらにそれと並行してファン大会開催の準備も進めなければならなかった。今回のコラムのテーマである第1回「手塚治虫ファン大会」に向けてプロジェクトがついに動き出したのだ!
「“ファンの結束を高めるためにファン大会をやりたい”というのは手塚先生の最初からの意志でしたから、やらないわけにはいきません。さらにぼくらは会場で配布するためのファンクラブ会誌のサンプル小冊子「会誌0号」も作らなくてはいけない。慣れない作業にスタッフ一同はてんてこ舞いでした。
会場は手塚プロの方で探してきました。手塚プロのある高田馬場から近くて千人から二千人規模のキャパのある会場ということで、収容人数が1,112人の九段会館に決まりました。手塚プロからも近いし使い勝手が良かったんで第3回まで九段会館が使われたんでしょう。
ぼくも打ち合わせで、金田さんと何回か九段会館に足を運んでいます。」
場所がようやく九段会館と決定。ではイベントの内容はどのようにして決まっていったのだろうか。
「イベント内容はぼくらでいろいろと話し合って素案を出しました。手塚先生の講演をメインに据えて、その後、質疑応答の時間を設けようとか、新作フィルムやパイロットフィルムの上映をやろうなどですね。最終的には手塚先生が決定されたんです」
一方、こうしてプログラムを煮詰めていく中で、篠田さんにはファン大会に寄せる、もうひとつのある思いがあったという。
「じつは、最初のテレビアニメ『鉄腕アトム』(1963~66年)が放送された当時、虫プロが運営する「鉄腕アトムクラブ」というファンクラブがありました。ぼくはそれに入っていたんですけど、その「アトムクラブ」と虫プロダクションの主催で、九段会館と同じ千代田区にある神田の共立講堂で「鉄腕アトム大会」(1965年1月24日開催、後援/明治製菓・フジテレビ・光文社・万年社)というイベントが開かれたんです。アニメを上映して、手塚先生の講演もあって、お土産もたくさんもらって、とても楽しい1日でした(先生のお父さんと会ったのもこれが初対面)。だからファン大会をやるという話を聞いたとき、ぼくはスタッフにああいう会にしたいという話をしたんです。
お土産については、協賛企業から提供してもらった商品を入れたり、アニメの設定資料を手塚プロでコピーしてそれを入れたりしました。虫プロ時代のキャラクターシートも入れた。キャラクターシートっていうのは、手塚キャラを商品化する際の見本用に作られたカラー印刷のキャラクターポーズ集みたいなものです。
それからパンフレットにあらかじめ手塚キャラのスタンプを捺しておいてね、例えばヒゲオヤジのスタンプが捺してあったらヒゲオヤジ賞として『バンダーブック』のセルがもらえる、他にも火の鳥賞・BJ賞とか作ってね。
「鉄腕アトム大会」でぼくがもらって一番うれしかったのがセルだったんで、セルは何としてもプレゼントに付けたいと思っていたんです。
これらを2000セットを目安に……、わずか1日か2日で作るんですからそれはもう大変でした。手塚プロのコピー機は自由に使っていいと言われていたんで、コピー機が大活躍しました(笑)」
続いて篠田さんに、ファン大会当日のスタッフの役割分担についてうかがってみた。
「当日、会場の警備・整理を担当してくれたのが大和田さんで、警察官になったばかりの人でした。それから栢森さんというぼくより年上のファンの方がいまして、その方は16ミリ映写技師の資格を持っておられたので映画の上映係を担当してもらいました。最後に司会進行を誰にしようかという話になったんだけど、初めてのことだしどうなるか分からないので、なかなか人には頼みづらいなあと。結局ぼくが舞台に立って司会進行役を担当することになった。司会なんてやったことありませんでしたけど、ぼくは物怖じしない性格なんで、何とかなるだろうということで引き受けました。
あとは先ほど名前を出したファンクラブ関係者の皆さんが全員で裏方さんをやってくださって、さらに手塚先生のお父さんのところにいつも集まっているファンの若い女性たちにも手伝ってもらいました」
会場警備を現職の警察官が担当したり、16ミリの映写資格を持っている方がいたりというところに手塚ファンの層の厚さが感じられるが、それにしてもわずか20人足らずのスタッフで1,000人規模のイベントを仕切っていたというのは驚きだ。ただ、現在のファン大会に参加していてもいつも思うことだけど、手塚治虫ファンというのは実にマナーが良いのである。
ちなみにマナーが良いといえば篠田さんの愛犬・ハルもまたすこぶるお行儀が良かった。家に上がったときからぼくとT井を全面的に歓迎してくれて、ひたすら足にじゃれついてくる。
だから誰にでも人懐こい犬なのかと思っていたら、取材中に宅配便の業者がやって来たときは玄関の方へ猛ダッシュして、ものすごい勢いで吠えまくっていた。
これはもしかしたら篠田さんがぼくらを歓迎してくれている様子を察知してぼくらを仲間だと認識してくれたのか、それとも手塚マンガファンには特有の匂いがあって、それを感知したとか!?
だとしたらこのハルを街に連れ出して手塚ファン探知犬として活用すれば、もしかしたらファンクラブの集客に役立つのではないかとも思ったり……。
閑話休題。さて、そうこうしているうちに時は1979年4月30日、いよいよイベント当日の朝を迎えた!
この日は朝から小雨の降る肌寒い日で、篠田さんは集客を心配していたというが、そんな思いも杞憂だったことがすぐに明らかとなる。九段会館には冒頭でも紹介したように、開場の何時間も前から多くの手塚ファンが行列を作っていたのだ。そしてその人たちの顔は、初めて開催される本格的なファン大会への期待に満ちあふれていた。
『ブラック・ジャック』や『三つ目がとおる』の大ヒットによって新たにファンになった人も多く、特に若い女性が多かったのが、長く手塚ファンを続けてきたぼくにとってとても感慨深い光景だったのを覚えている。
11時を回った時点で行列はすでに建物の敷地を出て歩道にまで延々と延びており、当初の予定を繰り上げて開場、3階席まである大ホールはたちまち手塚ファンで埋めつくされたのだった。
これは篠田さんにとっても、それまでの苦労が報われる申し分のない滑り出しだったことだろう。
だが、開場した後も篠田さんの苦労はまだまだ続くことになる──というそのお話は、次回手塚治虫公式サイト・リニューアル後の新生コラム「あの日あの時+(プラス)」でご紹介させていただきます。お楽しみに~~~~っ!!