函館を出発し、前編・中編と2回にわたって道南・道東・道央を巡ってきた夏の北海道さんぽもいよいよ今回が完結編!
今回は札幌の北、岩見沢市と樺戸郡月形町で『シュマリ』に描かれた炭鉱労働と集治監(当時の刑務所)について地元の方々から話をうかがい、そこから一気に旭川市を目指します。旭川市には手塚治虫先生と親しく交流していた人たちがいるというのだが、果たしてその人たちとは!? さっそくさんぽスタートですっっっ!!
前回の札幌さんぽに同行した手塚プロ担当編集のO山と別れ、ふたたびひとり旅となったぼくが今回最初に向かったのは、JR函館本線の岩見沢駅だ。札幌駅から車でおよそ50分、電車なら37分の場所にあるこの駅の近くに後編一ヵ所目の目的地があるのだ。
カーナビの案内で駅前までやってきてそこを探す。駅からすぐの場所だと聞いてきたんだけど……と駅前を歩くとアーケードの並びにすぐにその場所は見つかった。「そらち
手塚マンガ『シュマリ』の中に、主人公シュマリが太財財閥の炭鉱で働くという場面が描かれている。
ご存知の通り、明治期以降の北海道開拓の歴史は石炭産業の発展とともにあった。そんな当時の時代背景を知りたいと思ったところ、こちらのセンターがあることを知ったのだ。
事前に連絡してあったので、このセンターを運営しているNPO法人
北口さん、こんにちは! シュマリの時代の北海道の炭鉱の歴史についてうかがう前に、このマネジメントセンターの成り立ちについてご説明いただけますか?
「わかりました。かつてここ空知には北海道で最初の大規模炭鉱として開鉱した官営炭鉱・幌内炭鉱がありました。つまり北海道発展の出発点となったのがまさに空知だったんですね。
でも当時を知る人も今ではほとんどいなくなってしまい、今の若い人たちの中には石炭を知らない人も多くなってしまいました。日常生活の中では石炭をほとんど使わなくなっていますから仕方ないことなんですが、今の子どもにとっては「石炭、何それ?」という感じなんですね。
そこでそんな空知の炭鉱の歴史を後世に伝えるために、2007年に札幌国際大学の当時助教授だった吉岡宏高(現・同大学教授)が理事長となってNPO法人を設立したんです。吉岡は幌内炭鉱の出身でお父さんがまさに幌内炭鉱で働く炭鉱マンだったんですね。
そして2009年に情報発信センターとしてこの、そらち炭鉱の記憶マネジメントセンターがオープンしたんです。
幌内炭鉱は1989年(平成元年)に閉山しましたが、幸いなことにこの地域には当時の様子をうかがい知ることのできる貴重な資料や遺構がたくさん残っていますから、「石炭って何?」という人にも現物を見ていただき、炭鉱の跡地を訪ねていただければ、炭鉱の記憶を後世に伝えることができる。残っているものがあるからこそ伝えられるものがある。そんな思いで日々活動しています」
“残っているものがあるからこそ伝えられるものがある”っていい言葉ですね。ぼくも本来は遊び捨てられる運命の昭和の駄玩具を集めていまして、このコラムでもたまにコレクションを紹介ながら記事を書いたりしていますので、その気持ちは良く分かります。あれこれと文章で書くよりも現物をひとつ見せた方がずっと理解が早いんですよね。
ところでいよいよ本題ですが、手塚先生のマンガ『シュマリ』では集治監に収容されたシュマリがその後炭鉱で働くという場面が出てきます。当時の炭鉱の仕事というのはどんなものだったんでしょうか。
「幌内炭鉱の開鉱は1879年(明治12年)で、その3年後の明治15年、三笠に北海道で2番目の監獄として空知集治監が建設され、同じ年、幌内炭鉱用地内に空知集治監・幌内外役所を設置、ここに仮監獄舎ができました。そもそも明治政府が空知集治監を作ったのは囚人を炭鉱労働に従事させるためで、当時は坑夫の約8割が囚人で構成されていたと言われています。1日に800人~1200人の囚人が坑夫として働いていたんだそうですよ。
しかも一般坑夫は一日24時間のうち8時間ずつ働く3交代制だったのに対して囚人は2交代制で12時間労働だったんです」
うわー、それはきついですね。
「しかもその当時の採炭現場は落盤やガスなどの心配のある危険な場所も多く、坑内の空気も悪かったようなんです。そのため病気や事故にあってしまう囚人が多かったんです。過酷な労働環境に耐えられず逃走しようとした囚人もいたので、逃走防止のために足に鉄製の重りを付けられたり、場所によっては柵や金網が張られ、看守によって常に警備されていました」
確かに聞いているだけで足にマメが出来てきそうです。
ところで北口さん、幌内炭鉱は見学できるんですか?
「見学できますよ。遊歩道も整備されていますのでぜひ行ってみてください。それから空知集治監の跡地には、当時典獄官舎で使われていたレンガ煙突も残っていますので時間があればぜひそちらも見てください。
また集治監についてさらに詳しく知りたければお隣の月形町の月形樺戸博物館へ行くといいですよ」
ああ、まさに月形樺戸博物館へはこれからうかがう約束になっています。幌内炭鉱とレンガ煙突もぜひ見学してきます。北口さん、ありがとうございました!!
そらち炭鉱の記憶マネジメントセンターを後にしたぼくは、ここから車で北西に30分ほどの距離にある「月形樺戸博物館」へと急いだ。
約束した時間に少し遅れていたので周囲の景色を楽しむ余裕はあまりなかったのだが、整然と整備された見渡す限りの田園風景の中を一直線に突っ切っている道路は走りやすく気持ちがいい。
そしてようやく月形樺戸博物館へ到着。すみませーん、大変遅くなりました!!
ぼくを待ってくださっていたのは月形樺戸博物館名誉館長の櫻庭誠二さんと月形町産業課商工観光係の松本美咲さんである。
櫻庭さんは矯正広報大使(名誉典獄)という肩書きも持っておられ、集治監の歴史に大変お詳しいという。さらに事前に『シュマリ』も読み込んで準備万端で待機してくださっていた。
ではさっそく櫻庭さんに博物館の館内を案内していただきながら話をうかがおう。
「ここ月形町が月形村として開村したのは明治14年のことです。当時、全国で多数の国事犯や重罪犯が生じていたことから、内務卿だった伊藤博文がフランスの流刑制度を参考にして、《北海道に囚人を隔離して、彼らの労力を使って開墾し、自給自足させれば、監獄経費の節減になる》と提案したんですね。
その候補地探しを命じられたのが福岡藩士から明治政府の官吏となった月形潔らでした。
現地調査をした潔らがこの場所を集治監の候補地として選んだ最大の理由はまずこの地形ですね。分かりますか? あなたが今ここへ来るとき石狩川を渡って来たでしょう。そして反対側には樺戸連山が連なっています。つまり山と川に挟まれたこの地形が自然の要害となっていて、囚人の脱走がほとんど不可能なんです。もし逃げたとしてもどこへも行けないですから。
それから土壌が農業に適していること、石狩川は札幌や小樽との交易にも非常に都合がよろしいということで、ここに北海道で最初の集治監が建設されることになったんです。潔は初代典獄、つまり今で言えば刑務所長を務め、その功績を称えてここが月形村という名前になったんです」
では櫻庭さん、『シュマリ』に出てくる「札幌集治監」はどこにあったんですか?
「札幌集治監は実在しません。手塚先生が作った架空の場所ですね。だけど収容されたシュマリが木の根っこを掘り起こすなどして道路か農地の整備をしている場面があるでしょう。だからこれは樺戸集治監がモデルだと考えていいでしょうね。
樺戸集治監に収容された囚人は主に農地開発や道路開発に従事し、空知集治監の囚人は炭鉱で働いたんですよ」
なるほど! それにしても囚人に有無を言わさず重労働をさせるっていうのは、今だったら人権問題とかでいろいろと批判が起こりそうですね。
「今だったらそうでしょう。でも当時集治監に収容されたのは江戸時代だったら死罪か流刑に値する重罪人でしたから、当時としてはこれでも罪人の人権にかなり配慮した処遇だったと言えるかも知れません」
櫻庭さんの案内でさらに館内を歩く。館内には様々な文書や集治監で使われていた道具の数々、そして図面からおこした縮尺150分の1の樺戸集治監の立体模型など、様々な資料が展示されていて、シュマリが収監された集治監という場所がどんな所だったのかがよく分かる。
そして最後に櫻庭さんが連れてきてくださったのが、本館の入口に吊されている古い鐘の前だった。櫻庭さん、この鐘は何ですか?
「これは実際に監獄で使われていた鐘ですよ。点鐘(てんしょう)と言って、起床・始業・終業・就寝などを知らせるために鳴らされていたものなんです。そのヒモを持って鳴らしてみてください」
えっ、鳴らしてもいいんですか?
「当時の雰囲気を味わってもらうために、来館者の皆さんにも鳴らしてもらえるようにしてるんです。ところが最近はネットでこの鐘を鳴らすと幸せになれるといううわさが広まっていましてね。わざわざこれを鳴らすために来られるお客さんもいらっしゃいますよ」
ならばということで、ぼくも今回の旅がいい旅となるよう願って鐘を鳴らさせていただいた。鐘の音はどこかもの悲しく、シュマリもこんな鐘の音を聞きながら集治監での日々を過ごしていたのかも、などと考えると、今後『シュマリ』を読み返すときに思い描くイメージもより具体的になった気がいたします。櫻庭さん、松本さん、ありがとうございました!!
ぼくが遅刻したせいだけど、初夏の太陽ももう西に傾きかけている。またまた先を急がねばならない。次に向かうのは、そらち炭鉱の記憶マネジメントセンターの北口さんに教えてもらった空知集治監跡地のレンガ煙突と幌内炭鉱跡地だ。
月形樺戸博物館、つまり樺戸集治監のあった場所から空知集治監の跡地へは「樺戸道路」という一直線の道が北西から南東へ向かってまっすぐに延びている。
この道路についても先ほど櫻庭さんから話をうかがっていた。じつはこの樺戸道路は樺戸集治監の囚人たちが作った道路なのだ。当時はうっそうとした原始林だった場所を囚人たちが切り開いて道路を作り、荒れ地を整地して土壌を入れ替えては農地にしていった。集治監が廃監となってからもその事業は続き、およそ100年かかってこの地域一帯が今の美しい農村地帯に生まれ変わったのである。
樺戸道路のおかげであっという間に目的地に到着した。そのレンガ煙突は、民家がポツポツと建ち並ぶ道路脇の小さな公園に立っていた。ここがかつて空知集治監の典獄官舎、つまり典獄が起居した建物のあった場所なのだ。案内板によれば、明治23年に作られた高さ8mのこの煙突も囚人によって作られたものだという。
煙突の立っている公園の東側には道路を挟んで三笠小学校と三笠中学校というふたつの学校があるが、かつてはこの2つの学校の敷地全体が空知集治監だった。
現在のこの風景から集治監があった当時の風景を想像するのは難しいが、地図を見ると四方を山に囲まれていて、樺戸集治監と同様に逃走困難な地形になっていたことがよく分かる。
そしてここから南東へ向かって山道を登っていった先が幌内炭鉱だ。6kmを昔の距離単位に換算するとおよそ1里半(1里=3.9273km)。昔の人なら楽々歩いた距離だろうけど、集治監と炭鉱の高低差は60mもある。しかも北口さんの話にあったように囚人は足首に鉄の重りを付けられていたのだ。炭鉱で重労働をこなし、この距離を重りを引きずりながら毎日往復するのは相当にきつかったことが想像できる。
その6kmをぼくは車で一気に登り、日没前に幌内炭鉱跡地に到着することができた。幌内炭鉱は閉山された際に施設や設備の大半が撤去されたが、現在も巨大なコンクリートの構造物や坑道の入口などが残されている。さらに2004年からはこの場所一帯が幌内炭鉱景観公園として整備され、見学のための遊歩道や案内板も設置されている。なので予備知識なく出かけても炭鉱のおおよその歴史と残されている施設が何だったのかを知ることができる。
ちなみにバスで来る場合は、そらち炭鉱の記憶マネジメントセンターそばの岩見沢駅、西側にあるバスターミナルから北海道中央バス「三笠線・幾春別町行き」に乗車し「三笠市民会館」前で下車。三笠市営バス「幌内線・幌内1丁目行き」に乗りかえて「鉄道記念館前」で下車し、徒歩約20分ほどで到着となる。三笠市営バスはぼくが調べた時点では1時間に1本の運行だったのでバスを利用される場合は事前に運行時間をチェックして計画的に行動することをお勧めします。
駐車場に車を駐めてすり鉢状にくぼんだ谷地の底を見下ろすと、雑草が生い茂った中に巨大な構造物が廃墟となってそこかしこに見えている。
さっそく遊歩道を歩いて敷地内へ……と思うのだが、間もなく日が暮れようという時間なのでぼく以外に誰もおらず、管理棟などもないため無断で廃墟探索をしているような後ろめたい気持ちになってくる。
そんな気持ちを払いのけながら遊歩道へと続く階段を降りていくと、最初に目の前にそびえ立っているのが坑内で掘り出した石炭を地上へ運ぶベルトコンベヤーの捲揚げ機の台座だ。
その後、遊歩道を反時計回りに歩いて行くと、昭和13年に開坑した常磐坑があり、その先、敷地の一番奥まった場所にあるのが、1879年(明治12年)に開拓使が開削したという北海道最古の炭鉱「音羽坑」の入口である。
音羽坑の坑道の総延長は700m。こここそが空知集治監の囚人たちが使役された炭鉱、すなわちシュマリの時代に現役として使われていた炭鉱の跡なのだ。
目を閉じて耳を澄ませば当時の槌音や賑わいがイメージできるかも、と思って目を閉じてみたら、夕暮れの廃墟の中にひとりたたずんでいる自分を思い出し、お化けが出てきそうな恐怖のイメージが沸いてきたので、そそくさとその場を後にした。
幌内炭鉱を出たところでちょうど日没となりこの日のさんぽはこれで終了。ぼくは翌日のさんぽに向けて夜のうちに道央自動車道を使い旭川へと車を飛ばした。
明けて翌早朝に向かったのは、旭川の南の美瑛町である。事前の調査でこのあたりに来ると次の2つの手塚スポットが同時に見渡せるという話だったからだ。その2つの手塚スポットとは、トムラウシ山と十勝岳である。
これら2つの山が登場する手塚マンガは、雑誌『少年』1958年5月号から7月号にかけて連載された『鉄腕アトム』「天馬族の砦の巻」だ。天馬族という馬そっくりの宇宙人が地球に飛来して騒動を起こすお話で、その天馬族の秘密の砦が、雑誌連載時には「北海道 トムラウシ山」にあるとされていた。
ところがその後の単行本化の際に「北海道 十勝岳」と改められたのだ。トムラウシ山と十勝岳は仲良く隣り合って並んでいる山で、手塚先生が単行本化の際にあえて山の名前を書き変えた理由は謎である。
そういえば『鉄腕アトム』「アルプスの決闘の巻」でも雑誌掲載時に「日比谷公園」となっていた場所が単行本では「上野公園」に改められたことがありました。もしかしたら手塚先生なりのその土地に対するイメージというものがあり、当初は良いと思って書いた地名よりも別の地名の方が作品の舞台にふさわしいというこだわりがあったのかも知れません。ちなみに日比谷公園と上野公園を歩いた過去の虫さんぽはこちらです↓
虫さんぽ第26回:東京・有楽町日比谷界隈 手塚アニメの原点と最晩年の手塚先生の素顔を訪ねる!!
虫さんぽ第44回:東京・上野 かっぱ寺と手塚マンガに描かれた西郷さんにご挨拶!!
旭川の市内から、2つの山が良く見える場所を探しながら国道237号線を南下。美瑛町に入ってしばらく走ったところで道の東側に小高い丘を見つけた。あそこへ登れば見えるかも知れない。そう思って狭い山道をぐんぐん登っていくと、ぱっと視界が開けたところで果たして遠くに大雪山系の山並みが見渡せた。
だけど初めて来た場所なのでどの山がトムラウシ山でどの山が十勝岳なのかいまいち確信が持てない。
周りに誰か聞く人はいないかと見渡してみても見えるのは広大な畑と遠方に連なる山並みばかり。人影はどこにもない。ごくたまに通り過ぎる車を止めて聞くのも怪しすぎる。
そう困り果てていたところへ畑のあぜ道から初老の男性がひょっこりと姿を現わした。
「すみませ~ん」
ぼくはこの機会を逃してなるかと必死で男性を呼び止め手短に事情を説明した。すると男性はすぐに理解してくれてどれがトムラウシ山でどれが十勝岳かを親切に教えてくれた。
聞けばその男性は元々は東京で暮らしていたが会社をリタイヤしたのを機に奥さんとふたりで美瑛町へ移住したのだという。ぼくが東京から来たというと、昔住んでいたという東京の地名を出して懐かしそうに語ってくれた。この日は晴れた日の日課となっている散歩の途中だったそうで出会えて幸運だった。
男性は「天馬族の砦の巻」の話は憶えていなかったが『鉄腕アトム』は子どもの頃に兄と一緒に夢中で読んでいたそうで、2つの山が『アトム』に出てきたと聞いてこの土地にますます愛着が湧いたと言っていた。
男性と別れて山の写真を撮り終えたぼくは再び旭川駅へと引き返す。旭川駅で手塚プロのプロデューサーI藤と待ち合わせをしているのだ。
前回の札幌さんぽに1日だけ同行した手塚プロスタッフのO山と同様、I藤もこの日の朝に飛行機で北海道まで来て、最終日の旭川さんぽにだけ同行することになっていたのだ。
「お早うございまーす」
朝からハイテンションなI藤を助手席に乗せて向かったのは、旭川駅から車で20分ほどの距離にある郊外型の大型書店「旭川冨貴堂 末広店」である。
この本屋さんこそが今年の夏の北海道さんぽを締めくくる最後の目的地なのだ。じつはこのお店の中にアトムと火の鳥の巨大な絵が掲げられており、そこに手塚先生の直筆サインが入っているのだという。いったいなぜ!?
ともかくI藤と一緒に店内へ入ってみることにした。すると吹き抜けになっている広いエントランスの頭上に、1辺の長さが2mほどもある鉄腕アトムと火の鳥の絵が立派な額に入れられて2枚掲げられていた。
さらにその絵をよく見るとそれぞれの右下に「1.8.1978」という日付けと「手塚治虫」というサインが書き入れられている。
店長の許可を得てその絵の写真を撮っていると、背後から声をかけられた。
「黒沢さんですね」
振り返ると3人の男性が立っていた。3人とも旭川在住の氏家正実さん(70)、阿部俊行さん(68)、稲垣陽一さん(64)である。
じつは手塚先生とこのお三方、そして旭川市にはとても深い関わりがあった。先ほどの絵に書かれたサインはそのほんの一端に過ぎなかったのだ。これは詳しく話をうかがわなければなりません。
場所を近くの喫茶店に移し、昼食を食べながら話をうかがうことにした。
話は1977年にさかのぼる。子どものころから手塚マンガの大ファンだった氏家正実さんは1962年、冨貴堂に入社し、本店に勤務していた。
氏家
「当時、冨貴堂は現在の場所ではなく旭川の駅前にありまして、私はそこに勤めていました。そこで書店の周年記念行事の企画を企画することになりましてね。《誰かをゲストに呼びたいな。そうだ、子どものころから憧れていた手塚先生を呼ぼう》と思いついたんです。
それで手塚先生に直接手紙を書いて送ったんですね。書店がイベントに作家をお呼びする場合、普通なら出版社を通して作家に話をしてもらうのが筋ですよね。でも手塚先生は当時『ブラック・ジャック』が大ヒットしてとてもお忙しい時期でしたので普通に頼んでも断られるだろうなと思いましてね。だめもとで手塚先生に直接手紙を書いて送ったんです。でも決して策略ではなかったですよ。まだ若かったですからね。とにかく清純な気持ちで、ファンレターを書くような気持ちで書いたわけです。確か《旭川の子どもたちに夢を与えてください。ぜひ来ていただけませんか》というような内容だったと思いますね」
稲垣
「それが良かったんでしょうね。商売抜きで素直な気持ちを書いたっていうのが」
氏家
「そうですね。それも先生が読んでくださらなかったら意味ないですからね。ちゃんと読んでくださっていたんですよね。
そうしましたらしばらくして手塚先生から突然電話がかかってきたんです。電話口で《手塚です》と言われて最初はすぐに誰だか分からなかったんですが、もしかして《手塚先生ですか?》とうかがって《そうです》と言われて、えええ~って(笑)。そして手塚先生から《翌年の1月にぜひ行きます》というお返事をいただいたんです」
そしていよいよ1978年の1月8日に手塚先生が旭川にいらしたわけですね。その時はもうお三方が一緒に行動されていたんですか?
稲垣
「私はまだ加わってなかったですね」
氏家
「阿部さんとは旧知の仲で、阿部さんはグラフィックデザイナーで仕事場も近く、手塚マンガのファンだったこともあり、一緒に手伝ってもらいました」
その時の先生の印象はどうでしたか。
氏家
「まずは大柄な先生にびっくりしました。そしてとても気さくなのにも驚きましたね。それからこちらが恐縮してしまうくらいサービス精神が旺盛で腰が低いんです。 サイン会では1階から3階、店内にあふれるくらいのお客さんが来られましてね、食事をする時間もなくなってしまったんですが、ラーメンを作っておいてもらって、ラーメン屋さんに飛び込んで食事をして、講演会場へ向かう、という感じでした。そして市公会堂での“講演とアニメの会”は12時半から16時半まで、旭川のファンのために目一杯サービスしていただきました」
阿部
「このとき印象的だったのは、先生のアシスタントになりたいといって作品を持ってきた人がいたんですが、その人の作品を見るのを先生はきっぱりと断られたんです。今回はファンサービスに来ているからという理由で断ったのか、いい加減な返事はできないからしっかり読んで時間を取られるのが困るということだったのか、理由は分かりませんが、とにかくそこはきっちりとしていました」
氏家
「先ほどご覧いただいた、冨貴堂に掲げられていたアトムと火の鳥の2枚の絵は、手塚先生の講演会当日の舞台の上に飾りたいなと思って、地元で映画看板を描いておられた会社の渡部徳二さんという社長さんに相談したところ、もう喜んで描いてくださいましてね。
そうしましたらねえ、手塚先生が当日この絵をご覧になって《僕より上手ですね》とおっしゃいましてね、《サインをしましょうか?》と言ってくださったんです」
阿部
「そうそう。お世辞だったのかも知れませんけどね、本当にすごい気に入ってくれたんですよ」
氏家
「いやいやお世辞だったらサインをしましょうかなんて言わないでしょう。確かにこういう絵を誰かが似せて描いてもね、なかなか本物のようにはいかないんですが、これは誰が見ても素晴らしい出来でしたから、先生も本当に気に入ってくださったんだと思いますよ。今だったら小さい絵を簡単に拡大する技術もありますが、当時は完全な手描きですからね、まさに職人技ですよ」
あの絵を描かれた方はご健在なんですか。
氏家
「ええ、もう80近いと思いますけどお元気です。去年も街角でばったりお会いしたんですがお元気で会うとすぐにあの絵の話になりますね」
こうして風のようにやってきて旭川の人々に感動を与えた手塚先生は、また風のように東京へ帰っていった。
阿部
「手塚先生はあのとき《今度旭川もマンガに登場させますかね》とおっしゃっていたんです。でも残念ながらそれも実現されないまま1989年に亡くなってしまったんですね」
氏家
「そうでしたねぇ。それで、先生が旭川へいらした時にあれだけお世話になったんだから、今度は我々が何かやらなきゃいけないだろうという話になりましてね、有志が集まって1990年に『アトムの会』を結成したんです。稲垣さんもこの時からいましたよね」
稲垣
「ええ、いました。私も手塚マンガを読んで育って子どものころはマンガ家になりたいと思っていましたから、氏家さんから声をかけられてすぐに参加しました」
氏家
「我々がアトムの会を始めたときに思っていたのは、まず我々が楽しむということですね。それから、これからの子どもたちにそれを受け継いでもらおうという思いでした。間違ってないよね」
阿部
「うんうん」
稲垣
「そうそう」
結成された旭川アトムの会は毎年夏に「TEZUKA OSAMUアニメワールド」と題し、手塚プロ全面協力のもとで手塚アニメの上映と、手塚治虫原画展などの企画展示を行った。
1990年夏のパート1で上映された手塚アニメは『鉄腕アトム 宇宙の勇者』、『森の伝説』、『ある街角の物語』、『海底超特急 マリン・エクスプレス』の4作品。そして展示企画は「手塚漫画コレクターの発表展」と題して地元の手塚ファンから借り集めたコレクションの展示を行った。
ところがこのパート1では張り切って経費をかけすぎたために数十万円の赤字となった。だがそれでも来場した幼い子どもたちが手塚アニメに引き込まれて夢中になっている姿を見て、氏家さんたちアトムの会のメンバーは、あらためて手塚作品の力を再認識し、「赤字は次回で取り戻そう」とイベントの継続を決意したのだった。
やがて回を追うごとに来場者は増えていき、1994年9月に開催されたパート5の時には手塚先生の長男・手塚眞氏をゲストに招いて講演会も行った。この時は旭川市内だけでなく全道から人が集まり、およそ2000人もの来場者があったという。
「TEZUKA OSAMUアニメワールド」は2008年10月開催のパート18まで続いたが、現在は休止中だという。だがこうして集まって当時のことを話されると、お三方ともまるで少年のような無邪気な笑顔になって当時のことを楽しそうに話されている。
そんな3人の笑顔とそれぞれが持参してくださった大量のポスターやチラシ、スナップ写真などの貴重な資料をひとつひとつ拝見していると、皆さんが18年にわたってこのイベントにそそいだ情熱の計り知れない大きさがヒシヒシと伝わってきた。と同時に旭川の皆さんにそんな熱い思いをもたらした手塚先生の大きさにもあらためて感動したのだった。
氏家さん、阿部さん、稲垣さん、ありがとうございました。
ぼくとI藤はとても充実した気持ちでお三方に見送られながらお店を出た。そしてI藤を旭川駅で下ろし、今回の北海道虫さんぽもこれにてゴールと相成ります。
その夜、函館を深夜0時30分に出発したフェリーの中で、穏やかな波に揺られながらぼくが見た夢は、十勝岳をバックに飛ぶ鉄腕アトムの雄姿だった……ような気がします。ホントは疲れて爆睡してたので全然覚えてないんですけどね。
ではまた次回の虫さんぽにもおつきあいください!!
ここで臨時ニュースを申し上げます。前回の北海道さんぽ(中編)の最後で痛恨のさんぽ漏れがあったことをご報告いたしました。『ブラック・ジャック』第168話「三者三様」の中に、札幌駅前にある「牧歌の像」という銅像が描かれているのを見逃していたのです。そこで読者に画像の提供を呼びかけたところ、さっそく写真を送ってくださった方がおりました。ハンドルネーム「01-0067」さんです。
01-0067さんの送ってくださった写真をここにご紹介いたします。前回の北海道さんぽ(中編)で紹介した『ブラック・ジャック』の絵とみくらべてみてください。01-0067さん、ご報告&画像提供ありがとうございます!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番