今回の虫さんぽは上野編の第2弾をお届けします。前回は昭和20~30年代の出来事や作品にまつわる手塚治虫スポットを中心に歩きましたが、今回は主に昭和40年代以降の手塚スポットを歩きます。手塚先生がマンガ家仲間と共に描いた巨大壁画とは? 『陽だまりの樹』に描かれた上野戦争の遺構が現存する場所は!? すっかり春めいて散歩が楽しくなってくるこの季節、上野の森で歴史や芸術に触れながら、あの日の手塚マンガに思いを馳せるのもオツなもんですぞ~~~~~っ!!
巨大ターミナル駅・JR上野駅にはいくつもの出入り口がある。もっとも大きい正面玄関口とその横の浅草口、アメ横へ向かう場合は広小路口が近い。美術館・博物館・動物園へ行くなら公園口、西郷さんの銅像へ行くには不忍口が便利だ。そんな中で今回不忍口をスタート地点に選んだのは、この出口近くに大きなコインロッカーコーナーがあるからだ。
手塚先生が1974年に雑誌『週刊少年チャンピオン』に発表した『ブラック・ジャック』第22話「血が止まらない」には、上野駅のコインロッカーコーナーが重要な場所として描かれている。
青森から上京してきた青年・博は上野駅のコインロッカー前で、島根から上京してきた女性・由紀と知り合う。後日、ふたりは同じコインロッカー前で待ち合わせをして再会、すぐに恋に落ちた。だが、じつはふたりはそれぞれに深刻な病気を抱えていたのだった──。
デートをするふたりのバックには噴水や花壇などが描かれているが、これらは話の流れ的にも上野公園と見ていいだろう。
そんなふたりのデートコースをなぞるようにわが虫さんぽ隊も上野公園へと向かう。
ちなみに今回、実際に歩いたルートは上野公園の南端から公園内に入って、そこから美術館・博物館を順番に巡って北へ向かうというものだった。だけどその順番に紹介していくと話があっちこっちに飛んでしまって分かりにくいため、この記事ではエピソードや作品ごとにまとめて紹介していきます。あらかじめご了承ください。
ということでまず訪ねたのは西郷さんの銅像のすぐ北側にある「上野の森美術館」だ。1982年の7月から8月にかけてここで『マンガ博覧会'82』というイベントが開催され、そのイベントに手塚先生も参加されていたという。いったいどんなイベントだったのか!?
上野の森美術館に連絡をして「当時をご存知の方にお話をうかがいたいんですが」と相談したところ、同美術館・顧問の
「こんにちは」
釼持さん、さっそくですが、この『マンガ博覧会'82』はどんな内容のイベントだったんでしょうか?
「漫画の原画展示などももちろんやりましたが、単なる展覧会ではなくて大人も子どもも楽しめるイベントにしようということで、サイン会や似顔絵大会をやったり、12台のスライドプロジェクターをコンピュータで制御してドーム型スクリーンにアニメキャラクターを映し出す装置なども設置しました。
この博覧会を企画したのはラジオ局のニッポン放送ですが、手塚先生も所属しておられた日本漫画家協会が全面協力してくださっていました。企画段階から漫画家の皆さんが様々なアイデアを出してくださったので非常に充実したイベントになりました」
漫画家協会の協力で実現した企画にはどんなものがありましたか?
「例えば『新・鳥獣戯画』と名付けた壁画がまさにそれでした。縦2.1m、横7.2mの巨大なパネルに上野動物園をモチーフとして、100人の漫画家さんにマンガを描いていただいたんです」
おー、こちらの写真がその『新・鳥獣戯画』ですか! 手塚先生はレオの絵を描かれていますね!!
「みんなバラバラの絵なんですが、よく見ると微妙に他の人の絵と意味がつながっていたりして、いつまで見ていても飽きない見事な絵でしたよ」
釼持さんご自身はこのイベントにどのように関わっておられたんでしょうか。
「博覧会を主催したのはニッポン放送と日本漫画家協会で組織されたマンガ博覧会実行委員会で、私は美術館側のスタッフのひとりとして働いていました。当時私は31歳でメンバーの中では若い方だったので、スケジュール管理から会場整理まで何でもやりましたよ(笑)。じつは私はその前の年まで箱根の「彫刻の森美術館」に勤務しておりまして、上野の森美術館へ移って最初の仕事がこの『マンガ博覧会'82』だったんです」
手塚先生が会場へ来られたときのことを何か覚えていらっしゃいますか?
「現在は上野の森美術館の別館が建っている場所に当時『東宝チェリー』というレストランがありましてね。イベント開催前にそこの2階で関係者が集まってオープニングセレモニーが開かれたんです。その席で手塚先生が壇上に立って挨拶をされて『マンガ家の作品がこうして美術館に展示されたのがとてもうれしい』と語っておられたのが印象的でしたね。
今でこそ博物館や美術館でマンガの展覧会をやるのはごく一般的なことになっていますが、1982年当時美術館でマンガ博覧会をやるというのはかなり先駆的なことだったんですよ」
当時、その先駆的なことを上野の森美術館でやれたのはなぜだったんでしょう。
「当館は1972年4月に日本美術協会の展示施設を改修して上野の森美術館としてオープンしました。運営を付託されたフジサンケイグループは、1969年には初めての野外美術館「箱根・彫刻の森美術館」を開館しています。ですから私たちには、それ以前から『誰もやらないことをまっ先にやろう』という信条があるんです。上野の森美術館にも開館当初から現在までそれがDNAとしてずーっと受け継がれているんですよ」
―釼持さん、ありがとうございます!!
ところで釼持さん、最後にもうひとつお聞きしたいんですが、手塚先生も絵を描かれている『新・鳥獣戯画』は今どこにあるんでしょう?
「うーん、それは私も分かりませんねえ。そうだ、当時マンガ博覧会の事務局の仕事をされていたあの人なら分かるかも知れません」
おおっ、その方をぜひご紹介願えませんか!
ということで散歩の途中ではありますが、釼持さんからご紹介いただいた池の本鴻明さん(75)に電話でお話をうかがった。池の本さんはマンガ博覧会'82当時はニッポン放送事業開発部に所属し、マンガ博覧会実行委員会事務局のスタッフとしてイベントを取り仕切っておられた方である。
池の本さん初めまして。突然のお電話すみません!
「いえいえ。新・鳥獣戯画ですかー、懐かしいですね。あれはイベントが終わった後、有楽町のニッポン放送へ持って帰ってきて、しばらくうちの第一スタジオの壁に飾られていたんです。第一スタジオは公開放送などで一般のお客さんもよく来られる場所でしたので、当時は皆さん、けっこう足を止めて見ていらっしゃいましたよ」
で、ではもしかして今もそちらにあるんですか!?
「それがもうないんです。その後社屋を建て替えていますから、その時に取り外されてその後は行方不明ですね。もしかして捨てられてしまったのか、誰かが持って帰ったか……。いや、あんな大きいものですから持って帰れはしないですね。
ラジオ局の人間というのは新しいことをやろうという意欲は強いんですが、逆に資料とか記録を残すのは本当に苦手なんですよ。だからマンガ博の資料もニッポン放送には恐らく何も残ってないんじゃないかなあ。
でも私の記憶にはしっかりと残っています。私もまだ若かったですからね。
『マンガを低俗といって見下す時代はもう終わった。マンガを文化として底上げするには美術館を巻き込んで何か面白いことをやってやろう』
そんな風に意気込んでいましてね。その意図はそれなりに達成できたんじゃないかと思っています。当時、上野の森美術館に入場待ちの行列が出来たのは初めてだと言って釼持さんたちにも喜んでいただきました」
池の本さん、突然の電話取材ありがとうございました!!
そして後日、池の本さんに書き上がった原稿を確認していただくためにメールをお送りしたところ、いただいたお返事に次のような追伸が書かれておりました。
----------------------------
「虫さんぽ」拝読いたしました。
(中略)
ところで、人から言われたり、何かの刺激を受けると遠い記憶がふと思い起こされるものです。
黒沢様からご連絡をいただいて数日後に、以下のことを思い出しました。
「新・鳥獣戯画」の制作過程のことです。
あの作品が描かれたのはニッポン放送の「銀河スタジオ」です。
(中略)
スタジオ内に大きなパネル・ボードを並べて、約一ヶ月近くをかけて「新・鳥獣戯画」が描かれたのです。
何しろ忙しい先生方ばかりですので、一同に集まることなどできるはずがありません。
そこで、仕事の合間を見付けて、時間が許すときスタジオを訪れて描いていただきました。
中には、一度訪れてすでに描かれている他の先生の絵を見て、改めて構想や画材を決めてまた別の日に訪れて描かれる方も有り、制作期間中はいつ訪れられても作業が出来るようにスタジオをフィックスしたことを思い出しました。
今考えるに、あの作品が行方不明になったことが、かえすがえすも残念でなりません。
遅ればせながら遠い記憶の一端をお伝えいたします。
上野の森美術館から上野公園内を北へ500mほど歩いたところに「国立科学博物館」がある。前回の上野さんぽでは『海のトリトン』に出てきた場所として紹介したけど、ここは『ブラック・ジャック』にも登場している。1975年8月に発表された第84話「デベソの達」がそれだ。
一風変わった性格でひどいデベソだった達吉は、クラスメートたちからいじめを受けていた。だが達吉には化石を発見する不思議な才能があった。先生の勧めで化石掘りを始めた達吉は、ある日、崖地で恐竜の化石を発見した。
この物語で国立科学博物館が出てくるのはラストシーンなので、サムネイル画像にはマスクをかけています。まだ読まれていない方はネタバレ注意! 拡大画像はあくまでも自己責任でご覧ください。
作中には国立科学博物館に展示されている恐竜化石が出てくるので、今回は館内にもおじゃまさせていただいた。
恐竜の化石や実物大模型が展示されているのは「地球館」の地下1階だ。入り口でチケットを買ったら中庭を抜けて地球館へ。
展示室へ入ると、狭いスペースにひしめくように巨大な恐竜の骨の群れが展示されている。「デベソの達」に出てくるゴルゴサウルスの化石はなかったが、同じ二足歩行恐竜だとティラノサウルスの存在感がすごい! 頭を低く落として見学者にいまにも襲いかかりそうなポーズをしている。
ちなみに手塚先生が「デベソの達」を描いた1970年代には二足歩行恐竜はもっと体を起こしてゴジラみたいにほぼ直立に近いポーズで歩くものと想像されていた。しかしその後研究が進んで、現在ではこのティラノサウルスのように体をほぼ水平に寝かせた状態で歩くのが普通だったとされている。
手塚先生は、時代に合わせて何度でも絵を描き直すことで有名だったから、もしも先生が健在のころにこの新説が出てきていたら、「デベソの達」に描かれた恐竜の骨も、単行本化の際には間違いなく描き直していたでしょうね。
1973年7月から74年5月にかけて雑誌『ビッグコミック』に連載された『ばるぼら』には「国立西洋美術館」と「東京国立博物館」が登場する。
物語は、耽美派の小説家・美倉洋介が新宿の地下道で「ばるぼら」というフーテン女と知り合ったところから始まる。美倉は、まるで正体がつかめずつかみ所のないばるぼらに次第に魅せられてゆく……。
芸術家の頭の中を開いてみたらいったいどんな世界が広がっているのか。この作品はそれを描いてみせたかのようなじつに奇妙なお話だった。
国立西洋美術館が出てくるのは物語の中盤だ。ばるぼらが酔って暴れて警察に補導され、美倉は身元保証人となって彼女を引き取りに行く。ところがその帰り道で彼女はまたも取っ組み合いの大ケンカを始めてしまった。
「もうたくさんだ」
美倉がそう言って現実から逃がれるようにやってきたのが上野の西洋美術館だった。
国立西洋美術館は国立科学博物館のすぐ隣にある。ところが何とこの日は改装中で休館だった。ということで前回の上野さんぽの時に撮影した写真で紹介いたします。
続いて東京国立博物館へと向かいましょう。
東京国立博物館が『ばるぼら』に出てくるのは物語のラスト近く、マンガ家で本の収集家でもある
このシーンでは、1973年の4月から6月にかけて東京国立博物館で開催された「モナ・リザ展」で実際に起きたある事件について触れられている。
4月20日の開館初日、多くの見学客が詰めかける中、ひとりの女性が「モナ・リザ展反対」と叫びながらモナ・リザの展示ケース目がけて赤いカラースプレーを吹き付けた。幸いスプレーはケースには届かず女性もすぐに取り押さえられた。
話題のイベントだったので新聞社の記者もその場に多くいたため、その日の夕刊では各紙が捕えられた女性の写真付きでそれを報じたのだった。
ここ東京国立博物館は手塚先生とはもうひとつ関わりがある。それは「モナ・リザ展」から38年後の2011年に『手塚治虫のブッダ展』と題した特別展が開催されたことだ。
『ブッダ』は手塚が1972年から1983年まで雑誌『希望の友』『少年ワールド』『コミックトム』に連載した作品で、ブッダの生涯を独自の解釈で描いた作品だ。
東京国立博物館の特別展は、その手塚マンガと仏像など本物の仏教美術とを同時に展示するという画期的な試みだった。当時のチラシに踊る「仏像と漫画、トーハクでまさかの共演!」というキャッチコピーが、この企画の大胆さと意外さを良く表わしている。
実際に行かれた方は皆さん感じられたと思うんだけど、手塚先生の描いたブッダと本物の仏像とが驚くほどなじんでいた展覧会でした。
さて次はこの上野公園内のあちこちに点在している手塚スポットをまとめて紹介しよう。
現在の上野公園、すなわち上野のお山全体が舞台として出てくる作品は、手塚先生が自身の祖先を主人公として描いた作品『陽だまりの樹』だ。
かつて上野の山はその全体が寛永寺だった。現在の東京国立博物館の場所にその本坊があり、そこを中心に上野の山全体にお堂や塔や伽藍が整然と配置されていたのだ。
慶応4年5月、旧幕府軍に属する彰義隊は、明治新政府軍に対して徹底抗戦の構えを示しこの上野の山に立てこもった。5月15日、大村益次郎率いる新政府軍は彰義隊に対して宣戦布告、総攻撃が開始された。
マンガでは騒ぎを聞きつけた伊武谷万二郎が武装して上野の山へ駆けつけ、彰義隊に加勢する。固く閉ざされていた黒門が開き中へ通される万二郎。そして間もなく戦争が始まった!
この黒門があったのは現在の上野公園の南端付近だった。現在その場所には何も残っていないが、昭和13年に建てられた蜀山人の歌碑がある。文字はかすれていてほとんど読めなくなっているけど、案内板によれば次のように書かれているとのことだ。
「一めんの花は碁盤の上野山 黒門前に かかるしら雲」
ちなみにこの黒門、現在は移築されて別の場所にある。後ほどそこへも行くのでお楽しみに。
『陽だまりの樹』の上野戦争の場面では、遠景にときおり五重塔が見えている。
東京都建設局のサイトにこの塔の紹介が載っていた。それによればこの塔は寛永8年(1631年)に土井利勝の寄進によって建てられたのが最初だそうだけど、その塔は寛永16年(1639年)に焼失、同じ年に新たに建てられたのが現在の塔だということだ。
この五重塔は上野の山の中央西側に建っているが、なぜか動物園の敷地内になっているため、近くで見るためには入園料を払って動物園の中へ入らなければならない。うーん、何とも。なので今回は塔の南側にある上野東照宮の参道から見るだけにとどめました。
上野公園の北端、東京国立博物館の向かって右隣に建っている古いお寺が東叡山輪王寺だ。『陽だまりの樹』で上野戦争のシーンが出てくる章のタイトルがまさにこの「上野輪王寺」となっている。
そしてここにも上野戦争当時を偲ぶ遺構が残されている。輪王寺の敷地の東南端に建っている立派な黒門。これがそうだ。
この門はかつては寛永寺本坊の表門として現在の東京国立博物館正面に建っていた。
本坊は上野戦争で焼失してしまったがこの表門は焼失を免れて残った。
その後も帝国博物館(現・東京国立博物館)の表門として使われていたが、昭和初期に現在の場所へ移築されたという。
この門の分厚い鉄製の扉には、上野戦争当時の弾痕がいくつも残っている。中には手の平ほどもある巨大な穴もあった。これは上野戦争で新政府軍が使った新兵器の大砲・アームストロング砲の弾痕だろうか。
上野の山をひととおり歩いたところでいったん上野駅へと戻る。
ここからは東京メトロ日比谷線に乗って最後の目的地へと向かう。降りたのは上野から2駅目の三ノ輪駅である。上野の山だけでもかなり歩いたので疲れてはいるが、あと1ヵ所なんでがんばろう。
三ノ輪駅から国道4号線を5分ほど北上した場所に円通寺というお寺がある。『陽だまりの樹』の上野戦争の場面にも描かれた上野寛永寺の黒門、その移築先がここ円通寺なのだ。門を入ってすぐ左側に黒門はあった。その後ろには彰義隊士の墓も建っている。
ここに彰義隊士の墓と黒門がある理由は境内の案内板に書かれていた。
上野戦争の後、上野の山には彰義隊士たちの遺体がそのまま放置されていた。それを見て心を痛めた円通寺の
この黒門にも近づいてみると銃弾の後が点々と残っていて上野戦争の激しさを静かに物語っている。
手塚マンガを通して、日本が新しく生まれかわろうとしていた時代を象徴する遺構にまたひとつ出会えました。
ちなみに『陽だまりの樹』に描かれた場所をめぐる都内さんぽは2012年にも行っています。よろしければそちらも参照してください。
・虫さんぽ:第22回「東京都文京区~千代田区 陽だまりの樹さんぽ!」
ところで! このコラムをお読みの皆さんに相談があります。じつは今回、どうしても見つけられなかった場所が1ヵ所だけありました。それは冒頭で紹介した『ブラック・ジャック』「血が止まらない」に出てきたこの風景。博が由紀を励ましている場面で、ふたりの背後には銅像の台座のようなものが見えていて、さらにその奥には特徴的な洋風建築が建っている。
話の流れ的にはここも上野公園かその周辺と考えるのが自然だと思うけど、いくら探してもこの風景が見つからない。上野の森美術館の釼持さんにもお尋ねしてみたが、彫刻や銅像の専門家でもある釼持さんからも「上野公園周辺にはこんな台座の彫刻はないですねえ」と言われてしまったのでした。
かなり具体的な絵だからまったく架空の風景ということはなく、恐らく資料写真を見ながら描かれたものだとは思うんだけど……。この風景がどこかご存知の方がおられましたらぜひ手塚プロまでご一報ください。
それではまた次回の虫さんぽでご一緒いたしましょう~~~~~っ!!