1970年代初め、手塚マンガは、劇画やスポ根マンガに押されて人気の低迷がささやかれていた。そんな1974年、手塚がひさびさに放ったスーパーヒット作が『三つ目がとおる』だ。鉄腕アトムにも似た愛くるしい
ここに『三つ目がとおる』第1話が掲載された『週刊少年マガジン』1974年7月7日号がある。巻頭30ページの読み切り作品。トビラページのみカラーだが本編はすべてモノクロという、かなり地味なデビューだった。お話の内容も、主人公の写楽保介が、その力を発揮する前に終わってしまっている。
だけど当時、これを読んだぼくら読者は、この作品とキャラクターに秘められた魅力を即座に感じ取っていた。
ぼく自身「これはひさびさのヒットになるぞ!」という期待感がふくらみ、背筋がゾクゾクしたのをはっきりと覚えている。
それまで数年間、大きなヒット作を生み出せずにあえいでいた手塚の苦悩は、ぼくらファンにも痛いほど伝わっていた。数々の実験的な読み切りを連発して迷走する手塚マンガ……。
そんなファンのフラストレーションがたまりまくっていたところへ、いきなりこの『三つ目がとおる』を見せられたのだ。若い手塚ファンのみなさんもぜひ想像してみてください。<……想像中……>ねっ、びっくりするでしょ!
『三つ目がとおる』はその後、ほぼ1ヶ月に1話のペースで読み切りが6回掲載され、第7話からは、いよいよ毎週連載として新たなスタートを切った。
この前年の1973年秋からは『週刊少年チャンピオン』で『ブラック・ジャック』の連載も始まって、すでに人気が盛り上がってきていたころであり、この2作品は、1970〜80年代の手塚マンガを代表する傑作として成長していくことになる。
ところで、この『三つ目がとおる』は、手塚にとっては、実に9年ぶりの『少年マガジン』での連載だった。
具体的な内容については、いずれこのコラムでも取り上げるつもりなので、ここでは詳述しないが、9年前、手塚治虫と『少年マガジン』との間にはある
そして迎えた1974年、この年は手塚治虫のマンガ家生活30年目の年だった。
そこで『マガジン』編集部は、手塚をひさびさに迎えるにあたって、ある大舞台を用意した。それは「手塚治虫30年史」という巻頭25ページオールカラーの特集を組み、さらに描きおろしの読み切りマンガを掲載するというものだった。
『少年マガジン』はもともと、挑戦的な企画をぶち上げて読者を驚かせることをたまにやる雑誌ではあったが、それでも連載作家でもない作家にこれだけの大特集を組むというのは、まさに異例中の異例な特別待遇だったと言えるだろう。
この時、特集とともに掲載された読み切り作品は、佐渡おけさ発祥にまつわる説話を描いた創作民話『おけさのひょう六』という30ページの単発作品だった。
講談社版全集の『三つ目がとおる』のあとがきによれば、この読み切りを発表したあとで編集部から、次はSFを描いて欲しいというリクエストがあり、「超能力の少年をだそうと考え」て『三つ目がとおる』にいたったのだという。
今回、『少年マガジン』編集部で、当時、手塚治虫を担当した編集者の方に話をお聞きすることができた。
『おけさのひょう六』の発表からしばらくして、栗原氏が次回作の打ち合わせのために、富士見台にあった手塚の仕事場を訪ねた。その時手塚は栗原氏に、次回作の主人公の候補だと言って、5人のキャラクターの絵を見せたという。
「手塚先生が私に『栗原氏、どれがいいと思いますか?』と聞かれましてね。ところが私としては、もう迷うどころか見た瞬間に、これしかないと思ったキャラクターがいたんです。それが後の写楽保介ですが、そのキャラクターだけが他を圧してパーッと光り輝いていました」
ところが栗原氏が迷わずその絵を指差すと、なぜか手塚は不満そうだったという。
「手塚先生は『そうですかねぇ……』と言ってちょっと考え込まれて、あまり納得されていない様子なんですよ。それで最終的にそのキャラに決めてからも、いかにも、編集が言うからこれにしたんだ、と言いたげな顔をしばらくされていましたね(笑)」
この手塚の態度は「我が意を得たり」という思いの裏返しの照れ隠しだったのか、あるいは、いまだにスランプの気持ちを引きずっていて、本当に自信がなかったのかは分からない。だが、結果的にこの選択が正しかったことは、後の歴史が証明している。
ぼくはここで栗原氏に聞いてみた。
「その時、栗原さんがもし別のキャラを選んでいたらどうなっていたんでしょうね?」
すると栗原氏はこう答えられた。
「あの時の私には、あのキャラクターしか選択肢はありませんでした。手塚先生は若い編集者を試すように、ちょっと遊ぶような気持ちもあって、ご自分が描きたいキャラクターを選ばせたにちがいありません」
こうして始まった『三つ目がとおる』は、かつての手塚ファンを呼び戻すとともに、新たなファンを獲得していった。特に当時、一ファンとしてぼくが実感したことは、『三つ目』以降、イベントに来るファンの中に若い女性が急激に増えたことだった。
今でこそマンガのキャラクターを自分の友人や恋人のように「○○くん」「○○ちゃん」などと呼ぶことは、男女を問わず珍しくなくなっているが、このころのファン大会などで、女性ファンが目をハートマークにして「三つ目くん」「写楽くん」などと言っている姿は、何とも奇妙に映ったものだ(失礼!)。
時代はまさに、テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』に始まる第2次アニメブームのころであり、のちに“おたく”と呼ばれるコアなファンたちが続々と誕生していたころだった。『三つ目がとおる』は、そんなマンガ・アニメの流行の最前線にいた人たちに受け入れられたのだ。
ここで少し別の視点から『三つ目がとおる』の時代を振り返ってみよう。それは『三つ目がとおる』がメインのテーマとしている古代史ミステリーについてだ。
『三つ目がとおる』の発表から数年後、
だから現代の視点から当時を振り返ると、それらの流行に埋もれて『三つ目がとおる』の先見性が見えにくいが、当時は古代史ミステリーをテーマとしたマンガというのは、かなり斬新で挑戦的な企画だったのである。
ただし手塚にしても、まったくの無からこの作品を生み出したわけではない。手塚の発想のベースになったと思われる事象を並べてみよう。
この前年の1973年3月、
そんな折も折、第4次中東戦争の影響によるオイルショックが日本を直撃した。都市部ではガソリンやトイレットペーパーが不足し、人々がパニックにおちいる事態となったのだ。
そんな不安が、人々を未知なるものや不可思議なものへとかきたてたのだろうか、このころ世間では「ツチノコ」という謎の未確認生物の目撃情報が相次いでいる。
そして1974年が明けると、次に訪れたのは超能力ブームだった。3月、テレビのスペシャル番組でイスラエル生まれの超能力者ユリ・ゲラーがスプーン曲げや透視などの超能力を披露した。するとそれに触発された少年たちが続々とスプーン曲げをやりはじめ、全国に超能力少年が現れたのだ。
『三つ目がとおる』は、日本中がこうした世紀末的な空気に満ち、騒然とした中で生み出された作品だったのである。
さて、今回の『あの日あの時』の本題はこれで終わりだ。だけど最後に、テーマからは少し外れるが、栗原氏からお聞きした興味深い話を紹介しよう。
栗原氏は、『三つ目がとおる』を担当していたころ、手塚にこんな質問をしたことがあるという。
「私が聞いたのは、『先生は見開きの中で、特に重要視しているコマというものはありますか?』ということでした」
マンガを本や雑誌で読む場合、読者は常に“見開き”という2ページ単位で作品を見渡すことになる。栗原氏は手塚に、その際に特に力を入れて描くコマはあるかということを聞いたのだ。すると手塚は……、
「先生は即座にこう答えたんです。『ありません!』と。それはもう間髪を入れない即答でした」
栗原氏が手塚にこんな質問をしたのには理由があった。
当時『マガジン』の作品の主流だったのは、マンガよりもリアルな画風を追求する劇画だった。そのため栗原氏は最初、手塚の絵があまりにもマイルド過ぎて歯がゆさを感じることもあったというのだ。栗原氏は言う。
「あのころは私も若くて、毎日マンガとデスマッチしている気分でしたから(笑)。たとえば作品の中に刀で人を殺そうという場面が出てくる時は、その刀の刃はギラギラしてて本当に斬れそうなものであって、ここぞという大事なコマに描きこんでほしいと思っていたわけです。ところが手塚先生の作品では、そういうところにはまったく
だけど、手塚先生の『ありません!』という即答で、私はハッと分からされたんです。手塚先生のマンガは1コマの絵の完成度を追求する“絵画”ではないということをですね。
手塚先生のマンガには特別に重要なコマなどない。ひとつのコマは次のコマのためにある。そして次の1コマはまたさらに次の1コマのためにあるんです。そうやってコマが連なっていくことによって、そこに物語がつむがれていく……。それが手塚マンガの本質であり、さらに言えば、手塚先生が開拓したストーリーマンガというものの本質なんです」
その後、栗原氏は1982年に週刊誌『モーニング』(創刊当初の誌名は『コミックモーニング』)を創刊、1986年には『月刊アフタヌーン』を創刊して、それぞれの編集長を長く兼務した。
その間、栗原氏にとっては、あの若き日に手塚の言葉を聞いて分かったことが、常に編集者としてマンガと向き合う際の、大きなバックボーンになっていったのだという。つまり「マンガは次のコマさえ描ければいい」と。これもまた、手塚とひとりの編集者との重要な対話の瞬間=まさに「あの日あの時」だったのである。
ではまた次回のコラムでお会いいたしましょう!
取材協力/(株)講談社、栗原良幸、由利耕一(順不同・敬称略)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番