沖縄の地で手塚マンガに描かれた風景を訪ね歩く夏の虫さんぽ、いよいよ本日が最終日です! 今回は手塚治虫先生が展示プロデューサーを務めた沖縄国際海洋博覧会(EXPO'75)会場の跡地を皮切りに、手塚マンガに登場した美しい沖縄の風景を探して歩きます。遠い夏の日のアルバムを繰るように、あのころ手塚先生が見た沖縄の風景を追体験しに出かけましょう〜〜〜〜〜!!!
沖縄さんぽ最終日。接近するW台風の影響か、それとも南国特有の天気なのか、快晴なのにときおりザッと雨が降ってすぐまた晴れる。そんな気まぐれな天候の中、レンタカーで北谷(ちゃたん)町のホテルを出発、今日は沖縄自動車道で一気に北を目指します。
目的地は本部(もとぶ)町の北端にある国営の海洋博公園である。
と、その前にゲストコメンテーターをご紹介いたします。前編・中編の解説で皆さまにもすっかりおなじみになったと思います。『手塚治虫のオキナワ』(2010年春秋社刊)の著者で現在は文教大学国際学部国際理解学科教授・本浜秀彦先生です。本浜先生、今回も解説よろしくお願いします!
「こちらこそよろしくお願いします!!」
さてぼくは片側2車線の沖縄自動車道を快適にドライブする。
やがてまっすぐだった道が名護市の手前で大きく左へカーブする。このカーブの北東方向に、現在、基地移設問題で注目が集まっている辺野古(へのこ)の海がある。ただし残念ながら、道路の両側には樹木の植えられた高い土手が続いていて周りの風景はまったく見えない。地図によればこのあたりは米軍演習場のど真ん中を突っ切っているようだ。
このカーブを過ぎると有料道路は間もなく許田(きょだ)で終点、ここからは名護湾を左に見ながら海沿いの国道を北上する。浦崎で左折して県道114号線に入れば目的地の海洋博公園はもうすぐだ。
今からちょうど40年前の1975年7月、ここ本部町で沖縄国際海洋博覧会(EXPO'75)が開催された。世界中から36ヵ国、3国際機関、1自治体が参加し、開催期間はおよそ半年。総額325億円をかけた一大国家プロジェクトだった。
その海洋博のメイン施設でありシンボル的存在でもあったのが、海に浮かぶ“未来の海上都市”「アクアポリス」である。
アクアポリスは縦横各100m四方、高さ32mという巨大な人口島で、荒天時には海中に半分沈み込むという、当時世界最大にして世界初の海上実験都市だった。総工費は123億円。
手塚先生は1973年、このアクアポリスの展示プロデューサーに就任した。
本浜先生、手塚先生がアクアポリスでプロデュースした企画というのはどんなものだったんですか?
「アクアポリスへ向かう入館者が乗るエスカレーターの周囲に映し出される海中映像の演出です」
当時の公式プログラムにも載っています。「マリノラマ」という名前で沖縄の海中散歩が疑似体験できるアトラクションだったようですね。
「そうなんですが、残念なことに予算がほとんど付かなかったようで使えたのは一億円程度だったといいます。アクアポリス全体の1パーセント以下ですよね。しかも数千万円かけて制作した大ダコの装置はうまく動かず単なるオブジェになってしまったりして、手塚先生がイメージされたものの何分の一も実現できなかったんじゃないでしょうか」
そうだったんですね。手塚先生は本当はどんな夢のあるアトラクションを構想していたんでしょうか。
「じつはそのヒントとなるイラストがあるんです。手塚先生が1972年8月に全日空の機内誌に発表した『オキナワ─
おお、この絵ですか! まさにぼくらアトム世代がイメージする海洋都市というのはこれですよね。あの要塞みたいなごっついアクアポリスじゃなくて。
「前回も少し話しましたが、手塚先生が沖縄海洋博のプロデューサーに正式就任したのは1973年ですが、私の推論ではこのイラストを描いた1972年の夏前にはすでに非公式な打診を受けて沖縄を訪れていたのではないかと思っているんです」
それで手塚先生はさっそく沖縄の海洋都市のイメージを絵にされたんですね。そして前回紹介した、沖縄を舞台とした短編『イエロー・ダスト』を描いたと。
「そういうことです。手塚先生はアクアポリスのプロデュースでは残念ながらその才能を存分に発揮することはできませんでしたが、手塚治虫を沖縄と出会わせたという意味で、手塚先生がこの仕事をやられたことには大きな意味があったと私は思っています」
なるほど! そのあたりは後ほど詳しくうかがいます!!
沖縄海洋博は1976年1月に閉幕。翌1977年8月にその跡地にオープンしたのが国営の海洋博公園である。
駐車場に車を止めて公園へ入る。駐車場は八割方埋まっていてお客さんもけっこう来ているようだが、何しろ広大なので写真を撮っても人はまばらにしか写らない。
案内所があったので、海洋博当時の建物などが残っていないか聞いてみたところ、唯一、海洋文化館は当時のままの建物だというが、それ以外に当時の施設は何も残っていないという。
本浜先生、アクアポリスももうないんですよね。
「アクアポリスは海洋博の開催期間中に約203万4000人が入館したもっとも人気のあった施設でした。しかし閉会後は使い道が見つからないままずっと海上に係留されていましてね。
その後那覇市が観光用に購入を検討した時期もあったんですが、採算が合わないということで結局断念をしました。そして最後は2000年にスクラップにして廃材利用するというアメリカの企業に1,400万円で売られて中国へ運ばれたんです」
祭りの後の寂しさを感じるお話です。
このアクアポリスが係留されていたのは会場の南寄りにある「夕陽の広場」の沖合だった。夕陽の広場の名前はそのまま残されているが、丘の上に立って見渡してみても、目の前には青い海が広がっているだけで、当時の名残は何もない。
残念に思いながら視線を落とすと、遠くにアクアポリスっぽい形をした施設が見えた。何だろうと近づいてみると、それは「アクアタウン」という名称のジャングルジム的な児童遊具だった。実物の50分の1くらいの大きさだろうか、けっこう細部まで凝って作られていてシルエットはまさにアクアポリスそのものだ。
子どもなら興奮して遊びそうな場所だけど、暑いので遊んでいる子はひとりもいない。というか周りに子どもどころか人っ子一人いない! 警備員さんがたったひとり手持ちぶさたな感じで遊具の周辺を警備していました。
車に戻ったぼくはいま来た道を引き返し、いよいよ今回の沖縄さんぽ最後の目的地である那覇市の首里城公園へと向かう。
首里城公園でぜひ見たいのは沖縄のシンボル「守礼門」だ。
ファーストカットがこの守礼門から始まる手塚マンガがある。雑誌『週刊少年チャンピオン』1973年9月17日号に発表された読み切り作品『海の姉弟(きょうだい)』である。
主人公は沖縄の海でオニヒトデを採ってひっそりと暮らす比佐子と良平のふたりの姉弟。ふたりは日本人の母が戦後、沖縄に駐留してきた米兵に暴行されて生まれたハーフという設定である。しかもそれぞれ父親が違う異父姉弟なのだ。
本浜先生、この作品はいきなり重い設定から話が始まりますね。
「はい。物語の中にふたりの年齢は出てきませんが、そろそろ結婚を考える年頃の姉は22〜23歳くらい、思春期の弟は15歳くらいでしょうか。この作品が発表されたのが1973年ですから、姉弟の設定に無理はありません。むしろ戦後沖縄のリアリティーを取り込んで造形されたものと言っていいでしょう。
しかもふたりの母親は、太平洋戦争中の沖縄戦で上陸してきた米兵に村の場所を教え、そのせいで多くの村人が犠牲になったとして戦後は村八分にされていました」
沖縄海洋博も話題に出てきますね。本土からやってきた姉の婚約者が大企業の社長で、彼が沖縄へ来た目的は海洋博を当て込んで海を埋め立て、そこにリゾートホテルを建設することだったという話で……。
「そうなんです。まさに戦中から戦後にかけて沖縄が歩んできた歴史と1973年当時の沖縄をそのまま描いた内容になっているんですね。
沖縄さんぽの前編で『どんぐり行進曲』(1959年)という作品を紹介しましたが、手塚先生は恐らく1950年代後半ごろから沖縄への関心が芽生えたのだと思います。その後、その回路はしばらく閉じていましたが、沖縄海洋博をきっかけに再びその回路が開き、結実したひとつがこの作品『海の姉弟』だったのではないでしょうか」
本浜先生のおっしゃる通り、そう考えるとしっくり来ますね。手塚先生は沖縄海洋博という“お祭り”に関わっても、そこに潜むマイナスの面や歴史の影というものもしっかりと見詰めていたということが、このマンガを読むとよく分かります。
「実際に海洋博も、当初は沖縄の経済的な自立の起爆剤として大いに期待されたんですが、道路などのインフラ整備は整ったものの、乱開発や閉幕後の不況、大型倒産などで期待は大きく外れてしまいました」
先ほどお聞きしたアクアポリスのその後の運命が、いみじくもそれを象徴していますね。
観光客で賑わう首里城にはもうひとつ、手塚スポットではないが、ぜひ立ち寄りたい場所があった。守礼門をくぐったら首里城へは向かわず、その左側にある石段を降りてゆく。すると舗道の片隅に色あせた古い案内板がひっそりと立っている。看板には「第32軍司令部壕」とある。
沖縄さんぽ前編では豊見城岳陵に残る旧海軍司令部壕を歩いたが、ここ首里城の地下にも旧陸軍の司令部壕があった。
地下壕の掘削が始まったのは1944年12月。空襲が激しくなった1945年3月には旧陸軍の第32軍司令部がここへ移転してきた。総延長1,000数百mほどの地下壕に一時は1000人以上の将兵や軍属、学徒たちが雑居していたという。しかし2ヵ月後の5月22日、司令部は撤退を決め、壕の主要部分と坑口は破壊された。軍民混在の逃避行は苛烈を極め、多くの将兵と住民が命を落したという。それから70年、壕はさらに崩壊が進んでおり中に立ち入ることはできない。
2000年12月「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された9つの史跡の中でももっとも有名な首里城ですが、その地下には太平洋戦争が遺した悲しい負の遺産があることをぼくらは忘れてはいけませんね。
本浜先生、いよいよ沖縄さんぽもここ首里城でゴールとなりますが、『海の姉弟』を発表して以後、手塚先生は沖縄をどう描いてきたんでしょうか。
「注目すべきは『ブラック・ジャック』で描かれた沖縄を舞台とした3つのエピソードですね。『ブラック・ジャック』では前回も紹介した第81話『宝島』のほかに、第131話『青い恐怖』、そして最終話となった第241話『オペの順番』でも沖縄が舞台として描かれています。
そしてこの3つのエピソードに共通しているのはかけがえのない自然というものがテーマになっているということなんです。手塚先生にとって反戦と地球環境の保護は生涯にわたる作品のテーマでした。そうした中で1970年代に海洋博に関わったことで手塚先生は沖縄の戦争の歴史と今、そしてあふれんばかりの自然に出会ったんですね。それで沖縄に自身のテーマを託そうと考えてこの3つのエピソードを描いたのではないかと思うんです」
確かに『ブラック・ジャック』は最初は短期連載で始まったためにこまかい設定は考えていなかったと手塚先生は語っています。
ところが人気が出て連載が長期化すると、BJは稼いだお金をいったい何に使っているのか、当然読者も気になってきます。それに対する答えが第81話『宝島』だったんですよね。BJは沖縄の自然を買っていたと! このお話のラストシーンでのBJの叫びは心に刺さります。
そして『青い恐怖』ではその沖縄の海でたくましく生きる漁師の父と息子の姿を描きました。最終話でふたたび沖縄の海を描いたのも本浜先生がおっしゃるように象徴的なことだったと思います。
「黒沢さんは今回、手塚先生の足跡をたどって沖縄を歩いてみてどう感じられましたか?」
沖縄には基地問題もあり、いまだに戦争が終わっていないということ、それからあの悲惨な戦争を決して忘れない、二度と起こしてはいけないと考える人たちが今もたくさんいるということですね。
その一方でひとたび沖縄の海や自然に目を向けると、それらはどこまでも美しくやさしく静かなんですね。70年前にここが悲惨な戦場になったなんてまるで信じられませんでした。
だけど大阪で空襲を経験された手塚先生にとっては、その両方がぴったりと結びついたんでしょう。透き通るような沖縄の海を眺めながら、この自然を壊してはいけない、戦争なんて二度と起こしてはいけない。手塚先生はきっとそんな思いを心に刻んで、沖縄を舞台とした作品群を描いたのだと思います。
それでは最後に、本浜先生の著書から手塚先生と沖縄との関係を語った文章を引用させていただいて、沖縄さんぽを締めくくりたいと思います。
本浜先生は、手塚治虫が最初の単行本『新寶島』など初期作品のころから“島”に対して憧れを持ち、そこに冒険心や夢を託してきたということを語り、それに続けてこのように書かれています。
「手塚は、そして手塚マンガは、戦後という時代空間と不可分である。その時代を、マンガとともに手塚は生き抜いた。(中略)。『戦争で生き残った』手塚が、戦争の傷跡がまだ生々しく残っていた一九七二年頃の沖縄に、海洋博を通して関わったのは、紛れもない『出来事』だったのである。
『沖縄』経験以後の手塚マンガでは、『物語』を産み出す装置としての『島』は、もはや実体化した『島』のリアリティーの後ろに追いやられたのではないか。そして実体化した『島』と『海』とともに、新たなイメージを膨らませていく。『海の姉弟』の後に連載を開始する、医者にならなかった手塚の“分身”が主人公の『ブラック・ジャック』シリーズで、手塚マンガは、新たに息吹いたのである。」(本浜秀彦著『手塚治虫のオキナワ』より)。
本浜先生、3回にわたって研究者ならではの的確な解説をありがとうございました。
また3泊4日の沖縄さんぽにおつきあいくださった読者の皆さんもお疲れさまでした。では那覇空港で現地解散といたします。次回の虫さんぽにもよろしくおつきあいください。解散っ!!
(今回の虫さんぽ、5時間23分、2327歩)