手塚治虫生誕90周年企画のひとつとして2018年2月に小学館クリエイティブから発行予定の『カラー完全版 ふしぎな少年』。今回はこの本が企画されて本になるまでの全過程をご紹介! 古い雑誌からページを取り込んで復元する複刻作業とは? 消えた天才子役はどこへ? 幻のシナリオを追って北海道へ飛んだ!? じつはこの本、企画・編集を私・黒沢が担当している。ということで普段はあまり見られない手塚マンガの複刻版制作現場を行程順に編集者本人が大公開いたします!!
手塚治虫の『ふしぎな少年』という作品をご存知だろうか。昭和36年にNHKの同題のテレビドラマと一緒に企画され、手塚マンガの雑誌連載(講談社『少年クラブ』)とテレビドラマの放送が同時に始まるという、メディアミックスの走りのような作品だ。
四次元世界へ落ち込んだことがきっかけで時間を止める能力を持った主人公の少年サブタン。彼はその力を使って、身の周りで起こる様々な事件を解決していく。
サブタンが時間を止めるときに叫ぶ「時間よとまれ!」というセリフは当時子どもたちの間で流行語になった。
この『ふしぎな少年』は過去に何度も単行本や文庫になっていて現在も講談社の手塚治虫文庫全集などいくつかの版で読むことができる。
だけど手塚が雑誌掲載作品を単行本化する際の常で、この作品の単行本も連載当時とはまるで別物となってしまうほどの改変が加えられているのだ。
そして何といっても「時限爆弾」編と「鬼ヶ島」編という2つのエピソードが、過去の単行本では一度も収録されたことがない。
今回、原本に当たってみて初めて明らかになった単行本未収録ページ数は、この2つのお話だけでも240ページ超。さらに再編集の際に削除されたページを加えると、『ふしぎな少年』の単行本未収録ページは300ページを超えることが明らかになった!
今回、ぼくが小学館クリエイティブにこの作品の複刻企画を提案したのは、ぼく自身がこの作品が大好きで丸ごと未収録となっているお話があることを記憶しており、ずっともったいないと思っていたからだ。
『ふしぎな少年』は雑誌『少年クラブ』昭和36年5月号から始まって同誌の休刊号となる昭和37年12月号まで連載が続いた。
昭和32年生まれのぼくはこのころまだ4歳。とっくにマンガを読み始めていた年齢ではあるが、詳しいお話の中味まではっきり覚えていられる年齢ではない。
しかし幸いなことにこの作品はそれから4年後の昭和41年から42年にかけて秋田書店の雑誌『まんが王』に再録連載されたことがあった。どうやらぼくはこの再録版の方を読んでいたようだ。
それからはずっと一手塚ファンとしてこの作品の完全複刻を待ち望んでいたんだけど、どこの出版社からも一向に出る気配がない。そこで今回、小学館クリエイティブに企画を提案してみたところ企画が通ったというわけだ。
企画会議では、ぼくより上の世代である社長や一部の役員たちからの強力なバックアップがあった。「“時間よとまれ”のあの作品だろ。覚えてるよ」とか「テレビドラマ見てたよ。“時間よとまれ”って言って遊んでたもん」などと言って『ふしぎな少年』を知らない人たちに、この作品の当時の人気ぶりをアピールしてくれたのだ。
1978年に発表された矢沢永吉のヒット曲にその名もズバリ『時間よ止まれ』という歌がある。これを作詞した山川啓介は昭和19年生まれ。つまり『ふしぎな少年』放送当時は16歳であり、小クリの役員たちとほぼ同世代だ。確かめたわけではないので単なる推測だけど、山川氏がこの歌詞を考えたときに『ふしぎな少年』を意識していた可能性はかなり高いのではないだろうか。
さてこうして企画が通っても、複刻版を出版するためには、その元となる連載当時の雑誌原本を入手しないことには始まらない。企画提出前から相談にのってもらっていた手塚プロ資料室の田中創さんに連絡をして、さっそく原本探しを開始した。
まずは田中さんからメールで詳細な連載リストが送られてきた。それを見ると連載は毎月、『少年クラブ』の本誌から、その号の別冊付録へ続くという形で続いており、本誌16冊、別冊付録19冊にまたがって連載されていたことが分かった。
毎月、本誌から別冊付録へ連載が続くというのはこの当時の月刊マンガ雑誌によくあった連載スタイルだ。このころの月刊マンガ誌には、別冊付録が数冊から多いときには10冊ほども付いており、別冊付録に収録される作品はいずれも本誌で人気上位の作品ばかりだった。本誌にカラーや2色刷りページで8ページほどが掲載され、そのお話の続きが別冊付録へ続くという形で毎月連載が続いていたのである。判型は本誌が週刊誌サイズのB5判、別冊付録はその半分のB6判の場合が多かった。別冊付録は判型が小さい分、36ページから48ページとたっぷり読めるだけのページ数を取っていて、読者としては本誌の大判カラーで迫力ある絵を楽しんだ後、今度は別冊付録でお話をじっくり読めるというお得感たっぷりの構成だったのだ。
だがこの連載形式は単行本化をまったく想定していないから可能だったもので、後年になって単行本化される際には再編集が必要になるなど、なかなかやっかいな形式だった。
田中さんが送ってくれたリストには手塚プロ所有分についてはチェックが付いているが、まだまだ欠番がある。そこで田中さんには元手塚プロ資料室長で2016年に急逝された森晴路さんの蔵書を調査していただくようお願いする一方で、ぼくの方では手塚治虫ファン大会で交流のあるオールド手塚ファンの方々や、過去の『虫さんぽ』取材でお世話になった方々に尋ねてみることにした。
ところが、この原本探しが思いのほか難航した。雑誌自体が休刊直前だったため、恐らく発行部数がかなり少なかったのだろう。お持ちの方がなかなか見つからないのだ。
かつて『虫さんぽ』で取材をさせていただいた会津美里町『会津美里冒険堂』館長の白井祥隆さんや福島県南会津郡只見町の『昭和漫画館青虫』館長の高野行央さんにも問い合せてみたが、両館ともにこの時代の『少年クラブ』本誌も別冊付録も所蔵していないとのことだった。
こうなったら最後は自腹で買うしかないと思ってマンガ専門古書店やネットオークションを探してみたが、古書市場にもこの年代の『少年クラブ』はほとんど出回っていなかった。
そんな中で古くからの手塚コレクターである土田征三さんが一部の本誌と別冊付録をお持ちだということが分かり、しかも快くお貸しいただけることになった。土田さんのご協力によって特に入手困難が予想された連載後期の何号かの欠番が埋まった。
さらに田中さんからも朗報が飛び込んできた。森晴路さんの蔵書から欠番だった本誌と別冊付録が見つかったというのだ。これによって本誌16冊、別冊付録19冊全てがようやく揃ったのである。
集まった各原本の状態を調べたところ一部にページが破れて欠落している部分や、製本が粗雑で糊がはみ出してページが貼り付いてしまい絵柄が隠れている部分などがあったが、それも手塚プロ、土田さん、森さんの蔵書から状態の良いものを選ぶことで補完できることが分かった。
今回ぼくがこのように雑誌原本からの複刻にこだわったのは、トビラや柱に入っている文章なども含めて雑誌連載当時の雰囲気をできるだけ残したまま、このマンガを複刻したいと考えたからだ。
『ふしぎな少年』の生原稿は手塚プロに残っているが、単行本化の際に切り刻まれ切り貼りされて雑誌連載当時とはほど遠い状態になっている。
前回このコラムで取材させていただいた復刊ドットコムの『三つ目がとおる《オリジナル版》大全集』の場合は、そうして切り刻まれた原稿を初出当時の順番に並べ戻して複刻するという、ものすごく手間と時間のかかる企画である。だけどそうすることで手塚の流麗な筆致を生原稿に近い状態で味わうことができる。
それも魅力なので悩ましい選択ではあるが、ぼくの場合は、半世紀以上前に『ふしぎな少年』が初めて発表された当時の時代の空気感も含めて複刻することを選んだのだ。
同じ手塚マンガの旧作を再刊する企画でも様々なアプローチがあることをご理解いただきたい。
原本が揃ったら、次はこの本をどんな仕様で出すかを決めなければならない。今回の複刻の主題のひとつとしてカラーページと2色刷りページを完全再現するというのがあった。『ふしぎな少年』は、先ほども紹介したように、雑誌連載時は毎月本誌のカラートビラ絵から始まり、その後にカラーもしくは2色刷りページが数ページ続いて、そのままお話は1色刷りの別冊付録へと続くスタイルだった。
ここで印刷・製本の仕組みを簡単に説明すると、本というのは、1ページごとにバラバラに印刷するわけではなく、16ページ分や32ページ分を大きな紙に一度に印刷し、それを折り畳んで加工、断裁し製本することで本ができあがる。この16ページや32ページという印刷時の最小単位を出版用語で“折(おり)”という。小さい紙を印刷機にかけて印刷するよりも、大きな紙に一度に印刷した方が印刷工程が少なくなるために効率が上がるということはすぐにお分かりいただけるだろう。
ところが今回の『ふしぎな少年』のようにカラーページが本全体のいろいろな位置に散らばって入っている場合、この折単位での印刷がむしろ足かせになってしまうのだ。例えば1折が16ページの場合、ある折の中にたった1ページでもカラーページがあれば、その16ページはすべてカラーで印刷となる。仮に全ページの中でカラーページが3分の1だとしても、その散らばり具合によってはオールカラー印刷とほとんど同じくらいの印刷コストがかかってしまうのだ。
よく単行本の巻頭や巻末に「カラートビラ絵集」などとしてカラーページだけをまとめて収録していることがあるが、これは、カラーページだけをひとつの折にまとめて、印刷コストを抑える意味があるのである。
しかし今回の企画は、雑誌連載時のページ順通りにカラーを再現しなければ意味がないので、印刷経費がかさんでしまうことも必要コストとして企画当初から覚悟していた。
ということで最終的に決定した『カラー完全版 ふしぎな少年』のページ構成は、第1巻544ページ、第2巻480ページとなったが、それを折で数えると第1巻34折、第2巻30折となる。そのうちカラーページ(2色刷り、カラーインクでの1色印刷ページも含む)の総計は2巻合計で187ページ。しかしそのカラーページが複数の折にまたがっているため、全64折のうち半分近い26折がカラー印刷となっている。
そして悩みに悩んだのが本の大きさ=判型だった。先ほども紹介したように、連載当時の『少年クラブ』本誌は今の週刊マンガ誌と同じB5判。別冊付録はその半分の大きさのB6判(後半の別冊付録はB5判)である。このバラバラの判型をどうやって単行本にまとめるかだ。
ベストなのは当時のサイズのままB5判はB5判で、B6判はB6判別冊付録形式のまま出版することだ。かつてジェネオンエンタテインメントと復刊ドットコムが2009年から2011年にかけて出版した『鉄腕アトム《オリジナル版》複刻大全集』(全7ユニット)はこの形式を取っていた。コレクターズアイテムとしてはまさに理想的なスタイルである。ところが印刷所に見積もりを出してもらったところ、とても現実的な金額では出版できないことが分かった。
では本の判型を大きい方に合わせたらどうか。本のサイズをB5判にして、B6判の別冊付録は周りに余白を取りそのまま原寸サイズで印刷する。これなら採算的にもぎりぎり見合いそうである。
だが別の問題があった。B6判の別冊付録の総ページ数が全1000ページのうちおよそ700ページもある。つまり全体の3分の2以上のページが大きな紙に半分の面積で印刷されることになってしまうのだ。試しに別冊付録をコピーしてB5判の紙に貼って束ねてみたが、余白が大きすぎてスカスカな印象になってしまい物語に集中できない。これでは複刻の意義としても本末転倒だろう。
そこで苦渋の決断ではあったが、本の大きさをB5判とB6判の中間サイズであるA5判とし、本誌掲載分については縮小して掲載、B6判別冊付録については周囲に余白を取って原寸掲載という形に落ちついたのだった。この決断にいたるまでには関係者や手塚ファンにもいろいろと聞き回ったりして、およそ半年を費やした。
もちろん本誌掲載分を縮小することに対しては一部のオールド手塚ファンから厳しいご意見もいただいたが、完成した本を手に取っていただけば、そうした皆さんにもきっとご満足いただけるはずである。
マンガ本編の見所は、先にも紹介したように連載当時のカラーと2色刷りページを完全再現していること。過去の単行本でカットされていた「時限爆弾」編と「鬼が島」編240ページ以上を単行本初収録していること。
そしてじつはカットされたページはそれだけではなく、事件と事件をつないでいた小さなエピソードや、四次元世界とは何かを解説したページなど、単行本化の際にバッサリとカットされたページも、本書では全て初出のまま複刻して掲載している。
雑誌連載版を通読すると、今までの単行本で読んでいた『ふしぎな少年』とはまるで別のお話とさえ感じられるほどに差違があることに恐らく多くの人が驚かれることだろう。
判型が決まったことでその他の仕様も少しずつ固まっていった。本は約500ページずつの2分冊として、それを箱に入れて2冊セットでの販売と決まった。箱は業界用語で“三方箱”と呼ばれる箱の側面の1面が開いていてそこから本を差し入れる形式の箱である。
さらに予算の中で何か付加価値のあるおまけが付けられないかと思って探していたところ、連載当時小出信宏社から発売された『ふしぎな少年』のかるたがあるという。そこですぐに印刷所に見積もってもらったところ、さすがに箱入りの状態で付録に付けるわけにはいかないものの、絵札と読み札の全カードを厚紙に印刷したものを付けるのなら予算的にも見合うことが分かり、これを付録に付けることが決まった。
ちなみにこのかるたの絵札の原画を描いたのが手塚本人か、あるいは別の人の代筆だったのかで過去に様々な意見が出ている。
しかし実際に絵札を見たぼくの見立てでは、全点ではないものの一部の絵札の原画は手塚本人の絵と見てほぼ間違いないと思っている。
本書が発売されたらぜひ皆さんの鑑定眼でもご鑑定いただきたい。
第2巻目の巻末には資料編として、原作マンガの解題とテレビ番組の作品紹介、そして関係者インタビューなどを掲載する予定を立てた。
解題は手塚プロ資料室の田中創さんに依頼。作品解説はマンガ編集者の中野晴行さんにお願いし、素晴らしい原稿を上げていただいた。またテレビ番組の解説についてはアンソロジストの濱田高志さんに依頼して、こちらも貴重な情報を多数提供していただいた。
だが難航したのが関係者インタビューである。NHKのテレビドラマ『ふしぎな少年』で主人公のサブタン役を演じたのは、当時の人気子役だった太田博之氏だ。太田氏は当時、『怪獣マリンコング』や映画『少年探偵団』などに出演して天才子役と言われていた。
その後太田氏は1970年代後半に芸能界を引退して持ち帰り寿司チェーン店を経営するなどして話題になったこともあったが、やがてメディアに出ることはなくなり、現在では完全に消息不明となっている。
今回、ぜひともその太田氏を探し出してインタビューをしたいと思い、可能な限りの手を尽くした。
まずはネットで検索したところ2011年にアパレル会社が発行した熟年メンズ向けのファッションカタログにモデルとして出演していたことが分かった。ネットの情報では、どうやらこれがもっとも最近の消息のようである。
そこでぼくもこのカタログを古書店で入手してページの隅々までをくまなく読んでみた。しかし肩書きの部分に「会社役員」とあるだけでそれ以外に手がかりとなるような情報は何ひとつ記載されていなかった。
もちろんアパレル会社にも電話で問い合せてみたのだが「このカタログの撮影は間に立ってくれた仲介者がいて実現したものだったのだが、現在はその仲介者とも連絡が取れず、太田氏の消息は分からない」というお返事だった。
そこでぼくの知り合いや知り合いの知り合いや知り合いの知り合いの知り合いをたどったりしながら、出版界、芸能界、映画界、テレビ界、音楽界、演劇界、ビデオソフトメーカーなどに片っ端から問い合わせてみたのだが、残念ながら朗報はどこからも帰ってこなかったのである。
一方で別の朗報があった。テレビドラマ『ふしぎな少年』を企画し自らプロデューサー・ディレクターを担当された辻真先氏へのインタビューができることになったのだ。手塚治虫ファンクラブで『手塚ファンmagazine』を編集している和田おさむ氏に相談したところ、同誌に不定期で連載されている関係者インタビュー記事『私の中の手塚治虫』で、近々辻氏のインタビューを行うことになっているという。このコーナーの取材と文は濱田高志さんである。そこで本書の巻末インタビューもこの取材に便乗して濱田さんに同時に行っていただけることになったのだ。
2017年3月31日、インタビューは新宿の喫茶店で行われた。1932年3月23日生まれの辻真先先生はこの日は85歳の誕生日を迎えた直後だったことになる。足がお悪いとのことで杖をついておられたが、体はいたってお元気で、しかも昔のことをよく覚えておられる。おかげでインタビューでは初めてうかがう貴重な事実も多々あった。
そんな中で驚いたのは、このときすでに本書に付録として付けることが決まっていた『ふしぎな少年』のかるたの読み札の文章を辻先生が書かれていたということだ。そのくだりを『手塚ファンmagazine』のインタビュー記事から引用しよう。
「─(『ふしぎな少年』の)主題歌は石山透さんが作詞されていますね。
辻:実のところ、最初は手塚先生にお願いして書いていただいたんです。でも、それは使いものにならなかった(笑)。それで慌てて石山さんにお願いしたんです。ただ、その時に、先生の歌詞を採用しなかった罪滅ぼしで、のちに『ふしぎな少年』のカルタを作った際に、字札の文を僕が全部タダで書きました」
『私の中の手塚治虫 第92回/辻真先さん(中編)』(『手塚ファンmagazine』Vol.316掲載)取材・文 濱田高志より
確かにあらためて読み札の文章を読み返してみると、作品を十分に理解していなければ書けない文章になっている。刊行されたら読み札の文章もぜひじっくりと味わっていただきたい。
この辻真先氏のインタビューではもうひとつ大きな収穫があった。
辻先生が『ふしぎな少年』のテレビドラマに企画当初から脚本家として関わっていた石山透氏について話をされていたときのことだ。「石山氏の書いた脚本が北海道の小樽文学館にある」とおっしゃられたのだ。
石山透氏は1985年に亡くなられているが、ご遺族が石山氏の出身地である北海道小樽市の市立小樽文学館に台本などの資料を預けられているというのである。
「確かその中に『ふしぎな少年』の脚本も何冊かあったはずだなぁ」
という辻先生の記憶を頼りに市立小樽文学館に問い合せてみたところ、館長の玉川薫氏が電話口で直接応対してくださり、確かにご遺族からの預託をうけて石山氏の脚本を保管しており、その中に『ふしぎな少年』のシナリオも3冊だけあるというのだ。
その脚本は企画展など以外では一般公開していないというが、直接うかがえば特別に閲覧させていただけるとのことで、ぼくは躍り上がり、その場で北海道行きを決めたのだった。
石山透氏の『ふしぎな少年』のシナリオが北海道小樽市にあることが判明! さらにそこにもうひとつの幸運な偶然が重なった。この問い合わせをしたのは4月初めのことだけど、このとき、この虫ん坊コラムの編集会議では次の『虫さんぽ』の訪問地を北海道にすることが決まった直後だったのだ。そして1ヵ月後のゴールデンウィークには北海道へ行くことがすでに決まっていた。
そこで虫さんぽスタッフと相談してスケジュールを組み立て直し、札幌さんぽの後に半日だけ小樽へ立ち寄る時間を捻出したのだ。
『虫さんぽ』の記事には書いてないが、札幌さんぽを終えて編集担当O山と別れた後、ぼくはひとり車で小樽市へと向かっていた。そしてその日は小樽に泊まり、翌朝一番に市立小樽文学館へとおじゃましたのだった。
小樽文学館は1978年11月3日に開館。小樽ゆかりの作家である小林多喜二や伊藤整、山中恒などの展示に力を入れているが、2014年に玉川薫氏が館長となってからは展示の範囲をテレビドラマやマンガにも広げて幅広いテーマで企画展を開催している。2016年9月~10月には「編集者・長井勝一没後20年『ガロ』と北海道のマンガ家たち展」という企画展を開催して好評を博したという。
出迎えてくださった玉川薫館長にご挨拶すると、館長はさっそく倉庫から赤茶けたガリ版刷りの脚本を持ってきてくれた。放送第1話と第2話、そして第100話の脚本である。第1話の脚本は表紙の下半分が破れて欠落していたが、それでも中ページはほぼ完全な状態で残っていた。
その場で少し時間をもらって脚本を読ませていただくことにした。放送当時、ぼくもこの番組を見ていた断片的な記憶はあるが、ストーリーまでは覚えていない。しかも『ふしぎな少年』は生放送のスタジオドラマだったのでVTRはおろかフィルムさえ残っていない。脚本は当時の物語を知る貴重な資料なのだ。
お話は手塚の考えた基本設定を生かしながら、随所にギャグをはさみつつ軽妙に展開していく。当時のソ連が行っていた宇宙開発や、子どもたちの間で流行して社会問題になったという危険なロケット遊びの話題なども出てきて当時の世相がうかがえる。
ぼくは一気に3冊の脚本を読み終えた。頭の中に断片的に残るこの番組の記憶で映像が補完され、まるで実際に映像を見返したかのような感動を覚えた。
そして結論から先に言ってしまうと、ぼくはこの場で玉川館長にこのシナリオ第1話の本書への再録をお願いしてご了解を得た。さらに後日館長の仲介でご遺族にも連絡を取り、ご遺族からも快諾をいただいたことで、本書への幻の脚本第1話完全再録が決まったのである。
脚本の読了後、館長の玉川薫さんにお話をうかがった。玉川さんは昭和28年生まれで『ふしぎな少年』放送当時は8歳。まさに視聴者ど真ん中の世代だった。
「『ふしぎな少年』は、手塚先生の原作マンガを読んでいた記憶はないんですが、テレビドラマはリアルタイムで観ていました。主題歌もはっきりと覚えていますよ。
昭和28年というと私が物心ついたばかりのころで、ちょうどテレビが普及してきましてね、最初に近所の友達の家にテレビが来て、間もなくうちでもテレビを買って。『ふしぎな少年』の放送が始まったのはそれからすぐのことだと思います。
『ふしぎな少年』は“時間が止まる”というのが面白くてね、ワクワクしたのを覚えていますよ。子どもは四次元とか時間旅行とかそういうものが大好きですからね。
石山さんはSFの知識とセンスがおありでしたので、こうした荒唐無稽なお話を書かれても決して子どもだましには感じられないんですね。
石山さんは後年、筒井康隆の『時をかける少女』を原作としたNHKの連続ドラマ『タイム・トラベラー』(1972年)の脚本をお書きになって、これがヒットしたことでNHKの少年ドラマシリーズが始まるわけですが、そのルーツがこの『ふしぎな少年』の中にすでにあったと思いますよ。
日常のすぐ隣に不思議な世界があって、恋愛とまではいかないけれど、少年と少女の胸がキュンとするようなほのかな思いが描かれているという、まさに少年ドラマの原点ですよね」
ところで玉川さん、こちらの小樽文学館に石山さんの脚本が保管されているのはなぜなんですか?
「じつは2014年9月から11月にかけて当館で『石山透と少年少女ドラマの時代』という特別展を開催しましてね。石山さんが小樽出身だということは以前から知っておりましたので、これは私がずっとやりたいと思って暖めていた企画だったんです。そこでご遺族に連絡を取って貴重な資料をお借りすることができ、辻真先先生など関係者にお話を聞くこともできて実現したのがこの企画だったんです。それがご縁で企画展終了後も貴重な資料の数々は当館で保管させていただいているんです。常設展示はしていませんが、関連企画が開催される際にはまたこの脚本なども展示したいと思っています。
ちなみにこの企画展の時に心残りだったのは、主演の太田博之さんにぜひお話をうかがいたかったのですが、残念ながら八方当たってみても、とうとう連絡が取れなかったんですよ」
玉川館長もそうでしたか! じつはぼくも今回の本で太田博之さんのインタビューを掲載したく、つてをたどって探したんですが、やはり連絡先は分かりませんでした。ぜひとも当時の状況や今の心境など、いろいろとうかがってみたいですよね!! 玉川さん、貴重なお話と脚本のご提供、ありがとうございました!!
さて、ぼくがこうやって周辺資料を収集している間も、東京のDTP会社・オフィスアスクでは雑誌原本から印刷用のデータを作るスキャンと画像修正の作業がコツコツと進められていた。
さらに今回のブックデザインを担当していただいているオフィスアスク所属のデザイナー・米川裕也さんからは、箱やカバーのデザインなどが着々と上がってきていた。
ぼくが米川さんにお願いしたデザインコンセプトはただひと言「レトロフューチャーな感じでお願いします」ということだった。
昭和20~30年代にかけての手塚治虫の単行本の表紙は、1950年代のアメリカ映画のポスターや当時のパルプ・マガジンを強く意識したバタ臭いものが多かった。表紙には大きな英語の文字が躍り、これから始まる物語を予感させる迫力のある絵がまるで表紙から飛び出すように描かれている。そんな懐かしい手塚マンガのイメージをボックスアートで再現したかったのだ。
結果、米川さんから上がってきたデザインは単に1950年代風のレトロなテイストをコピーしただけではなく、そこに現代多岐な解釈も加えた、絶妙のデザインとなっていた。
こうした箱のデザインやカバーなどのデザインもぜひひとつひとつじっくりと楽しんでいただきたい。
本書『カラー完全版 ふしぎな少年』の発売は来年2018年2月ごろの予定で定価は9,000円+税の予定。まだ少し先ではあるが、お小遣いを貯金しながらぜひ待っていていただきたい。
さて次回も手塚本出版の現場からの中継でお送りいたします。次回は散逸しがちな手塚のエッセイなど、活字資料を丹念に集めて文庫として出版している立東舎の手塚本編集現場におじゃまいたします。資料を集める苦労の裏側を直撃! ぜひまた次回のコラムにもお付き合いください!!
取材協力/小学館クリエイティブ、市立小樽文学館、オフィスアスク、米川裕也(順不同・敬称略)