昭和29年、トキワ荘を出た手塚治虫先生が次に移り住んだのが、豊島区雑司が谷の
今回の散歩の出発点は池袋駅である。池袋駅はJR(山手線、埼京線、湘南新宿ライン)を中心に、西武池袋線、東武東上線、東京メトロ(丸ノ内線、有楽町線、副都心線)が乗り入れていて、一日の乗降客数はおよそ270万人。新宿駅に次ぐ全国第2位の巨大ターミナル駅だ。
また80〜90年代以前の映画青年にとっては、池袋は映画の街という印象が強いのではないだろうか。それは単に映画館の数が多かったというだけでなく、低料金で良質な映画を見せてくれる名画座がいくつもあったからだ。
ぼくも学生時代には、情報誌『ぴあ』を片手に、学校へは行かず池袋で途中下車をして文芸坐や文芸地下、日勝文化、そして今もあるシネマ・ロサなどへ通い詰めた懐かしい思い出がある。もちろん映画好きの手塚先生にとっても、ここは最高に魅力的な街だったに違いない。
というわけで池袋駅東口に降り立ったぼくは、かつて何人もの編集者が手塚先生のアパートを目指して歩いたであろう明治通りを南下する。
そうして歩くこと7〜8分。左側に鬼子母神西参道への入り口が見えてきた。
その一方通行の細い路地を入ってすぐ目の前の三叉路が、
ところで鬼子母神とは何か? 仏教伝説によれば、もともとは子どもをさらって食べる悪鬼だった。だが仏の戒めによって自分のしてきた悪行を悔い、善神となった。以後、
鬼子母神様にお参りをし、
この並木道の途中の路地をちょっと入ったところに、かつて手塚先生が住んだアパート・並木ハウスがある。
昭和27年、手塚先生が郷里宝塚から東京へと拠点を移して最初の仮住まいとしたのは、前回の虫さんぽで訪ねた新宿区四ッ谷の下宿だった。次に豊島区椎名町(現・南長崎三丁目)のトキワ荘へと引っ越し、さらに昭和29年10月に移り住んだのが並木ハウスだった。
後で詳しく話をお聞きする予定だけど、この並木ハウスの大家さんも手塚先生がここへ入居していたころの思い出をとても大切にされていて、建物は当時の面影をそのまま残している。しかも今もアパートとして現役で使われているため、人の息づかいの感じられる生きた資料館になっているのだ。
手塚ファンにとっては、四ッ谷の下宿もトキワ荘も今や跡形もないだけに、この当時の手塚先生の仕事場の雰囲気をうかがえる唯一の貴重な場所と言えるだろう。
しかも今回は、その当時の手塚先生のことをよ〜くご存知の方に案内していただきます。どっかのCMじゃないけど、なんてぜいたくなんだァ〜!!
ということで並木道に立って待っていると、待ち合わせ時間の午後2時ぴったりに現れたのが、案内人をお願いした元講談社編集者の丸山昭さん(80)だった。さすが元敏腕編集者!
昭和5年山梨県生まれの丸山さんは学習院大学を卒業後、昭和28年に講談社へ入社。『少年クラブ』編集部などを経て昭和29年『少女クラブ』編集部へ異動した。当時、手塚先生は同誌で『リボンの騎士』を連載中で、丸山さんはその担当を命じられ、以後、手塚番としてのハードな日々が始まることになった。ということで丸山さんが先輩編集者に連れられて初めて手塚先生を訪ねたのも、この並木ハウスだったという。
さっそく丸山さんと一緒に路地を入ると、正面にクリーム色の木造モルタル2階建ての建物が建っている。ここが並木ハウスだ。
そこに立った丸山さんの第一声は「いや〜懐かしいなぁ」というものだった。丸山さんもここへ来られるのはおよそ10年ぶりだそうで、今日の散歩を楽しみにしてくださっていたのだ。
そして今回は何と、並木ハウスの大家さんと、現在、手塚先生のいた部屋を借りておられる借り主さんのご厚意で、部屋の中まで見せていただけることになった。皆様ありがとうございます!
ちなみにこの建物は、さっきも書いたように今もアパートとして使われていて建物内部の一般公開はされていません。皆さんが散歩をされる際には、決して敷地内には立ち入らないようお願いします。それと門の前で記念撮影などされる際には、近隣の方々の迷惑にならないよう、くれぐれもお静かに!!
大家さんの奥様の案内で、建物の中へ。そこでさっそく丸山さんが目を止めたのは、玄関を入ってすぐの壁に飾られていた大きな鉄腕アトムのポスターだった。これは手塚先生が亡くなられた1年後の1990年に竹橋の東京国立近代美術館で開催された『手塚治虫展』のポスターだ。
今でこそ博物館や美術館でマンガ展が開催されるのは珍しいことではないが、当時は国立美術館でマンガ展を開くなんて
この並木ハウスの部屋は1階と2階合わせて全部で11室ある。手塚先生が借りていたのは、2階のいちばん奥、裏階段に隣接した角部屋の6畳間だった。
廊下はコンクリート張りで、靴は各部屋を入ったところで脱ぐようになっているため廊下や階段を歩く人の足音はほとんど気にならない。またその廊下は上から見るとコの字型に曲がっていて、各部屋の間取りがそれぞれ違うという、とても凝った造りになっている。
それでは2階へと上がりましょう。「いやあ〜楽しみだな。昔はこの階段を登るときはいつも足が重かったんだけどね(笑)」と丸山さん。
そしていよいよ手塚先生の住まわれていたお部屋へ入らせていただいた。この部屋は現在、グラフィックデザイナーの方が仕事場として借りている。茶色い柱と白い壁という和風の部屋には、この方がご自分で持ち込まれたというクラシックな茶だんすが1つ。そして机の上に3台並んだパソコンのモニターが妙にこの空間とマッチしている。とっても居心地がよさそうな部屋である。
丸山さんによれば、手塚先生がいた当時は、この6畳間に先生の仕事机のほか、大きなソファベッドが1脚、茶だんすがひと
またこの部屋は丸山さんにとって、編集者として数多くの才能と出会った場所でもあった。
そのひとつが昭和30年8月10日のことだ。以下、丸山さんの著書『トキワ荘実録』からその日の状況を引用しよう。
「息もつまるような暑い午後、私は座り込みの何日目かを迎えていました。担当の『リボンの騎士』が、締め切りを過ぎたのにまだ出来ていないんです。当然、居催促の私もイライラの限界に来ている」
と、そのときドアをノックする音がして、丸山さんがドアを開けるとそこには学生風の若者が3人が立っていた。丸山さんはファンが押しかけてきたのだと思い、けんもほろろに断ってドアを閉めた。だが若者たちは帰ろうとせずに、ドアの外から名前を名乗った。
するとそれを聞いた手塚先生がすぐに彼らを部屋へ招き入れてしまった。
実はその3人は、雑誌『漫画少年』(前回の『虫さんぽ』参照)を中心に作品を発表し、めきめきと
最初は「時間がないんだよなあ、もう」と聞こえよがしにイヤミを言っていた丸山さんだったが……「けっきょく私まで話の中に引きずり込まれちゃって、手塚先生の仕事はいつの間にかそっちのけ。一同まんが談義にのめり込んでいました」(前出『トキワ荘実録』より)ということです(笑)。
また藤子不二雄のかたわれ
当時、マンガ家がアシスタントを専属で雇うというシステムはまだなく、手塚先生は忙しいときに若いマンガ家に応援を頼んでいた。そんなときによく駆り出されたのが安孫子氏だったのだ。
朝、徹夜明けで手塚先生が仮眠を取っている中で、丸山さんは、安孫子氏が買ってきたパンと牛乳を、先生を起こさないように息を殺して食べた思い出を語ってくださった。「ちょうどぼくらが食べ終わったころに手塚先生が起きてきましてね、「ぼくの分はないんですか?」と聞かれて、安孫子さんが「あっ、忘れました!」なんてこともありましたね(笑)」
並木ハウスを出てちょっと休憩。ここでもうひと方、散歩案内人に加わっていただきました。並木ハウスの大家さん・
「私の祖父が並木ハウスを建てたのは昭和28年です。祖父はそれまで東京文化教材社という模型飛行機の会社を経営しておりまして、並木ハウスの場所は元々、その工場だったんですよ」
砂金さんは現在、一級建築士としてお仕事をされていて、
「やっぱり私も祖父の血を受け継いでいるんでしょうか。祖父は
手塚先生が並木ハウスに入居するきっかけは何だったんでしょう?
「母から聞いた話では、当時、学童社で『漫画少年』の編集をしていた
砂金さんのお母様は4年前に亡くなられたが、手塚先生が並木ハウスで暮らしたころの思い出をずっと大切にされていたという。
「生前、母は私たちにこう言い続けていたんです。『私の目の黒いうちは、手塚先生のいた部屋はぜったい誰にも手を加えさせません。ただし私が死んだらあなたたちが好きにしなさい』と。それで母が亡くなったときには、もうそうとう建物の
そのリフォームも、おじいさまの思いを受け継いで細部までこだわったという。
「例えば窓枠も、普通ならアルミサッシに変えてしまうところですが、わざわざ木枠で作り直しました。
最後に、砂金さんがお母様からお聞きしたという忘れられない手塚先生の言葉を教えてくださった。
「ある日、母が手塚先生に聞いたことがあるそうです。『先生はどうしてそんなに根を詰めて仕事をなさるんですか? もう少しお休みになられたらいいのに』と。そしたら手塚先生は『子どもが待っていますから、休むわけにはいかないんです』と答えたそうです。母はその言葉にとても感動したと言ってましたね」
砂金さん、貴重なお話をありがとうございました!!
丸山さんとぼくが最後に向かったのは、並木ハウスから徒歩15秒のケヤキ並木沿いにある「雑司が谷案内処」だ。この建物も砂金さんの土地に建っており、昭和8年に建てられた建物が改修して使われているという。そして実はここも手塚スポットなのである! その紹介はのちほど!!
まずは案内処応援倶楽部メンバーの
「雑司が谷案内処は、雑司が谷周辺の観光と地域交流の拠点として2010年7月にオープンしました。私たち案内処応援倶楽部のメンバーが持ち回りで当番を勤めて運営しています」
この案内処の1階には地図や豊島区の観光案内パンフが置かれていて自由に閲覧できる。また分からないことがあれば石田さんたちが直接答えてくれる。物販コーナーには地元で作られた民芸品などのおみやげが並ぶ。雑司ヶ谷鬼子母神の縁起物として有名な「すすきみみずく」もあった。
また2階は展示ギャラリーとなっていて、散歩当日は、この地域で発掘された陶器や料理をされた跡の残る
そしてお待ちかね、手塚スポットはその2階の一角にある。ここには手塚先生が描かれた並木ハウス時代の仕事風景のイラストが拡大されパネルになって展示されているのである。
石田さんに案内されて、丸山さんと一緒にそのパネルを見ていると、ふとその横にある小さなパネルが気になった。
そちらも雑誌のページを複写したものらしく、アトムのイラストが入っていて、アトム本人が読者に向けてあいさつをしているような文章が書かれている。
それを読んで驚いた。
「いま、ぼくは東京の雑司ヶ谷に、一年あとで生まれた、ロボットのおとうさんとおかあさんといっしょにすんでいます」
それは雑誌『少年』の昭和30年新年号別冊付録として付いた「電光人間の巻」の表紙裏のページだった。昭和30年といえば、手塚先生がまさに並木ハウスに住んでいた時期だ。どうやらその時期にアトムもここ雑司ヶ谷に住んでいたようだ。
と、手塚先生は雑誌連載中によくこうしたお遊びをやっていた。だけどこうして60年近い時を経てから読むと、何だかアトムも本当にこのあたりに住んでいたんじゃないかと、ふとそんな気もしてくるのでありました。
それは単なる思い込みでなく、ぼくらがつい先ほどまで、当時のままに残る並木ハウスにいて時間旅行から戻ったばかりだったからかも知れないが……。
ではまた次回の散歩にも、おつきあいください!!
(今回の虫さんぽ、3時間17分、3773歩)
取材協力/丸山昭、砂金宏和、大橋久美、並木ハウス、雑司が谷案内処(順不同・敬称略)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番