手塚治虫のマンガに出てくるキャラクターは人間だけではない。中でも特に目立つのがヒトとケモノの中間的なキャラたちだ。動物型の宇宙人、悪魔の科学者によって動物に改造された犯罪者、ヒトに化ける妖怪変化などなど……。近ごろ、そんなあやかしの人獣たちが活躍するマンガやアニメが“人外もの”と呼ばれて人気らしい。だったら手塚マンガの“人外もの”も読んでみたらどうですか? ということで今回は手塚マンガの人外ヒロイン&ヒーロー作品を振り返ります!!
まずはこちらの画像をご覧いただきたい。これは『ブラック・ジャック』の連載第5話「人間鳥」から引用したものだ。人力飛行コンクールの会場に突如舞い降りた翼を持った少女。じつは彼女の翼はブラック・ジャックが与えたものだった。生まれつき足が不自由な彼女の夢をブラック・ジャックが聞き入れ手術をほどこしたのである。
足かけ10年にわたる連載の中でイルカからミイラまで様々な患者を治療してきたブラック・ジャックだが、人間に翼をくっつけてしまうというのは、かなりぶっ飛んだ発想のエピソードと言っていいだろう。
ところで最近、こうした人間以外の“何か”をメインキャラクターとした“人外もの”と呼ばれるマンガやアニメが人気となっているのをご存知だろうか。
例えば『月刊コミックガーデン』に連載されている『魔法使いの嫁』(ヤマザキコレ)はヤギのような異様な頭部を持った魔法使いが人間の少女を嫁にするというお話である。
また『ミステリマガジン』で連載中の高橋陽介のマンガはその名もズバリ『人外な彼女』という作品で、吸血少女、魔女っ子など毎回違ったタイプの人外少女が登場するお話だ。
鉄腕アトム誕生以前のドラマを描くマンガ『アトム・ザ・ビギニング』(コンセプトワークス/ゆうきまさみ、漫画/カサハラテツロー)が連載されている雑誌『月刊ヒーローズ』では、村田真哉原作、隅田かずあさ作画の『キリングバイツ』という作品が人気だ。
これは人間の頭脳と獣の牙を併せ持つという“獣人”の少女・ラーテルが活躍する物語で、獣人対獣人の激しい牙闘(キリングバイツ)が描かれる合間に、ラーテルのワイルドでセクシーな魅力が随所に織り込まれているのが人気の理由だろう。
“人外(じんがい)”を広辞苑で引くと「人間の住む世界の外。出家の境涯。」とあり、これを“にんがい”と読むと「人倫にはずれていること。また、そういう人。ひとでなし。」という意味もあるそうだ。
小説では小栗虫太郎が戦前の1939年から40年にかけて書いた『人外魔境』という秘境を舞台にした短編の連作小説があり、“人外”という言葉自体は決して最近出来たものではない。
だけど今のマンガ・アニメファンが言う“人外”はこれらとはまったく意味が異なっている。現代の“人外”は、スク水(スクール水着)やニーソ(ニーソックス)などと同様“萌え”属性のひとつなのである。
ここで再び手塚マンガに戻ろう。“人外”という切り口で手塚マンガを振り返ってみると、なんと! まるで昨今のブームを先取りしていたかのような人外萌え〜的な(?)作品があるわあるわ!! それっぽいテーマの作品タイトルを並べただけでも、ものすごい数になる。
例えば1959年から60年にかけて『週刊少年サンデー』に連載された『0マン』は、リスを先祖として人類とは別進化を遂げた0マン族の少年・リッキーを主人公としたお話だ。リッキーは見た目はごく普通の人間の少年だけど、0マン族はもふもふの大きなシッポを持っていて、もしもリッキーからこの巨大なしっぽを顔にギューッと押し付けられたら、ぼくは萌え死んでしまうことは確実だ。
同じく『週刊少年サンデー』に1965年から66年にかけて連載された『W3(ワンダースリー)』は、宇宙から地球へ派遣された3人の宇宙人調査官が主人公の物語。3人はそれぞれ地球の動物に姿を変えて潜入調査を開始するが、女隊長のボッコが変身したのはウサギだった。このウサギ姿のボッコ隊長が何ともなまめかしく、これぞまさに現代の“人外ヒロイン”に通じる無垢でセクシーなキャラクターだったのだ。
また1971年から75年にかけて『SFマガジン』に連載された『鳥人大系』は、映画『猿の惑星』のように知能を持った鳥類が進化し、次第に人間社会を侵食していくという大人向けの風刺童話であるが、ここでは鳥類の女性と人間の男が交わったり、その逆が描かれたりという背徳的な描写もあって、現代の人外ファンにも訴えかけるポイントが多々あるに違いない。
それにしてもそもそもなぜ今“人外”がブームなのか。これはぼくのまったくの推論だけど、男がどんどん草食化して逆に女が肉食化してきていることとか、性の多様化とか、結婚観の変化とか、男女に対する旧来の価値観がどんどんと変わってゆく中で、それに異を唱えたりするとたちまちバッシングを受けてしまう。そんなこんなで一部の若者たちの間に「人間の異性はもういいや」的な疲労がたまってきているんじゃないかと思うのだ。
ただし、このブームも見方を変えれば、たまたま誰かが“人外”という言葉を使い、それが広まって、そこにカテゴライズされる作品が増えたからブームだと言われているだけで、じつは“人外”的なマンガやアニメや小説の類は手塚マンガ以外にも昔から数多くあったのだ。
例えば猫耳少女の元祖と言われる大島弓子の『綿の国星』が雑誌『LaLa』に連載されたのは1978年から87年にかけてのことであり、1984年には虫プロの製作で劇場アニメーション化もされている。
このころは“萌え〜”という言葉すらもなかったが、まだ晴海で開催されていたころのコミックマーケット会場をぼくが訪れたときには、猫耳を付けた女の子や大きいお兄さんたちが、まさに「萌え〜」という表情をして闊歩していたのである。
ということで、決して手塚マンガが“人外”ブームの元祖というわけでもないのだが、じゃあ逆に言うと手塚はいったいどんな意味を込めてこんなにもたくさんの“人外”的マンガを世に送りだしていたのかという疑問が湧いてくる。
その答えとも言える言葉が講談社版手塚治虫漫画全集のあとがきにある。以下にその文章を引用しよう。
「ぼくは“変身もの”が大好きです。
なぜ好きかというと、ぼくは、つねに動いているものが好きなのです。物体は、動くと形が変わります。いつまでも、静かだったり、止まっているものを見ると、ぼくは、イライラします。動いて、どんどん形が変わっていくと、ああ、生きているんだな、とぼくは認め、安心するのです。(中略)
こういうわけで“変身”は、ぼくのマンガの大きなひとつの要素です。調べてごらんになるとおわかりですが、どのマンガにも、どこかに、変身──姿を変えたもの──のテーマがかくれています。」(講談社版手塚治虫漫画全集『メタモルフォーゼ』あとがきより)。
そうなのだ。手塚の作品に出てくる“人外”たちは、じつは何らかの理由で人がケモノに、あるいはその逆に変身した結果、人と異形の物との中間的存在となってしまった者たちが非常に多いのである。
手塚がこのあとがきを寄せた『メタモルフォーゼ』シリーズは、まさに手塚の変身願望が全開となった作品群だった。
シリーズ第1話「ザムザ復活」は、凶悪犯罪者たちが死刑宣告を受ける代わりにケモノや虫に改造されてしまうという近未来の世界を描いている。主人公の青年ザムザはこの計画を推進しているマッドサイエンティストの助手である。だがザムザはライオンに改造された女性エレーナに恋をしてしまったのだった。
また第5話「ウォビット」は、ウワサを頼りに
しかし彼の前に現れたのは人狼ではなく、もっと恐ろしい怪物だった──!!
じつは手塚は1970年代から80年代にかけて、この『メタモルフォーゼ』シリーズ以外にも、こうした変身ものの短編=結果的に現在の人外ブームを先取りしたような読み切り作品を数多く発表している。
1971年に『週刊少年ジャンプ』に2回に分けて読み切り掲載された『百物語』はゲーテの『ファウスト』を下敷きとした時代劇だった。切腹を命じられた下級武士・一塁半里の目の前に現れたスダマと名乗る女悪魔。彼女は半里の魂をもらう代わりに3つの願いを叶えてやると言う。
物語はこうして『ファウスト』になぞらえて進むんだけど、この作品の見所は何と言ってもスダマを始めとするエロティックな人外ヒロインたちの化かし化かされの変化合戦にあった。
『さらばアーリィ』(1981年)は、タクラマカン砂漠の奥地で青年がチーターのような耳を持った野人の女性・アーリィに出会うという物語。
同じく1981年発表の『グロテスクへの招待』は好きになった生き物と同化してその姿を変える不気味な力を持った少女のお話であった。
この時期、手塚の“変身”願望が込められた短編作品が数多く見られるのは、手塚自身が新しい時代のマンガ界に向けて脱皮し、変身をはかって再び飛び立とうとしていたからに他ならないだろう。
手塚は作品の作り方に行き詰まったとき、しばしば原点へと立ち返る。そしてその原点からもう一度、新たな道を探って歩き始めるのだ。それがこの時は“変身”だったのである。
自分が自分でしかないという絶対的価値観を捨てたとき、人は果たして幸福になれるのか、それとも不幸になってしまうのか。
手塚が生涯をかけて描き続けた、こうした変身願望を形にした作品群を読むとき、21世紀の現代に生きる若者たちが“人外”に憧れるその思いの正体──もしかしたらそれがほんのちょっぴり垣間見えてくるかも知れません。
ではまた、次回のコラムにもぜひお付き合いください!!