手塚治虫の描く丸っこくて親しみやすいキャラクターたち。誰からも愛され飽きのこないデザインは、企業やイベント、商品のイメージキャラクターとして今も引っ張りだこである。また、こうしたマスコットキャラたちの中には、アトムや火の鳥など、もともとマンガで人気を得ていた既成のキャラではなく、特定のイベントや企業・商品のために手塚がオリジナルでデザインしたキャラも多数いる。今回はそんな、今まであまり注目されてこなかった手塚のマスコットキャラクターたちにまつわるあの日あの時を振り返ろう!!
ここ数年、“ゆるキャラ”が大ブームとなっている。
この“ゆるキャラ”という言葉、最初に提唱したのはマンガ家のみうらじゅん氏であり、彼は扶桑社との連名で商標登録もしているという。
ただその意味は、彼がこの言葉を使い始めた当初からはかなりズレてきてしまっている。当初みうら氏が“ゆるキャラ”と定義していたのは、地方の商店の手描き看板や、お土産品のキャラクターなど、素人同然の人が描いたような脱力系のキャラクターのことだった。
しかし最近は“ゆるキャラ”と言えば“ご当地キャラ”とほぼ同義として使われるようになっており、ウィキペディアにもそのようなことが書いてある。
そのウィキペディアの『ゆるキャラ』の項の「歴史」という欄にこんな一文がある。
「・1980年代の地方博覧会ブームで作られたマスコットキャラクターがゆるキャラの原点といわれる」
1980年代、日本はバブル景気に沸き、全国各地で博覧会が次つぎと開催されていた。そこで量産された地方発のマスコットキャラクターの中に、後年“ゆるキャラ”に分類されるようなゆる〜いデザインのキャラクターたちが多数存在していたのである。
そしてこの時代、手塚治虫もイベントや企業のために数多くのマスコットキャラクターのデザインを手がけていた。
手塚デザインのマスコットたちは決して“ゆる”くはなく、むしろどれも“隙のない愛らしさ”を持ち合わせていたように思う。
そんな手塚マスコットキャラクターの代表が横浜博覧会の時に生まれた「ブルアちゃん」だろう。
横浜博覧会(YES'89)は1989年3月25日から10月1日まで、当時整備されたばかりでまだほとんど更地だった横浜のみなとみらい21地区で開催された。
テーマは「宇宙と子供たち」。91ヘクタールの土地に、21世紀を担う子供たちの“明るい未来”を予想した企業や行政のさまざまなパビリオンが建ち並んでいた。
このイベントのために手塚がデザインしたブルアちゃんは、ブルー・アース(青い地球)という言葉を短縮したもので、リボンの騎士のサファイヤのようなカールした髪に赤い翼を持ち、両手で地球を抱きかかえている。
しかし残念なことに手塚はこのイベントのオープンを待たず、開催1ヵ月半前の2月9日にこの世を去った。
ではそもそも手塚治虫のキャラクターがこうして企業の商品やイベントのイメージキャラクターとして使われた最初は何だったのか。
あいにく手塚プロにもそれらを体系だって集めた資料はないそうなのでぼくが自分で調べてみた。
その結果、ぼくの知識と調査の範囲で言うと、その最初は1965年、三洋電機のCMでマスコットキャラクターを務めた『ジャングル大帝』のレオとパンジャだったのではないかと思われる。
テレビアニメ『ジャングル大帝』は国産初のカラー連続テレビアニメシリーズとして虫プロが製作し、1965年10月から66年9月にかけて全52話が放送された。
その番組スポンサーだった三洋電機は毎週CMでカラーテレビを大々的にプッシュし、そのイメージキャラクターとしてレオとパンジャを起用していたのだ。
「ジャングル大帝をカラーで見よう」が当時の三洋電機の宣伝コピーだった。
そして新しもの好きだったぼくの父が、ぼくと一緒に『ジャングル大帝』を見ていて、三洋のカラーテレビを月賦で衝動買いしたのもまさにこの時だったのだ。
内閣府の消費動向調査によれば、この年のテレビ普及率は94.4%。だけどカラーテレビはそのうちわずか0.3%だった。
しかしむしろそれだけに当時このCMが相当なインパクトだったことが想像できる。
そして手塚が企業のためにオリジナルのマスコットキャラクターを最初に作ったのもこのころだった。そしてそれも三洋電機の系列会社のマスコットだった(ただし黒沢調べによる)。
アニメ『ジャングル大帝』以来のつきあいがあったからだろう、手塚は1968〜69年ごろ、三洋電機系列のクレジットリース会社のためにリスのオリジナルキャラクターをデザインしているのだ。
手塚キャラならではの絶妙に擬人化された愛らしさで微笑む大きなシッポのリス。これが恐らく手塚が企業のために描き下ろした初のオリジナルキャラだったのではないだろうか。
以後、三洋電機のお店の店頭や電気製品のパンフレットにはこのリスの絵がひんぱんに登場するようになった。
だけど残念なことにこのリスには名前や愛称などは付いてなくて、ただ「リス」と呼ばれていたようである。リースだからリス、ああー、なるほどねっ!!(……)。
『ジャングル大帝』に続き1960年代に手塚キャラがマスコットとして起用されたのがプロ野球のサンケイアトムズである。
その前身である「国鉄スワローズ」は1965年にサンケイ新聞(現・産経新聞)に買い取られ「サンケイスワローズ」となった。
そしてその翌年の66年1月、当時、虫プロのテレビアニメが大人気を博していた鉄腕アトムがマスコットキャラクターとして起用されたのだ。同時にチーム名も「サンケイアトムズ」と改称された。
プロ野球チームのユニフォームの変遷については、プロ野球ユニフォーム研究家・綱島理友氏の著書である大作『日本プロ野球ユニフォーム大図鑑』(全3巻)に詳しい。
以下、同書を参考に紹介すると、1966年に「サンケイアトムズ」として新調されたユニフォームの袖には、右腕を前に突き出して空を飛ぶアトムの絵が縫い付けられていた。またこのユニフォームのデザインは亀倉雄策と石津謙介という、当時超一流のデザイナーふたりによってデザインされたものだったという。
しかし1968年12月、新たにヤクルトが経営に加わったことでチーム名から「サンケイ」の名が取れて「アトムズ」と改称される。
またこれによりユニフォームの肩にアトムの絵が入るのはビジター用ユニフォームだけとなり、そのアトムの絵の周りにはヤクルトのイメージカラーであるコバルトグリーンと赤の楕円形の囲みが追加された。
ちなみにこの当時、ヤクルトは店頭販売を行っておらず宅配専門で営業していた。そのためここに紹介したプラコップのように、アトムはヤクルトの拡販用ノベルティキャラとしても大活躍した。
当時、我が家へ営業にやってきたヤクルトおばさん(現・ヤクルトレディ)は、ぼくの目の前でこのコップをカバンから出し入れしながら、ぼくの母に熱心に契約を薦めた。
母は当初「牛乳を取っているからいらないわ」とニベもなく断っていたのだが、その隣に座っているぼくの目は、おばさんのカバンから半分だけ顔をのぞかせているアトムコップに釘付けだった。
「じゃあ忙しいので」と母が話を打ち切ろうとするたびにおばさんはバッグからコップを取り出し、ぼくの目の前でそれを泳がせながら、母に向かって営業トークを続けた。
やがて根負けした母が「哲哉どうする?」とぼくに聞いてきた。ぼくはもちろん「ヤクルト飲みたいっ!」と叫び、ついにアトムコップはぼくのものとなったのである。
しかしこのアトムズの時代もまた短かった。引き続き綱島氏の著書からその後の流れを紹介すると、1970年にはサンケイ新聞がアトムズから完全に手を引きチーム名も「ヤクルトアトムズ」と改名した。
このチーム名は1973年まで続いたが、残念ながら1971年にはアトムの絵柄はユニフォームの袖から完全になくなってしまったのだった。
一部の資料には1973年11月の虫プロ倒産と前後してアトムのキャラクターが使われなくなったと書かれているものもあるが、綱島氏の研究によれば、実際にはそれよりかなり早い段階でアトムの絵は使われなくなっていたようである。
さて話は変わって1970年代の初頭、手塚はもうひとつ、マスコットキャラクターに関係したユニークな仕事をしている。しかもそこにはいまだ解明されていない“謎”があった!?
それは1971年10月、虫プロ商事から刊行された雑誌『月刊てづかマガジンれお』に創刊号から連載された『ワンサくん』という作品の主人公・捨て犬のワンサくんである。
ワンサくんは旧・三和銀行(現在は吸収合併され三菱東京UFJ銀行)のマスコットキャラクターとして、この時期から10年後の1982〜83年ごろまで10年以上、同行のポスターや、通帳の絵柄、貯金箱などのノベルティグッズとして活躍し続けたのだ。
しかしここで“謎”と書いたのは、ほかでもないこの“ワンサくん”というキャラクターを誰が創造したのかということだ。
手塚ファンの間ではこれまで「ワンサくんは手塚が三和銀行のために創ったキャラクターであり、それを元に『れお』にオリジナルのマンガを連載したのだ」という認識がほぼ定説として信じられていたし、ぼくもそう信じていた。
だけど今回記事にするにあたりあらためて調べてみたところ、それを裏付ける情報ソースがまったく見つからないのだ。
手塚プロにも当時を知る人はおらず、手塚先生自身がワンサくんの誕生について語った文章や言葉も何も残されていないという。
ネットの古書店で三和銀行の社史を見つけ入手してみたが、そこにも何も記載はなかった。
そこで今回も手塚治虫の生き字引と言われる手塚プロ資料室長・森晴路さんに電話でお聞きしてみたのだが、森さんでも確かなことは分からないという。
しかし森さんは「曖昧な記憶だけど」と前置きしてこう語ってくださった。
「ぼくの記憶ではワンサくんは手塚先生が考えたのではなく、その前から三和銀行のキャラクターとしてあったんじゃないかなあ……」
そう森さんがおっしゃることにも一理あり、実際に手塚は『ワンサくん』とほぼ同時期の1972年、『サンダーマスク』という既成のキャラクターを使ったコミカライズ作品を手がけている。なので三和銀行のマスコットキャラクターを使ったコミカライズというのも、あり得ないことではないのだ。
ちなみにウィキペディアの『ワンサくん』の項には、さらに別の説が載っている。
「(ワンサくんの名前は)「三和」の逆読みで名づけられたと思われているが、「ワンサくん」に目をつけた三和銀行がマスコットとしての採用を申し入れたものである」
こちらは三和銀行の方が、手塚マンガを見て後から“それに乗った”というのである。
だけどこの説は完全に否定していいだろう。というのも『てづかマガジンれお』創刊第2号(1971年12月号)の裏表紙には、三和銀行の広告が掲載されていて、そこにはすでにワンサくんの絵柄の入った預金通帳の写真がはっきりと載っているからだ。
『れお』創刊号に載った手塚のマンガを見て三和銀行がすぐに行動を起こしたとしても、わずか1ヵ月弱で通帳まで作って広告を掲載することは不可能だろう。
ということでここからは仮説になるが、ぼくはやはりワンサくんは手塚が三和銀行のマスコットとしてオリジナルで考えたものだったという説を推したい。
というのは先にも書いたように雑誌『れお』に三和銀行の広告が掲載されるのは創刊2号目からであり、創刊号には三和銀行の広告は掲載されていないからである。
これは恐らく、例によって手塚のキャラデザインがギリギリとなってしまったために三和銀行の方で広告の準備が間に合わなかったからではないだろうか。
逆にワンサくんが三和銀行の既存のキャラクターとして先に存在していたならば『れお』創刊号に三和銀行の広告が載らないということはまずあり得ないだろう。
そして決定的なのは他でもない“ワンサくん”という名前そのものについてだ。言葉遊びを織り込んだこの巧みな語感のネーミングセンス、これは紛れもなく手塚オリジナルと言えるだろう。後述する鈴鹿サーキットの“コチラちゃん”にも通じるものがありますね。
ワンサくんについては引き続き調査を続けたいと思います。何か情報がありましたらぜひ手塚プロにご一報お願いいたします!
さて、ここでもう一度プロ野球の話題に戻ろう。言わずと知れた西武ライオンズのレオ、デビューの話である。
1978年、西武グループが福岡野球からライオンズを買い取ってチーム名を西武ライオンズと改称した。この時、新たにチームのマスコットとして手塚が描き下ろしたのがレオだったのである。以来、西武ライオンズの球団旗や選手たちの帽子・ヘルメットには、レオの雄姿が今も光り輝いている。
ここに、手塚自身がレオが西武ライオンズのマスコットとして起用された当時のことを語ったエッセイがあるので紹介しよう。
「突然、西武ライオンズ・
堤氏のご希望としては、テレビアニメの子ども時代のレオではなく、大人になったレオに服を着せて使いたいということであった。発表してみると、ジャングル大帝を知っている連中は「ありゃレオではなくて、父親のパンジャじゃないか。パンジャ球団とでもするのか」なんてひやかす。でも、球団発足会のパーティでディスプレイに使われたときの満足感はなんともいえなかった。“レオ、ツイにカムバックしたな”と肩をたたいてやりたかった」(講談社版手塚全集『手塚治虫エッセイ集』第7巻「“私のレオ”がマスコットで復活した喜び」より。※初出は雑誌『Number』1988年3月20日号に掲載)
「あれはレオじゃなくてパンジャじゃないのか?」というのは当時の手塚ファンの多くの感想であり、まさにぼくもそう思っていた。
しかもさらにややこしいのは、それから3年後の1981年には、同じく西武ライオンズのマスコットキャラクターとしてレオの妹“ライナ”というオリジナルキャラがデビューしていることだ。
あんまり野暮なことは言いたくないけど、原作マンガ『ジャングル大帝』では、レオの母親は人間に捕えられ、船上でレオを産んだ後、船が沈没し、そのまま命を落したことになっている。父親パンジャも人間に毛皮にされてしまったし、となるとレオの妹っていったい……。
と、まあ野暮な詮索は置いといて、手塚はこのライナのキャラクター監修にはかなり手を焼いたようで、前出のエッセイの中でこんな愚痴を語っている。
「ライナのキャラが生まれたのは一年後で、これは原本には登場しないオリジナルキャラである。レオ人形はすんなりとよいものがつくられたが、ライナ人形の見本には、どうも不満だった。目のあたりがなんかアトムに似てしまうのだ。女性なのにきつすぎるのだ。鼻の頭を赤くしてもらったり目を小さくしたり何回かつくりなおしてもらった。ぼくの部屋にはそのできそこないのいろんなライナを並べて飾ってある」
レオについては最新の話題もある。今年2014年は西武鉄道100年の年に当たり、それを記念して、西武ライオンズが、袖の部分と胸元に大胆にレオの絵をあしらった手塚プロデザインのユニフォームを今季限定で着用しているということだ。
西武ライオンズがレオの絵をユニフォームに取り入れたのはこれが初めてだそうで、このことが発表された昨年暮れ、スポーツ新聞は「6年ぶりのリーグ優勝と日本一奪回を目指すチームにとっては、うってつけの戦闘服となる」と報じていた(スポニチWebサイト Sponich Annex 2013年12月19日の記事より)。
また同Webが翌日に報じた記事では手塚プロの松谷孝征社長が語った「デザイン部門も一生懸命作っていた。よく仕上がっていると思う」というコメントも引用されていた。
そしてレオが西武ライオンズのマスコットになった翌年の1979年、手塚は、こちらも現在現役のマスコットとして活躍している“ある生き物”を誕生させている。
それが、三重県鈴鹿市にあるF1レースも開催される国際レーシングコース「鈴鹿サーキット」と、同コースを運営する株式会社モビリティランドのマスコットキャラクター・コチラちゃんである。
コチラちゃんという名前が決まった経緯については、2012年、鈴鹿サーキットオープン50周年記念の取材の際に現手塚プロ社長・松谷孝征氏が語っている映像があるので、その内容を要約して紹介しよう(カッコ内は黒沢・注)
「(鈴鹿サーキット建設当時)本田宗一郎のパートナーだった藤澤さん(当時の副社長・藤沢武夫氏)に“ゴジラ”というあだ名がついていて、その話がチラッと手塚先生の耳に入ったそうなんです。
しかし「ゴジラ」そのままではしょうがないし、かわいらしさもないですから、「コチラちゃん」だったらとてもいいんじゃないかな、というので「コチラ」と命名されたんです」
また当初ひとりぼっちだったコチラちゃんにも現在は仲間がいる。これは松谷社長の提案によるものだったという。以下インタビューの続きをどうぞ。
「ぼくが鈴鹿サーキットの遊園地へ行ったときにですね、コチラちゃんの露出があまりにもなさすぎるんじゃないかと。それでコチラちゃん以外にも家族をつくれば“お話”ができるのではないかと。
例えばアトムが60年以上もみんなに支えられているのは、背景に物語があるからなんですね。だからコチラにもファミリーを作って“お話”ができあがり、家族の暖かみとかストーリーが生まれれば、コチラちゃんの人気がどんどん上がるんじゃないかと。そう思って家族を作ったんです」
この松谷氏の提案を受け、コチラファミリーの一般公募が行われて手塚プロダクション監修で現在のコチラファミリーが誕生したのである。
皆さんも鈴鹿サーキットへ行く機会があったら、ぜひコチラちゃんグッズをお土産にいかがでしょう!!
さて、コチラちゃんファミリーの誕生で1970年代を締めくくった日本は、間もなく狂乱のバブル時代へと突入することになる。
その直接の引き金となったのは1985年の「プラザ合意」だったとされている。
1985年9月、多額の貿易赤字に悩んでいたアメリカは、ニューヨークのプラザホテルで先進五ヵ国(アメリカ、フランス、イギリス、西ドイツ、日本)の蔵相会議を開催。そこで各国が為替安定のため協調介入を行うことで合意した。
それを受け、世界経済のバランスは一気にドル安・円高に傾斜した。それまでアメリカに投資されていたお金は日本国内にだぶつき、それが一気に不動産に投資されたことで、都市部を中心に地価が高騰、バブル経済の嵐が巻き起こったのである。
バブル経済によって悪質な地上げが行われ、古くからの街並みが消えたりと、残念なことも多かったが、一方で、あり余るお金はそれまで出来なかったことを可能にした。
例えば国際博覧会のようなビッグイベントのあいつぐ開催などがそれである。
そんな時代の中で、手塚は数多くのイベントでオリジナルのマスコットキャラクターをデザインした。それらはここに紹介しただけでもかなりの数になるが、恐らく当時手塚の元には、この数倍、あるいは数十倍の依頼が殺到していたに違いない。
さて、ここまで手塚のマスコットキャラを振り返ってきてやはりつい思うのは、手塚治虫が現代のゆるキャラブームを見たらどうなるかということだ。
手塚はブームの本命となるようなゆるキャラを考えたのだろうか。それともブームを皮肉ったパロディキャラで対抗したのか。ぼくは後者だと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。
それではまた次回のコラムでお会いいたしましょう!!
資料協力/綱島理友、ベースボールマガジン社
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番