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虫ん坊 2011年1月号:手塚マンガあの日あの時 第14回 『マグマ大使』と特撮怪獣ブームの時代

虫ん坊 2011年1月号:手塚マンガあの日あの時 第14回 『マグマ大使』と特撮怪獣ブームの時代

1963年、『鉄腕アトム』でテレビアニメの時代を切り開いた手塚治虫──。その後、テレビで放送されるアニメの数は急速に増えていった。しかしそこへ新たなブームが割り込んできた。怪獣ブームである。『ウルトラQ』を皮切りに、60年代後半から70年代にかけて、特撮怪獣テレビドラマはアニメに勝るとも劣らぬ人気を獲得していった。当時手塚は、アニメに心血を注いでおり自身のマンガを特撮ドラマ化することには否定的だった。そんな手塚が『マグマ大使』の特撮テレビドラマ化を許した理由とは!? 今回は怪獣ブーム時代と手塚作品の関わりについて振り返る。



◎『ウルトラQ』に食われてしまった『W3』

虫ん坊 2011年1月号:手塚マンガあの日あの時 第14回 『マグマ大使』と特撮怪獣ブームの時代

『W3』のフォノシート。小学館の学習雑誌の全員プレゼント品で、応募券と切手を送るともらえた。これは裏面で、表面は『ジャングル大帝』

 虫プロが『鉄腕アトム』に続いて製作した第2弾目のテレビアニメシリーズ『W3(ワンダースリー)』は、1965年6月6日、毎週日曜日午後7時からフジテレビ系で、ようやく放送が始まった。
“ようやく”と書いたのは、前回の『あの日あの時 第13回 もうひとつのW3』で詳しく書いたように、この作品が世に出るまでにはさまざまな紆余曲折うよきょくせつがあったからだ。だけどいざフタを開けてみると『W3』の評判は上々で、視聴率も常時20%台を記録する人気番組となった。


 ところが、ホッとしたのもつかの間、半年後の66年1月、裏番組としてTBS系で『ウルトラQ』という特撮怪獣ドラマの放送が始まることが決まった。
 当時、映画の世界ではすでに怪獣ブームが起きており、ゴジラやガメラなどの怪獣が子どもたちの絶大な人気を得ていた。『ウルトラQ』は、東宝でそのゴジラシリーズの特撮を手がけた特撮の神様・円谷英二つぶらやえいじが監修する本格的な作品であり、手塚は、最初から、これは大変な脅威(きょうい)になると直感していた。

虫ん坊 2011年1月号:手塚マンガあの日あの時 第14回 『マグマ大使』と特撮怪獣ブームの時代

『週刊少年マガジン』1964年12月26日号では放送前から『ウルトラQ』を大特集していた。巻頭カラーグラビアと2色刷り大図解で、これから登場する怪獣を惜しげもなく紹介している

 そして1月2日、『ウルトラQ』第1回の放送を、手塚は家族と共に自宅のテレビで見たという。
「正月、ついにその日がき、ぼくは「ウルトラQ」の第1話を観た。
 ぼくも驚いたが、ぼくの息子の興奮ぶりはすごいものであった。目はランランと輝き、喰いこむようにゴメスとリトラの猛威もういを見つめていた。クライマックスが終わってから、ぼくはわが「W3」へチャンネルを変えた。その動きやアクションのみすぼらしさ。「ああ、これで負けた!」と感じた」(講談社版全集第398巻『手塚治虫エッセイ集8』「ゴジラ・グラフィティ」より)
 手塚が恐れた通り『ウルトラQ』の人気はすさまじく、『W3』の視聴率は一気にひとケタ台にまで落ちてしまった。そして『W3』は、66年2月7日放送の第36話からは、放送時間を月曜夜7時半へと変更せざるを得なくなったのである。


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『ウルトラQ』の放映当時、発売されていたフォノシート2種。どちらも主題歌とミニドラマが収録されている。左のナメゴン対ゴメスはテレビ放送にはないオリジナルストーリーだ


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別巻16 手塚治虫エッセイ集(8) (手塚治虫漫画全集 (398別巻16))

講談社版全集第398巻『手塚治虫エッセイ集8』。キネマ旬報社から1987年に刊行された『観たり撮ったり映したり』を再編集したもので、主に映画やアニメに関するエッセイが収録されている

 当時小学校2年生だったぼくも『W3』を第1話から見続けていたが、『ウルトラQ』が始まってからは、大きなジレンマの中で『ウルトラQ』にチャンネルを変えていた。だから『W3』の放送時間変更には単純に大喜びしたのを覚えている。
 しかし現在、こうして資料を掘り返しながらあらためて当時を振り返ると、そのころの手塚の無念さが痛いように伝わってきて、何とも複雑な気持ちになりますね。


◎国産初のカラー特撮テレビドラマ

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『ウルトラマン』のフォノシート。こちらも収録されているミニドラマはオリジナル。ビデオのない時代には、音声を聴くだけでも充分興奮できた

 さて、『ウルトラQ』のヒットによって、この年の秋ごろからは、ほかの製作会社やテレビ局も続々と特撮怪獣番組に参入してくることになる。
 こうした流れは『鉄腕アトム』とそれに続いたアニメブームの時とまったく同じ展開だ。ただし大きく違うのは、これによってアニメブームが終わることはなく、以後、アニメと特撮ドラマはお互いに人気を競い合うライバル同士の関係になっていったということだ。


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駄菓子屋で1枚5円で売られていた『マグマ大使』の引きクジカード。マグマとゴア(中央)の造形はもとより、左上の怪獣アロンの質感表現など、円谷プロや東映の特撮とは違う着ぐるみの造形が素晴らしい

 そして、『ウルトラQ』から半年後の7月4日、その後の多くの怪獣番組に先がけて、始まったのが、手塚治虫原作のカラー特撮テレビドラマ『マグマ大使』だった。
『ウルトラQ』は白黒で、それに続く円谷プロつぶらやぷろ製作の第2弾『ウルトラマン』(カラー作品)の放送開始は7月17日だから、『マグマ大使』は『ウルトラマン』よりわずか2週間早かったことで国産初のカラー特撮テレビ番組の称号を勝ち取ったのである。
 ここで、手塚の性格を良く知るファンの方ならば「ハハァ〜ン、これは負けず嫌いな手塚先生が、『ウルトラQ』で円谷英二に負けたことを悔しがり、その意趣返しいしゅがえしとして企画したんだな!」と思ってしまいそうだが、真実はそうではなかった。このテレビ版『マグマ大使』を製作したのは虫プロではなく、ピープロダクションという会社であり、そもそも手塚は当時、自分のマンガを実写化することには絶対反対の立場だったのだ。
 だとすると、その背景にはいったいナニがあったのか!? もしかしてまた前回のコラムのようなゴタゴタが……!? いえいえ、今回の物語は、それとはまるっきり逆の、と〜っても心温まるお話なのです。


◎『鉄腕アトム』に実写版ドラマがあった

 手塚が『ウルトラQ』に完敗したことを認め、その作品の完成度を高く評価しながらも、自分のマンガを実写化することに否定的だった、その原因は7年前にさかのぼる。

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実写版『鉄腕アトム』のメンコ。右端がアトムだが、アトムの造形は放送途中で一度変更されていて、これは変更後の後期タイプ。アトムを演じたのは瀬川正人せがわまさと

 実は『鉄腕アトム』には、虫プロが製作するアニメ版より前に、実写でテレビドラマ化された作品があった。放送は1959年3月から翌60年5月まで。フジテレビ系で1年以上にわたり全65話が放送された。当時はかなりの人気があった番組で、昭和20年代からの『鉄腕アトム』ファンの中には、虫プロのアニメ版よりも実写版の方が思い入れが強いという人も少なくない。
 だけど手塚は、主人公のアトムの姿があまりにも安っぽかったことや、安易な特撮映像が不満でならず、以来、自身のマンガを実写化することを極端に嫌っていたのである。
 ではその手塚がなぜピープロダクションという会社に映像化の許諾を出したのか? それを知るためにはまず、ピープロの歴史から紹介する必要がある。


◎手塚治虫とうしおそうじの出会い

 1960年に映像製作会社ピープロを製作した鷺巣富雄さぎすとみおは、実は、それ以前は「うしおそうじ」と言う筆名で活躍する人気マンガ家だった。そして手塚とは、手塚が『漫画少年』で仕事をしていた1950年代初めから交流があったのだ。
 手塚は当時からこの『漫画少年』を介して多くのマンガ家と知り合い交流を深めていた。そうした中でも、短期間のうちにうしおと親交を深めていった理由は、ふたりがともに映像に対して強い思い入れを抱いていたからだ。
 うしおはマンガ家になる前は、東宝で特撮やアニメを製作する仕事に携わっており、いずれまたそちらの分野へ戻りたいと考えていた。そして手塚もアニメ製作の夢を暖めていた時期だったから、ふたりのウマが合うのも当然だったのである。
 そして1960年、うしおは映像業界からの誘いが増えてきたこともあり、機が熟したと見て、すっぱりとマンガ家を辞めてピープロを設立した。こうしたうしおの決断力と行動力は、後の手塚の虫プロ設立にも大きな勇気を与えたに違いない。
 テレビアニメの時代が訪れると、ピープロは『0戦はやと』(1964年、フジテレビ)を製作してそこへ参入した。またそのころ虫プロで『鉄腕アトム』の製作スケジュールが押してピンチとなった手塚が、うしおの元を直接訪ねて協力を仰いだこともあった。それを聞いたうしおはその場でそれを引き受け、ピープロは最終的に『鉄腕アトム』3クール分39話の下請け製作を行っている。


◎『マグマ大使』のテレビ化は温泉宿で決まった!?

 そのうしおが、手塚に『マグマ大使』を映像化したいという話を持ちかけたのは『ウルトラQ』の放送が始まる直前の1965年暮れのことだった。しかもそれは何と忘年会の席だった???
  以下、この忘年会のくだりの記述は、うしおそうじの著書『手塚治虫とボク』を唯一のテキストとして黒沢が再構成したものだ。何しろこのときの顛末について記された資料はこの本だけなのだ。貴重な記録を書き残してくれたうしお氏にあらためて感謝したい。

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手塚治虫とボク

うしおそうじが、手塚治虫との公私にわたる交流をつづった本。うしおは、この本を書き上げる直前の2004年に急逝(きゅうせい)してしまったが、その後、関係者によってまとめられ2007年に刊行された。本文で紹介した以外にも、ここにしか書かれていない手塚治虫の言動が多く記録されている。機会があればぜひ読んでみてください。草思社刊


 日時は1965年12月26日の夜、場所は箱根の某旅館。この日、この旅館で漫画集団の忘年会が開かれており、そこに手塚治虫も出席していた。
 漫画集団のメンバーではないうしおは招待されていなかったが、年内に交渉するチャンスはここしかないと考えて箱根まで出向き、手塚を宴会場から連れ出して話を切り出した。
 当初、アニメ化の話だと思った手塚は二つ返事でOKを出した。だがうしおが、あわてて作りたいのは実写特撮ドラマだと訂正すると、手塚の表情がとたんに険しくなり、こう言ったという。
「うしおさん、実写は困ります。実写で作るのなら許諾しません。この話はやめましょう」
 これはもちろん、前述したように手塚の頭の中にいまだ実写版『鉄腕アトム』への無念な思いが強く残っていたからだ。
 だがうしおは手塚に、自分自身の特撮にかける熱い思いと自信を力強く語った。元々うしおは東宝時代から特撮の仕事を長く続けており、独立後も円谷英二と共同で仕事をしようとしたことがあった。自分の本領を発揮できる舞台は本来セルアニメよりも実写特撮にあると考えていたのだ。
 せめて30分のパイロット版を作らせて欲しいと頼むうしおに、最後に手塚はこう言った。
「わかった、うしおさん、いいものを作ってください」
 そしてうしおは、その場で手塚の名刺にこう書いてもらった。
「『マグマ大使』のパイロット製作を許諾します。うしおそうじ様」
 これは東京でうしおの帰りを待つ広告代理店のスタッフに自分の話を信用してもらうための手形としてどうしても必要だったのだ。


◎特撮テレビ『マグマ大使』大ヒット!

 パイロット版以後は話もトントン拍子で進み1966年7月、実写特撮ドラマ『マグマ大使』の放送が始まった。
 主人公であるマグマとその家族の造形は非常にリアルなものであり、なおかつ手塚が創造した「ロケット人間」という独特の世界観を完璧に表現していた。

虫ん坊 2011年1月号:手塚マンガあの日あの時 第14回 『マグマ大使』と特撮怪獣ブームの時代

当時の雑誌『少年画報』1967年9月号の表紙。マグマ大使の後ろに写っている恐竜と少年は、この年の10月から放送が始まった『怪獣王子』

虫ん坊 2011年1月号:手塚マンガあの日あの時 第14回 『マグマ大使』と特撮怪獣ブームの時代

雑誌『少年画報』1966年1月号別冊付録。このころはまだ手塚が全面的に執筆していた時期で、人間モドキがはびこる東京で、レジスタンスのように隠密行動おんみつこうどうをするマモル少年の活躍がかっこいい!


虫ん坊 2011年1月号:手塚マンガあの日あの時 第14回 『マグマ大使』と特撮怪獣ブームの時代

駄菓子屋で売られていたマグマ大使のミニお面。顔に付けられる大きさじゃないので、腕にはめてアクセサリーにしたのか?

 このあたりは、マンガ家であり映像作家でもあるうしおの本領がまさに発揮された部分だろう。それぞれの表現の魅力と弱点はどこにあるのか、それを熟知した者ならではの勘所かんどころがばっちりと押さえられていたのである。
 そしてもうひとつ、『マグマ大使』が特撮ドラマとして成功した大きな要因は、原作の基本設定やテイストを生かしながらも、これを怪獣ドラマとして大胆にアレンジしたことだ。それによってこの作品は、毎週視聴率が30%を超え、怪獣ファンからもマンガファンからも愛される大ヒット作品となったのである。
 手塚がうしおの力を信頼して自分の作品を託した。そしてうしおはその期待に見事に答えた。そこにはすぐれた才能を持つクリエイター同士の理想的な関係が垣間見えてきますね。
 そしてこの作品によって特撮に対する不信感をぬぐい去った手塚は、2年後、自分自身でもアニメと実写を合成した意欲的なテレビドラマ『バンパイヤ』を製作することになるのである。


◎幻のサイクロップス編

 さて、ところで雑誌『少年画報』で連載していた手塚の原作マンガの方はその後どうなったかというと、実はオーバーワークのために、後半はほとんど代筆となってしまったそうで、最後の部分は今まで一度も単行本化されていないのだ。


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『マグマ大使』は、講談社版全集では全3巻で収録。本文でも触れたように後半はほとんど代筆となってしまったがめ、「ブラック・ガロン編」までが収録されている

 でも、ぼくはそのころの『マグマ大使』もけっこう好きなんだけどなぁ。講談社版全集では最終巻となっているブラック・ガロン編の後には、一つ目種族が登場するサイクロップス編という話が続いていた。ここにはゴアも奥さん同伴で再登場しているのだが、この奥さんというのが強烈なキャラクターで、「醜いみにくい」と言われると大喜びをする。しかしこれが人間の姿に変身するとものすごい美女になり、村上記者が「美しい」と褒めるほめると今度は激しく怒り出すという(笑)。ちょっと比喩ひゆ唐突とうとつだけど、スペインのシュールレアリスム映画の監督、ルイス・ブニュエル的な皮肉とでも申せましょうか。とにかくイっちゃっているお話であることは確かです。
 手塚が自分で失敗作だと公言している作品の中にも、こうしてファンにとっての忘れがたい傑作というのは多々あって、この『マグマ大使』最終章も、ぼくにとってはそんなひとつなのだ。あー、どこかで復刻しないかなぁー、小学館クリエイティブとか、国書刊行会とか。チラッ。
 ではまた次回のコラムでお付き合いください!




黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番


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