手塚治虫が独自の解釈で、仏教の
今月の虫ん坊では、1976年から83年まで、7年間「ブッダ」の連載を担当した編集者、
大浦さん(以下、大浦):私が入社したのは、1976年の4月でした。その頃には、すでに『ブッダ』も連載が4年ほど続いていて、コミックスも5巻ほどが出版されていました。入社と同時に『希望の友』に配属されましたが、私自身は漫画をあまり知らなくて。子供のころからアニメの「鉄腕アトム」や「鉄人28号」「8マン」「ジャングル大帝」などは見ていましたが、漫画雑誌を買って読むほどの良い読者ではなかったのです。床屋や喫茶店の待ち時間に、そこにある漫画雑誌を読むことはありましたが、それほど漫画好きというわけではなかったのです。
当時、『希望の友』では手塚先生の『ブッダ』のほかにも、
先輩の
私自身は、新卒すぐでまだ編集者という立場もよく分っていなくて。手塚先生ではなく、他の先生だったのですが、気分転換の将棋にお付き合いした際に、あまりに真剣になってしまって、
また、事前にある程度噂話を聞いていましたが、そうはいっても締め切りはきちんと守られるものだ、という頭がありましたので、手塚先生のところでは本当に締め切りが過ぎてから仕事がはじまるのが当たり前みたいと知ったときには、それまで暮らしてきた世界とは全く異質の世界に入ったな、と感じました。原稿取りに手塚プロに泊り込むことが多くなると、編集部で電話をとっても「はい、手塚プロです」と応えてしまい、どこの社員かわからない状態でした。他社の先輩編集者の武勇伝をいろいろ伺ったり、僕たちの前は凄かったようです。数カ月してからは、手塚プロに詰めると条件反射で胃が痛くなるんです。精神的なものでしょうが。
大浦:こちらがお願いした締切日は当に過ぎて、いよいよ印刷所のデッドラインが明日の朝という日の深夜12時ごろに、やっと前の週刊誌の原稿が終わって、『ブッダ』の入稿時間まであと数時間しかないという極限状況です。手塚先生は疲れ切った顔色にも関わらず、きっぱりと「大浦さん、これから頑張ります。でも昨日も寝てないので、少し休ませてください」と言い残して、仕事部屋に上がっていきます。担当者としては長年の経験と物理的時間から「今月はダメかもしれない」とほとんど諦めかけて、ソファで仮眠していると、突然、朝の6時ごろですかねえ、先生が原稿を高々と掲げながら4階の仕事場から降りてきて、「大浦さん16枚できました!」っておっしゃるんです。
わずか6時間で、普段は4時間睡眠をかりに2時間の仮眠としても実質4時間ほどのあいだに、16ページのストーリーと主線を描き上げる。そんな奇跡を見せられると、「この人は本当に天才なんだな」と思いますよね。
それからは、戦場です。アシスタントへは目まぐるしい背景指示がとんで、編集者は写植を手配して
一度でもこんな経験をしてしまうと、何度か裏切られても、いざ先生から原稿をもらえると「ああ、原稿を取れて良かった」と思ってしまうんです。先生も懸命に取り組んでいただいているのは分かっていましたし、なにより憎めない人柄なんですよね。また、たとえ遅れても、こちらの期待以上の作品が仕上がっているのは間違いありませんでした。
大浦:本当に遅くなってしまって、いよいよ今月は新しい原稿はもらえない、というときも、手塚プロダクションの資料室と相談して、先生がしばらく前に描かれた短編原稿やブッダ外伝を再掲載したこともあります。ちょっとした仏教的な挿話や、ブッダの説法に出てくるエピソードなどを漫画にしたものなどですが、それも見事にコミックス収録時に本編に組み入れて違和感なくストーリーが展開しています。
大浦:はい。「牡牛のセブーの物語」などは、現在のコミックス版を読んでいただければ分かりますが、見事に本編の説法シーンに組み込まれていますよ。
大浦:手塚先生は「雑誌が代われば、作品も変わる」と考えられていたようで、『少年ワールド』にリニューアルした際には「いっそ全く別の作品に」という突拍子のないような相談もされました。『希望の友』の『ブッダ』として、先生も丁寧に描かれていらっしゃいましたし、作品に愛情もお持ちだったのだとおもいます。雑誌の方向性に合わせて、『ブッダ』という作品にも変化が見られます。注意深く読んでみると、単行本でまとめられた作品でもその変わり目が分かるかもしれません。
その後、『少年ワールド』が休刊になり、手塚先生の『ブッダ』もそれに伴って連載中止になってしまいました。それで私たち編集部も一時、解散になりまして。私はコミックから離れて書籍の仕事をしていたのですが、半年の空白期間をおいて、また弊社でコミック雑誌を創刊することになりました。それが『コミックトム』です。早速、創刊号の5月号で手塚先生に『ブッダ』についてインタビューをし、記事を載せました。その後創刊3号にあたる7月号から『ブッダ』の連載が再開されます。ちょうどアナンダの登場の回で、主人公ブッダは登場せず、悪魔マーラの呪いでどんなに傷つけられても生き返る少年アナンダが主人公で登場します。ちょっとファンタジックな展開ですよね。
大浦:はい。インタビューは手塚先生の移動の車に同乗して、お話を聞きました。改めて当時の音源を聞いてみると、私もしどろもどろで。なんだかお恥ずかしいばかりの質問になってしまっているのですが、これからのストーリーのことや、キャラクターのことなど、いろいろなお話を語っていただきました。車の中で取ったので、近くを通る救急車のサイレンの音などが入っていたりして(笑)。
その後、手塚プロダクションで同行のカメラマンに写真を撮ってもらったのですが、わずか5分、私と雑談をしながらの写真なのに、とてもいろいろな表情をされるんです。普通の人には、こんな短時間であれほどの表情なんて変わらないでしょ? 手塚先生は百面相というか、話しているときには気づかなかったのですが、とても魅力的な表情をいくつも見せていたのだと、写真を見てびっくりしました。この方は役者になっていてもすごかったろうな、と思ったものです。
大浦:いいえ、私は1983年5月、『コミックトム』から『潮』の編集部に異動になりまして、その年の暮れだったのですが『ブッダ』の完結を見守ることが出来なかったんです。それだけが心残りですね。翌年の暮れに、時間のないなか私の結婚式に出席いただき、アトラクションで記念の漫画を描いていただいたのが最高の思い出ですね。できればいずれまた、手塚先生と一緒に仕事をしたいな、と思っていましたが、89年に先生が亡くなってしまってからは、なんだか自分の中の漫画への情熱がふっきれてしまって。それぐらい、手塚先生の存在は私にとって大きなものでした。
大浦:前任者の竹尾が最初に連載のお願いをした際に、——これは編集長の
先生の下には仏教に関する資料もあったのですが、手塚先生にはもともと仏教に対する素養があったように思いますね。「どこかに、こんなエピソードがあるんだろうか?」というお話が創作だったり、創作だろうという話にヒントがあったりすると語られていますからね。
また、先にご紹介したインタビューでも、手塚先生がおっしゃっているのですが、『ブッダ』は、さまざまなキャラクターのビルドゥングスロマンとしても読めるのです。ブッダ自身のみならず、周囲のキャラクターたち、タッタのようなオリジナルキャラクターや、アナンダ、ダイバダッタという仏典でもおなじみの仏弟子たちも、それぞれに成長していく。物語を通して皆が成長していき、その過程で登場人物たちを生き生きと魅力的に書き出されています。
『ブッダ』には、ブッダのような存在が社会的に求められてきた背景がていねいに描かれていて、それが編集部の唯一のリクエストでもあったのですが、今の時代にも通ずるものがあるのではないでしょうか? 閉塞感を感じている方が多い今だからこそ、手塚治虫の『ブッダ』がアニメ化された意味もあるんじゃないでしょうか。
昔『ブッダ』の作品を読んだことがある方も、時代や読む年齢によって、新たな発見がある作品ですので、この映画化を機会に、ぜひもう一度、読み直してみてほしいですね。
私も改めて今回、読み直してみて、いまだ健在な作品のすごさを感じました。人生におけるヒントというか、ものさしのようなものにきっと、なると思います。
<関連リンク>
映画「手塚治虫のブッダ−赤い砂漠よ!美しく−」オフィシャルサイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/buddha/
潮出版社 販売促進サイト
http://www.usio.co.jp/html/buddha/index.html
TezukaOsamu.net 「ブッダ」作品紹介ページ
http://tezukaosamu.net/jp/manga/434.html