昭和27年、本格的な東京進出を果たした手塚治虫先生は新宿区四谷に下宿を借りた。その場所はどこだったのか? 2011年1月公開の『虫さんぽ』第14回ではそこを探して四谷界隈を歩き、ようやくその場所をほぼ特定した……ハズだったのだが、実はその場所は間違っていた!! 今回は新たな情報ソースを元に“本当の”手塚先生の下宿跡を訪ねて、再び四谷を歩きます!!
昭和26年3月、大阪大学を卒業した手塚治虫先生は、翌年、仕事場として東京に初めて下宿を借りた。それが、当時新宿区四谷にあった八百屋さんの二階だったということは、手塚先生自身が講演で語ったりエッセイに書いたりしているので、手塚ファンの間でもわりと知られていることだ。
ということで『虫さんぽ』第14回では、ぜひその場所を訪ねたいと思い関係者に当たってみたのだが、その時には正確な場所を知る人や、住所を記した資料などは見つからなかった。
手塚先生の東京進出最初の拠点という重要な場所なのになぜ!? とは思ったが、ある意味、それも分からないではない。
というのは、手塚先生がここを借りていた期間はわずか1年弱であり、また当時はしょっちゅう旅館にカンヅメになっていて、ほとんど下宿にはいなかったからだ。また手塚先生がこの次に借りたトキワ荘が、後に“マンガ荘”としてあまりにも有名になってしまったため、その陰に埋もれてしまったということもあるかも知れない。
ともかく、そんなことから『虫さんぽ』第14回の時には、当時を知る編集者やマンガ家のエッセイなどの断片的な活字情報を元に現地へと向かった。そして現地での聞き込み調査を行った結果、ほぼそれらしき場所を特定して記事にしたのだが……!!
記事の公開後、しばらくして読者から手塚プロに1通のメールをいただいた。
大阪在住U・Iさんというその方のメールによれば、手塚先生の下宿があった場所は、ぼくが『虫さんぽ』第14回で推定した場所とは違うのではないか、ということだった。
そしてその根拠として、マンガ専門古書店「まんだらけ」が発行する目録に、手塚先生の四谷の下宿について、その正確な場所を含めた詳細な記事が載っていたというのである。
あいにくぼくはその号を持っていなかったので、古書店やネットオークションを探して後日、ようやく現物を入手することができた。それが1995年11月まんだらけ出版部発行の『まんだらけ』第11号である。この号では手塚治虫の古本が特集されていて、その関連記事として、当時手塚治虫ファンクラブ京都代表だった
その中で石川さんは、何とその下宿のご主人の娘さんから直接話を聞いて、それを元に下宿があった場所の住所はもちろん、昭和27年当時の下宿周辺の様子や部屋の間取り、先生がお気に入りだった散歩コースまでを詳しく紹介されていたのだ。いや〜、こんな記事があったなんて調査不足で申し訳ない。そしてそれより何より、正確な場所が分かったからには、あらためて四谷を散歩しなければいけません!
ぼくはさっそく石川さんに連絡を取り、この記事の内容を引用しつつあらためて『虫さんぽ』をしたい旨お話ししたところ、快くご諒解をいただいた。
ということで、前置きが長くなってしまいましたが、今回は手塚先生の“本当の”下宿跡を訪ねて再び四谷散歩へ向かいます。情報を提供してくださったU・Iさん、記事の引用を快諾くださった石川栄基さん、ありがとうございますっっ!!
四谷散歩リベンジ編の出発地点は都営地下鉄新宿線・
蒸し暑い真夏の曇天の中、駅のA4出口を出て靖国通りを東へと向かう。すると左にゴッツい巨大な建物が見えてきた。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地である。建物の真ん中からはスカイツリーのミニ版のような物々しい電波塔がニョキッと突き立っている。警察とか自衛隊の建物って、どうしてこう威圧的なんだろう。
とか余計なことを考えながら、その電波塔を背にする形で
今回は2度目の四谷散歩なので、ここで四谷という町の歴史や、先生が住んでいた当時の町の雰囲気などについて下調べをし、昔の四谷の写真などをお借りしてから散歩に向かうことにしたのだ。
新宿歴史博物館は1989年(平成元年)1月にオープンした。およそ3000平方メートルの敷地に地下1階、地上2階建ての建物が建っている。常設展示室では新宿の歴史を旧石器時代から江戸時代、近代と時代を追う形で貴重な展示を見て行くことができる。
中でも特に『虫さんぽ』読者に興味を持っていただけそうなのが、昭和初期の新宿をテーマにした展示コーナーだ。
まず目をひくのは、当時の実物パーツを使いながら1分の1サイズで復元されたという昭和5年製造の市電5000形。さらに同じく1分の1サイズで建てられた文化住宅(昭和初期に流行した和洋折衷スタイルの住宅)は、建物の中へ入って当時の生活の様子を覗き見ることもできる。
ほかにも戦前のサラリーマンの服装や持ち物をズラリと並べた展示や、夜の新宿裏通りの繁華街のにぎわいをミニチュア模型で再現したジオラマなど、興味深いものがいっぱいあった。四谷散歩の折にはぜひ皆さんも立ち寄ってみてください。
さて、これで下準備もバッチリだ! 新宿歴史博物館を出たぼくは、そのまま路地を南下し、まっすぐに先生の下宿跡を目指す。前回はまるで不審者のようにキョロキョロしながら路地をうろつき回ったけど、今回はそんなこともない。
石川さんの記事によれば、手塚先生の下宿すなわち八百屋さんがあった場所の住所は新宿区四谷2丁目4番地。新宿通りからひと角入って数軒目の右側。当時の屋号は山崎商店だった。
現在その場所は甘栗屋さんになっているが、手塚先生の話やここを訪れた人の証言にあった通り、確かに路地の右側の角地である。
念のため周囲で聞き込みをしたところ、戦前からこの土地に住んでおられる木村さん(80歳)という方にお話を聞くことができた。木村さん自身は手塚先生の下宿のことをご存じなかったが、奥様が記憶されていて、間違いなくここが手塚先生の下宿跡だということが確かめられたのだった。
いや〜それにしてもここまでの道のりは遠かった! 実は前回の取材でも、そうとは知らずにこの道も歩いてたんですけどね(笑)。
ちなみに実際にその場所に立ってみると、もうひとつ「なるほど!」と納得したことがあった。それはこの八百屋さんの場所が、手塚先生がよく通ったパチンコ屋の場所と目と鼻の距離だったことだ。
下宿を出て新宿通りを右へ曲がると、現在はその角がジョナサンになっていて、その次がファミリーマートである。前回の散歩では、昭和27年当時このファミマのあたりにパチンコ屋「四ッ谷」があったという地元の人の証言を得た。一方、石川さんが八百屋さんのお嬢さんに聞いて描いた地図では、ジョナサンの場所がパチンコ屋となっている。
まあ証言者によって多少の記憶違いはあったにしても、手塚先生が編集者の目を盗んで下宿からパチンコ屋へ通うのがごく簡便な距離だったことは確かめられた。
さらに今回、新たに手塚先生ゆかりの場所をもうひとつ特定することができた。それは銭湯だ。八百屋の下宿には風呂がなかったため、手塚先生は銭湯へ通っていた。その銭湯の様子は前回の散歩でも紹介した手塚先生の読み切り作品『四谷快談』(1976年)の中にも登場する。
その銭湯の名前は「梅の湯」と言い、下宿のすぐ横の路地を入ってひと角まがった左側、現在はオフィスビルとなっている場所にあった。
この銭湯がいつまであったのか、正確な年までは分からなかったが、この地域の人に聞いた複数の話を総合すると、昭和40年代までは確かにここにあったということだ。
また前出の木村さんのお話では、昭和30年代にこの近くに歌手の舟木一夫が住んでいて、舟木一夫がこの銭湯へ通う姿がよく目撃されたそうだ。当時はスターといえども風呂なしのアパートに住んでたんですな。
下宿からこの銭湯まではわずか徒歩15秒の距離だけど、石川さんの記事によれば、当時、手塚先生は銭湯帰りにあえて遠回りをして帰るお気に入りの散歩コースがあったという。もちろん今回の虫さんぽでも、それと同じ道筋をたどってみることにしよう。
銭湯を出た手塚先生は下宿の方へは戻らず、四谷第一小学校を右手に見ながら、目の前の路地をまっすぐに西の方へと歩く。
このあたりは今でも閑静な住宅街だけど、当時はもっと寂しくて静かな道だったに違いない。夏の夕暮れ時に、湯上がりのほてった体に風を感じながら下駄を鳴らしてそぞろ歩くには最高の道である。
ただし今回歩いたのは真夏の昼下がりだったから、アブラゼミとミンミンゼミの鳴き声が暑苦しく響き渡っていて、熱中症でブッ倒れそうだった。せめてこれがヒグラシの「カナカナカナ」という悲しげな鳴き声だったら、もう少し風情があったんだけどねーっ。
そのまま100mほど行くと、左角には当時、ラジオ局・文化放送のモダンな社屋が建っていた。昭和27年当時、日本ではまだテレビ放送が始まっておらず(NHKテレビの放送開始は昭和28年2月)、ラジオは最先端のマスメディアだった。だからこのあたりには、きっと当時の最新流行の服を着たマスコミ人がさっそうと闊歩していたんでしょうね。
と、その文化放送を左に折れて坂道を下って行くと雰囲気がまたガラリと一変する。地図を見るとよく分かるけど、このあたりにはいくつもの寺や神社が密集しているのだ。これは寛永13年(1636年)に江戸城外堀の工事が始まるため、
坂を下りきると、今度は正面に急な登りの石段があらわれる。その石段を登った右手にあるのが須賀神社だ。元は清水谷(現在の赤坂)の鎮守だったものが、前に述べた外堀の
金色に輝く立派な本殿は文政11年(1828年)に作られたもので、昭和20年5月の空襲で一部が焼けたものの、内陣はかろうじて焼失をまぬがれた。その後、平成元年に大修復工事が行われているが、昭和27年当時も、おおよそ今と変わらぬ風景だったに違いない。
手塚先生の散歩コースは、この須賀神社へお参りをして、そのまま反時計回りに路地を歩き、下宿へ戻るというものだ。
そして下宿へ帰ると再びおもむろに机に向かい、ひたすらにペンを走らせる。今夜の締め切りは雑誌『少年』の新連載『鉄腕アトム』か、それとも『少年画報』の別冊付録だろうか……。
ではまた次回の散歩でご一緒いたしましょう!!
(今回の虫さんぽ、3時間25分、6235歩)
取材協力/石川栄基、公益財団法人 新宿未来創造財団、新宿区立 新宿歴史博物館(順不同・敬称略)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番