今回は文京区本郷をスタートし、さらに電車に乗って四ッ谷まで足をのばした。このエリアには、昭和20年代半ばに手塚治虫先生が関西から上京し、東京での地歩を固め始めたころの足跡が数多く残されている。特に今回の散歩では、これまであまり詳しく紹介されることのなかった四ッ谷の下宿時代のゆかりの場所が、現場の聞き込みなどによってかなり明らかになった。中には今回初めて判明した新事実もある! さあ、さっそく出発だっっ!!
今年の冬は寒暖の差が激しいのが特徴のようだ。こうして原稿を書いてる今日は東北や北陸地方は大雪だそうで、東京もかなり寒い。しかし散歩当日は厚手のジャケットを着て歩いていると汗ばむほどの暖かさだった。
ということで、うららかな陽気の中、今回の散歩は都営大江戸線・本郷三丁目駅から始まる……んだけど、その前に今回の散歩のテーマとなる手塚先生が上京されたころの周辺状況をざっとおさらいしておこう。
昭和20年代前半、それまで関西の「
この連載がきっかけとなり、手塚先生の東京での仕事は急増する。それでも最初のうちは、宝塚の実家と東京とを往復しながら仕事を続けていたが、昭和26年に大阪大学を卒業。同じころ関西の赤本ブームが下火となり仕事の中心がいよいよ東京へ移ってきたことから、昭和27年、手塚先生は新宿区四ッ谷に下宿を借りてそこを仕事場とした。ここが先生の東京上陸第1歩となった記念すべき場所である。
ところがこの下宿の場所がどこだったのか、手塚先生のエッセイなどにも正確な場所は書かれておらず、手塚プロ内部の関係者に聞いても誰も知らないという。それでは散歩ができない。ということで今回、複数の状況証拠と現地での聞き込みにより、ついにその場所が判明した!! その発表は後ほど!!(今回も引っぱるなぁ……)
さて、こうして道ばたで長話をしているうちに足元が冷えてジンジンと痛くなってきた。いくら天気が良いとはいえ真冬である。さっさと歩き出そう。
まず向かったのは、春日通りを西へ進み、細い路地をちょいと右へ曲がったところにある「文京ふるさと歴史館」だ。ここは1991年にオープンした文京区の区立博物館で、2009年10〜12月、ここで『実録!“漫画少年”誌 -昭和の名編集長・加藤謙一伝-』と題された企画展が開催された。
しかもこの建物の場所は偶然か必然か、何とかつて『漫画少年』を発行していた学童社のあった場所とまさに目と鼻の先なのだ! ここでは展覧会が開催された当時のお話をお聞きし、さらに学童社の正確な場所についての情報も提供していただいた。応対してくれたのは同館学芸員の
「当館で『漫画少年』の企画展を開催した理由は、出版がいわば文京区の地場産業だからです。文京区には講談社を始めとして古くから出版や印刷に関わる業者がたくさん集まっています。ですからそうした地場産業を紹介するために一般の人にも親しみやすい切り口はないかと考えて調べた結果、学童社と『漫画少年』に行き着いたんです」
学童社は、戦前に講談社の雑誌『少年倶楽部』の名編集長として名を馳せた
しかし当時、日本は敗戦国だったため、GHQ(連合国軍総司令部)の指令により、戦時中に戦争に協力したとされた人間は公職や企業の要職には就けないという決まりがあった。そして加藤氏も、軍国主義的な雑誌を作っていたということでこの公職追放の対象となっていた。そのため学童社も名目上は奥さんが社長となり、加藤氏はその影に隠れてこっそりと編集を行っていた。
そうして昭和22年12月から創刊された『漫画少年』のテーマは、戦後の荒廃した状況の中で「子どもたちに夢と希望を与えること」。これは昭和30年10月号で廃刊するまで一度もぶれることはなかった。また新人マンガ家の育成にも力を入れたため、この雑誌をジャンプボードとして大きく羽ばたいていったマンガ家は数知れない。
ちなみに姓が同じで混乱しそうだけど、文京ふるさと歴史館の加藤元信さんは加藤謙一氏とはまったくゆかりはないという。
ということで、再び文京ふるさと歴史館の加藤元信さんに話を聞こう。
「企画が決まって、さっそく準備に動き出して驚いたのは、当時の関係者の方々に協力をあおぐと、誰もが『漫画少年』という名前を出しただけで、ふたつ返事で
展示物は、そうした各方面からお借りしたもののほか、当館で独自に収集したものもあります。その収集作業の中で、何と『漫画少年』を全巻所有しているというコレクターの方をご紹介いただいたんです。そこでさっそくその方にコレクションをお借りできないかと連絡を取ったのですが、あいにく体調を崩されているということでご提供はいただけませんでした。ご病気では仕方ありませんが、会場に『漫画少年』全巻をズラリと並べられたらさぞ壮観だったでしょうね」
うひゃー、それはぼくもぜひ見てみたかったなー! 加藤元信さん、貴重なお話ありがとうございました!!
文京ふるさと歴史館を後にして次に行ったのは、加藤元信さんに教えていただいた学童社のあった場所だ。
昭和24年ごろ、学童社は神田淡路町の自宅から文京区弓町(現・文京区本郷)へ移転してきた。2階建ての小さな建物で2階の窓からは後楽園球場が見えたという。文京ふるさと歴史館とは春日通りをはさんでちょうど向かい側、直線距離にしてわずか100メートルの場所である。そして昭和25年のある日、手塚先生が初めて学童社を訪れたのもここだった。
手塚先生のエッセイによれば、その日、先生が上京して学童社を訪ねた理由は、大阪の出版社からの頼まれ仕事のために、たまたまあるマンガ家の住所を聞こうとして立ち寄ったことだったという。だがこれは手塚治虫と加藤謙一、ふたりにとっての運命の出会いだった。
加藤氏はかねてから手塚先生の作品に注目しており、ぜひ会いたいと思っていた。そこへまさかの本人がやってきたのだ。加藤氏は手塚先生が単行本用に描きかけていた『ジャングル大帝』の原稿を見せてもらい、その場で『漫画少年』への連載を依頼した。
今ぼくが立っている場所に当時の面影は何もない。何も知らなければただ通り過ぎてしまうだけのどこにでもある東京の風景だ。しかし今から61年前、手塚先生と加藤氏は確かにここで出会った。そしてここで『ジャングル大帝』の連載が決まり、手塚先生の東京での本格的な活動が始まったのだ。それはまさに戦後マンガ史の新章の始まりとも言える出来事だった。
そう考えるとぼくは胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、東京ドームへ向かって「うおおっ!」と叫びながら走りたくなったが、ドームでは何かイベントが行われているらしく警備の警官がいっぱい立っていたからやめておいた。ううっ!
続いて向かったのは学童社が最後に移転した場所だ。東京ドームを左回りにぐるっと大きく回って細い道路を南下する。すると左側に大きなビルが見えてくる。現在の日中友好会館である。ここはかつて
ここに紹介した当時の建物の写真を見ると、中国建築風の立派な玄関の両脇に、人間の身長ほどもある大きな犬獅子像が2体飾られている。
そして! 実はビルが建て替わった現在も、この犬獅子像だけは別の場所に現存していた!! それは本館の裏手、ちょうど東京ドームから南下してきた道路沿いに建つ「日中友好会館別館」の玄関前である。犬獅子像は当時の写真とくらべると黒くなり、だいぶ風格が増しているが間違いなくコレだ。
昭和20年代の終わり、手塚先生をはじめ
そう思うとぼくは、この像に思わずほおずりしたくなったが「関係者以外立入禁止」の看板が目に入ったのでやめておいた。ううっ!!
学童社周辺の散歩を終えて、ここからはJRに乗って四ッ谷へ移動する。
まずは手塚先生が東京で最初に借りたという下宿を探すことにしよう。
実はこのころの手塚先生の生活については、先生が1976年に発表した短編『四谷快談』の中に少しだけ描かれている。それによれば先生の下宿は「四谷一丁目の ある八百屋さんの二階」となっているのだが、これはかなり大雑把な言い方で、実際の下宿の住所は四谷1丁目ではなかったと思われる。
というのは、四谷1丁目はほとんど駅周辺のエリアだが、当時手塚先生の下宿へ行ったことのある複数の編集者の証言の中に「四ッ谷駅から歩いて7〜8分」とか「文化放送の近く」という表現が出てきているからだ。かつてラジオ局・文化放送の本局があった場所は、新宿通りをさらに西へ行った路地の奥、住所で言うと若葉1丁目である。では果たして手塚先生の下宿は本当はどこにあったのか!?
手塚先生は人を煙に巻くようなコトを言うのが大好きだからなぁ。これもわざと謎かけみたいな表現をしたのかもなぁ……散歩に出かける前の準備段階から行き詰まったぼくがそんなことをアレコレ考えていると……ある日、偶然にも超有力な情報が向こうから飛び込んできた!!
それは先月号のコラム『手塚マンガあの日あの時』第14回の原稿を書いているときだった。そのコラムでも紹介した、うしおそうじ氏の本の中に、こんな一節があったのだ。
「ボクが手塚治虫の仕事場をはじめて訪問したのは、その『鉄腕アトム』の再連載が始まって三ヶ月後、六月のある日の昼下がりだった。(中略)国電四谷駅を下車、都電の交差点を新宿方向へしばらく行くと、四谷二丁目の角を左へ文化放送ラジオ局へ入る横丁があり、そこを曲がっておよそ百メートルほど行った右側の角に八百屋がある」(うしおそうじ著『手塚治虫とボク』2007年、草思社刊より)
これを読んでぼくは手塚先生とうしお先生と
再び散歩当日に戻る。まずは文化放送のあった場所へ行ってみよう。文化放送がここ四谷から港区浜松町へ移転したのは2006年7月のことだ。現在その跡地にはおしゃれなマンションが建っている。ふと見ると、その玄関脇に「文化放送発祥の地」と書かれたプレートが掲げられていた。しかし見渡してみても、周囲に八百屋はない。
それにおかしいのは、この路地を入って100メートルの右側というと文化放送の真正面になることだ。もし実際にそこに八百屋があったとしたら、そこを訪ねたことのある人は必ず「文化放送の前の八百屋」という表現をしたはずだ。どうやらうしお氏の記述にも若干の記憶違いがあるようだ。
ぼくは通りがかるお年寄りに片っ端から「昭和27年ごろ、この通りに八百屋さんがあったのをご存知ないですか?」と聞きまくってみたが、さすがに昭和20年代のことを知る人は誰もいない。
冬の
半ばあきらめつつ文化放送の前の道を直進し、さらに路地を奥へと進んでいったときのことだ。ひとりの腰の曲がったお年寄りの男性が、ショッピングカートを押しながら坂道をゆっくりと登っているのが見えた。ぼくはダメ元でまた聞いてみることにした。
するとその方はこう即答されたのだ。
「文化放送の通りに八百屋さんがあったことは一度もないねぇ」
聞けばその方は昭和7年からこの町に住んでいるという。これはついに場所が判明するか!? ぼくは焦って質問を重ねた。
「では、筋違いの路地になかったですか? この近くだったことは間違いないんですが」
「ああ、だったらこの先の路地にあったよ」
「八百屋さんはそこ1軒だけでしたか?」
「そうね、このあたりじゃ八百屋さんはそこ1軒だけ。今はその隣が八百屋さんをやってるけど」
そこだ、そこに間違いない。もうかなり暗くなってきている。ぼくは急いでそこへ向かった。
教えていただいた場所の隣が確かに魚屋さんと八百屋さんの兼業のようなお店だった。そこのご主人に聞いてみる。
「すみません、お宅の隣の家、昔、八百屋さんでしたか?」
「そうだよ、昔はね」
ここだ、ついに見つけた!! ぼくは詳しい取材をする前に、さっきのお年寄りにあらためてお礼を言おうと思って今来た道を戻った。ところが、あたりを見回してみてもお年寄りの姿はどこにもない。道は1本道だし腰の曲がったお年寄りがそんなにすぐ遠くへ行ってしまうはずはないのだが……。その人はまるでぼくにその場所を教えるためだけに現れたような、そんな不思議な感覚がした。
あらためて八百屋があったという場所へ戻ってみる。そこは文化放送のあった路地の2本先の道だった。住所でいうと新宿区左門町になる。しかし「路地を入って100メートルほど行った右側の角」といううしお氏の記述ともぴったり一致する。
現在は3階建てのビルになっていて1階にはそば屋さんが入っていた。そこの若いご主人に聞いたところ、開業したのは3年前でそれ以前のことは分からないという。
そこでもう一度、隣の魚屋さんに聞いてみたが、そこのご主人は二代目で、この角は確かに昔八百屋だったが、二階を下宿として貸していたかどうかとか、何年に営業をやめたかなど詳しいことは何も分からないとのことだった。
結局、ここに手塚先生が住んでいたという確証は得られなかったわけだが、状況証拠は充分に揃ったと言っていいだろう。今後、研究者によって確定されることを期待したい。
次に向かったのは、前出の『四谷快談』に出てくる於岩稲荷だ。八百屋さんがあった場所からもすぐの場所である。ぼくは20数年前に『妖怪・幽霊大百科』という本の編集をしたときにここへお
その時も迷ったんだけど、行ってみると路地をはさんで向かい合うように2つの於岩稲荷がある。一方が於岩稲荷田宮神社、もう一方が
これはどういうことかというと、もともとは路地の西側の田宮神社が於岩稲荷を
昭和20年、戦災で新川の田宮神社が再び焼失し、戦後、新川と四谷の両方に田宮神社が再建され両方で於岩稲荷を祀るようになった。
何だかややこしいが、結局、於岩稲荷は現在、四谷に2ヵ所、中央区に1ヵ所あるということになっている。そして手塚先生の『四谷快談』の中にも、しっかりと田宮神社と陽運寺の両方が描かれている。
平日にもかかわらず取材中も地元の人らしき人や、ハイヤーで乗り付けてお参りをして帰る会社社長風の人などがポツポツと訪れていたが、見ていると、やっぱりみんな両方お参りしていくようだ(笑)。
さて今回の虫さんぽもかなりいろいろな情報を詰め込んだたため、午前中に家を出たにもかかわらず、あたりはすっかり暗くなってしまった。
最後にぼくが探したのは、パチンコ屋と
この「来々軒」の場所はぼくも覚えている。今は「ケンタッキーフライドチキン」になっているが、2〜3年前まで四谷見附交差点の角にあったお店だ。
ではパチンコ屋はどこだったのか。新宿通り沿いには現在もパチンコ屋が1軒営業中だ。そこでぼくは店に入って聞いてみたが、ここは残念ながら昭和29年の開業だそうである。
ところで『四谷快談』の中にも、主人公の少年がパチンコ屋で幽霊のお岩さんと組んで大当たりを出すというシーンがあったけど、あれは当時の先生自身の姿をダブらせながら描いていたんですね。
歩き疲れたし気温も下がって寒くなってきたので、喫茶店で休憩することにした。入ったのは昭和の香りのするクラシカルなお店だ。するとそのお店の年配のマスターがパチンコ屋について知っていた。「パチンコ屋は昔、新宿通り沿いに3軒あったんだよ。今ある「コメット」のほかに「四ッ谷」という店と、通りの反対側に「さくら」という店もあったんだ。その中でいちばん古いのが「四ッ谷」だったから昭和27年ごろというと恐らくその店だろう」
マスターからお聞きしたその場所は現在ファミリーマートになっていた。また、そのパチンコ屋の景品に来々軒の食券があったかどうかは残念ながらマスターも知らないとのことだった。
それからそのマスターの話によれば、来々軒のあった場所も、道路の拡幅工事と区画整理によって当時とは大きく変わっているという。つまりぼくが記憶している時代の「来々軒」の場所、すなわち現在の「ケンタ」の場所は区画整理後の場所であり、昭和27年ごろの来々軒は外堀通りに面したもっと広い間口の店だったそうである。
ということで今回は400字詰め原稿用紙換算で20枚超という長編の虫さんぽになってしまいましたが、ここまでお付き合いくださいましてありがとうございます。ぜひまた次回の散歩でご一緒いたしましょう!!
(今回の虫さんぽ、6時間22分、12854歩)
取材協力/文京ふるさと歴史館、財団法人日中友好会館、四谷界隈のお年寄りのみなさん(順不同・敬称略)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番