今回の虫さんぽは、かつてマンガ荘と呼ばれた伝説のアパート「トキワ荘」界隈を、スペシャルゲスト・鈴木伸一先生と歩くっ!! このあたりは2009年の虫さんぽですでに紹介済みだけど、あれから5年、お休み処(案内所)の新設や新たな写真の発掘など、NEWな話題がいくつも増えているらしい。ならば行かなくちゃ! 昭和20年代の終わりから30年代にかけて、手塚治虫先生を慕う若きマンガ家たちが暮らしたトキワ荘。その伝説を、生き証人である鈴木先生の案内で歩く! こんなぜいたくな散歩はめったにありませんぞ〜〜〜〜〜っ!!
東京の巨大ターミナル駅・池袋から西武池袋線の普通電車に乗って1駅。電車は椎名町駅に到着した。前回のトキワ荘さんぽと同じく、今回もここを散歩のスタート地点としよう。
冒頭にも書いたように、ここトキワ荘界隈は2009年春の虫さんぽですでに散歩済みの場所である。
この当時はちょうどトキワ荘跡地近くの公園に「トキワ荘のヒーローたち」という記念碑が完成したばかりのころで、地元は大いに沸いていた。
だけどマンガを愛してやまない地元の皆さんの夢はそこで終わってはいなかった! その後も地道な努力を続け、新資料の発掘やモニュメントの新設、イベント開催、お休み処(案内所)の開設など、トキワ荘の話題で今でも大いに盛り上がっているのだという。
そこで今回は、5年ぶりにここトキワ荘界隈を再訪することにした!
といっても、ただ再訪するだけじゃ読者に対してサービスが足りない。もっとなにかプラスアルファの要素が欲しい! たとえば、当時トキワ荘で実際に生活をされていた鈴木伸一先生に案内をお願いできないだろうか!?
私・黒沢のそんな提案に、手塚プロのI藤プロデューサーは当初、難色を示した。
現在、杉並アニメーションミュージアムの館長を務めておられる鈴木先生はかなりご多忙のはずである。また締め切りから逆算すると散歩はまだ寒い3月上旬までに行わなければならない。鈴木先生に風邪を引かせてしまうわけには絶対にいかない!
だけどぼくはどーーしてもあきらめられず、I藤プロデューサーを説得し、渾身の企画書を書いて鈴木先生の元へお送りした。
すると後日、直接電話口にお出になられた鈴木先生から「いいですよ」という快諾のお言葉が!!
こうして今回のビッグゲストの出演が決定したのでありました!! ありがとうございます鈴木先生、うおおお〜〜〜っ!!
やや興奮気味のまま、椎名町駅を降りたぼくは足どりも軽く、スキップをしながらトキワ荘通り方面へと向かった。
しかしスキップをし続けるには距離がありすぎたので途中で徒歩に変えた。ぜぇぜぇハァハァ……。
椎名町駅南口を出て山手通りを南下、5〜6分ほど歩くと目白通りとの交差点に差しかかる。この目白通りを右折して200メートルほど西へ向かうと道が二又に分かれている。そこを右へ。商店が建ち並ぶこの道をひとつ曲がった脇道の奥に、かつてトキワ荘が建っていた。
ここでトキワ荘について、あらためてざっとおさらいしておこう。
昭和28年、東京の出版社での仕事が増えてきた手塚治虫先生は、編集者の紹介で、ここ豊島区椎名町(現・南長崎)に建ったばかりの新築のアパートを訪れた。アパートの名前はトキワ荘。
木造二階建てでトイレ・炊事場は共同、部屋は四畳半の質素なアパートだけど、東京の人口が急増していた当時は、これでもかなりモダンな建物だった。
手塚先生が借りたのは二階の14号室。階段を上がって2階の手前左側。アパートを正面から見ると、玄関の右上の部屋である。間もなくその向かいの部屋にマンガ家の寺田ヒロオが入居してきた。
手塚先生は、わずか1年足らずで同じ豊島区内の雑司が谷にある並木ハウスへと引っ越してしまったが、その後に14号室へ引っ越して来たのが藤子不二雄のおふたり、つまり後の藤子不二雄A先生と藤子・F・不二雄先生だった。
寺田先生と藤子両先生の3人は、地方在住の優秀な才能を持ったマンガ家の卵たちを次つぎとトキワ荘へ呼び集め、彼らはお互い切磋琢磨しながら、マンガの黄金時代を築き上げていったのである。やがてここは、誰が呼んだか“マンガ荘”と言われるようになった。
入居時期は異なるけど、ここに暮らしたマンガ家には前出の3人のほかに次のような人びとがいた(敬称略)。森安なおや、石森章太郎(石ノ森章太郎)、赤塚不二夫、よこたとくお、水野英子、山内ジョージ。そして今回の虫さんぽ案内人を務めていただいた鈴木伸一先生もその中のひとりだったのである。
そのトキワ荘は1982年11月、老朽化のために解体されてしまったが、マンガを愛する地元の人たちの情熱によって、モニュメントや案内板が設置されるなど、「トキワ荘のあった街」は今も大切に語りつがれている。
そんなトキワ荘通りの最新の話題が「豊島区トキワ荘通りお休み処」と名付けられた無料休憩・案内所の開設だ。
2013年12月に行われたこのお休み処のオープニングセレモニーには、鈴木伸一先生のほか、よこたとくお先生、水野英子先生、元『少女クラブ』編集長で、虫さんぽにも何度かご登場いただいている丸山昭さんもゲストに招かれ、大々的な式典が開催された。
今回の鈴木先生との待ち合わせもこのお休み処なので、まずはここへ直行しよう。
山手通りから目白通りへ折れて西へ。交番のある三叉路を右へ向かい、そこから30mほど歩いた右側にお休み処がある。
2009年の虫さんぽで訪れたとき、ここには老舗のお米屋さんがあった。現在のお休み処は、そのお米屋さんだった当時の建物を改装したもので、ぶっとい梁(はり)と重厚な瓦屋根に古い商家の面影があって、じつに味わい深い建物である。
「おじゃましま〜す」
木製の引き戸を開けてお休み処の中へ入る。
「黒沢さん、お待ちしてました!」
出迎えてくださったのは、前回の虫さんぽで案内人を務めてくださった小出幹雄さんである。小出さんは地元で時計店を経営するかたわら、トキワ荘に関する資料の収集や「トキワ荘のあった街」の宣伝広報活動に、ものすごい情熱を傾けおられる方だ。
私・黒沢も、小出さんとは前回の虫さんぽ以来、同好の士としてすっかり意気投合し、ときどき情報交換をさせていただいていた。
鈴木先生がお見えになるまでには、まだ少し時間があるので、まずは小出さんにお休み処の中をざっと紹介していただいた。
小出さん、よろしくお願いします!
「はい。ここお休み処は2階建てで、1階は休憩・物販・イベントスペースになっています」
おおっ、棚にはトキワ荘関連の資料本や、トキワ荘出身マンガ家のマンガ本がいっぱい並んでいますね!
「はい。椅子もありますので、この街を訪れたマンガファンの皆さんが情報収集をしたり休憩できるスペースになっているんです」
ちなみにぼくの著書も置いてくださってありがとうございます。何ならサインしていきましょうか? あ、展示物に書き込みは禁止ですか。そうですか。
ところで小出さん、さっきからカウンターの横の机で絵を描いている男性はもしかしてマンガ家さんですか?
「はい。ここトキワ荘通りでは若いマンガ家さんを応援する企画もいろいろと行っていまして、そこで学んだ若いマンガ家さんが、こうしてお休み処にいることもたまにあるんです。そうした日にお越しいただいたお客様は、目の前でマンガを描くところを見学したり、お子様と一緒にマンガの塗り絵をして遊んだりできるんです」
それは楽しいですね!
「それから、まだ数は少ないですが、ここでしか買えないオリジナルグッズも販売しておりますので、散歩のおみやげにぜひお買い求めください」
続いて靴を脱いで2階へ上がる。
「スリッパをどうぞ」と差し出されたスリッパを見て驚いた。なんと「トキワ荘」という金文字が入っているではないか! 小出さん、このスリッパはいったい……!?
「じつはこれもお休み処の開設にあわせて製作したものなんです。1階でおみやげとしても販売しておりますので、よろしければお買い求めください」
むむむ、トキワ荘通りお休み処、予想はしていたが、こいつはそーとー本気である……!!
2階は展示スペースになっていて、まず目を引くのは、当時の写真を元にほぼ忠実に再現されたという、トキワ荘の寺田ヒロオ先生の部屋だ。
また、それ以外にも、トキワ荘にマンガ家たちが集っていた時代の懐かしい物々がズラリと並び、おぼろげながら当時のこの街の空気を感じることができる空間となっていた。
と、そうこうしているうちに、鈴木伸一先生がお休み処に到着した。
「どうも、遅くなりました」
おひとりでやって来られた鈴木先生は、足どりも軽く、いつもまったくお歳を感じさせない若々しさに驚かされる。
「鈴木先生、本日はよろしくお願いします!」
ここで鈴木先生のプロフィールを簡単に紹介しよう。
鈴木伸一先生は昭和8年、長崎県の出身で昭和30年に上京、間もなく雑誌『漫画少年』の投稿仲間だった寺田ヒロオ先生の誘いでトキワ荘に入居した。
だがその後、鈴木先生はほかのマンガ家仲間とは別の道を歩むことになる。昭和31年5月、アニメーション制作の夢を抱いた鈴木先生はトキワ荘を出て「フクちゃん」のマンガで有名な横山隆一先生のおとぎプロに入社。昭和38年には、トキワ荘の仲間たちと一緒にアニメ制作会社「スタジオゼロ」を立ち上げ、『おそ松くん』『パーマン』『怪物くん』などのテレビアニメ制作を手がけた。
そのスタジオゼロは1971年に解散したが、鈴木先生はその後もCMアニメや番組のオープニングタイトルなどを多数制作。現在は杉並アニメーションミュージアムで館長を務めながらアニメ文化の普及に尽力している。また著名なアニメ作家たち10人と「G9+1」というアニメ創作グループを作り、今でも制作発表を続けている。
鈴木先生は、つい先日もイベントのゲストに招かれてここトキワ荘通りを訪れたということだったが、あらためてお休み処の展示を見ていただいた。
「この前はあわただしくてゆっくり見ていられなかったので、今日はゆっくり見たいと思ってね」
そうおっしゃられた鈴木先生は、2階に上がり、寺田先生の部屋を見渡して懐かしそうに目を細めた。
「テラさん(黒沢注:トキワ荘仲間は、寺田先生のことを親しみを込めてみなこう呼んでいた)の部屋はね、まさにこんな感じでしたよ。もうホントにこのままだったんです。いやあ、よく再現してあるなあ」
ぼくなんかは、こうして見ると物がとても少ないように感じるんですが。
「当時はこれが普通だったんです。ぼくなんかも上京するのに小さなカバンひとつしか持って来てなかったですから。布団と小さな机がひとつあればそれで充分だったんですよ」
続いて鈴木先生が目を止めたのは喫茶店「エデン」関連の展示品だ。
「エデン」というのは、先ほど歩いてきた山手通りと目白通りの交差点にあった喫茶店だ。昼は純喫茶として営業し、夜はお酒も提供するお店になった。当時、石森章太郎(石ノ森章太郎)先生がこのお店の常連で、そのエッセイにもたびたび名前が出てきている。鈴木先生にお聞きしてみた。
鈴木先生は当時、「エデン」に行かれたことはあったんですか?
「何度かありますよ。石森氏に誘われたりね、編集者との打ち合わせに使ったこともあったかな。ところでここに置いてある鹿の角は何ですか?」
ここですかさず隣にいた小出さんの注釈が入る。
「これはですね、エデンの店内に飾ってあった飾りです。お店を閉めるときに記念にもらって保管していた方がおられましてね。その方から提供していただいたんです」
それを聞いて鈴木先生も感心する。
「いやあ、鹿の角までは覚えてなかったなあ。そんなものが、よく残っていましたねえ、ははは」
お休み処を出た鈴木先生と小出さん、そしてぼくの3人は、トキワ荘跡地に建てられたモニュメントや、トキワ荘ゆかりの場所に新設された案内看板などを見て回った後、旧「エデン」跡地の向かい側にある喫茶店ヴィオレで休憩することにした。
この喫茶店ヴィオレも、トキワ荘にマンガ家が集っていた時代から営業している歴史あるお店である。
ここでコーヒーを飲みながら、鈴木先生に、あらためてトキワ荘当時のお話や手塚先生とのエピソードをうかがった。
鈴木先生、先生が長崎から上京されたのは、資料によれば昭和30年とありますが、それ以前はどんな生活をされていたんでしょうか?
「ぼくは高校を卒業して4年間、下関の印刷会社で働きながら、マンガを描いては雑誌『漫画少年』に投稿していました。
最初に上京したときは、父の知人のつてを頼って、洋画家で風刺漫画なども描いておられた中村伊助先生のお宅に居候させてもらったんです。
足立区梅島の中村先生のお宅にはおよそ1〜2ヵ月ほどいたでしょうか。それから間もなくして昭和30年の夏ごろ、テラさんに誘われてトキワ荘へ引っ越したんです」
最初のトキワ荘はどんな印象でしたか?
「いやもう生まれて初めてのアパート暮らしがうれしくてね。四畳半がものすごく広く感じました。何しろさっきも言ったように、当時はモノが何もなかったですから。家具は中村先生からいただいた小さな黄色い子ども机がひとつだけだったんです」
マンガ本などはお持ちだったと思いますが、どうされていたんですか?
「ミカン箱に入れて積んでありました(笑)」
独立されて、マンガだけですぐに生活は出来たんですか?
「ぼくは当時はデザイン会社に務めていましたから。昼間は会社へ出勤し、夜にマンガを描くという生活をしていました。じつは当時、『漫画少年』ではいろいろと仕事をさせてもらいましたけど、ぼくは一度も原稿料をもらっていなかったんですよ」
ええーっ、本当ですか?
「『漫画少年』は、ぼくがトキワ荘へ入って間もなく休刊になってしまいましたから(黒沢注:漫画少年の廃刊は昭和30年10月)」
それは辛いですね〜!
「でもぼくは『漫画少年』のおかげで手塚先生を始めとした多くのマンガ家仲間と知り合うことが出来ましたし、トキワ荘に入ったのも『漫画少年』の縁がきっかけですから」
お金には代えられない大切なものをもらったということですね。
「その通りです」
トキワ荘での生活はどうでしたか?
「それはもう楽しかったですよ。当時、マンガの話ができる人なんて、ほとんどいなかったですから。それがトキワ荘へ入ったら周りがマンガ好きばかりなんですからね。
月に1回、誰かの部屋へ集まって会合を開くんですが、そのときは、ふだん静かな藤本氏(黒沢注:藤子・F・不二雄先生)が誰かにいたずらを仕掛けたりしましてね、いつも盛り上がっていました。
手塚先生と最初に会ったのはいつ、どこでですか?
「じつは手塚先生とは、トキワ荘時代には一度もお目にかかっていないんです。
最初にご挨拶させていただいたのは、昭和33年4月に池袋の三越で東京児童漫画会(通称=児漫長屋)の展覧会「こども漫画まつり」が開催された時ですね。手塚先生もそこに作品を出されていて、そこでお話をさせていただいたのが最初です」
手塚先生との思い出で、何か印象に残っているお話はありますか?
「時代はトキワ荘からずっと後のことになりますが、1978年の暮れに手塚先生に誘われて、アメリカのディズニースタジオなどを訪ねたことですね。
これには前段となるエピソードがありましてね、1978年の夏に東宝が市川崑監督の実写映画で『火の鳥』を公開しましたが、この映画のアニメパートをぼくがやらせていただいたんです。
市川崑監督は、当初、この部分を手塚先生に監修してもらう予定で、手塚先生も実際に絵コンテまで描かれたんです。
でもいつもの手塚先生のことですので、描いているうちにイメージがどんどんふくらんでしまいましてね、そのままでは実写本編と話がまったくつながらない展開になっていたんです。
だけどもう手直しする時間はないということで、急きょ、ぼくのところへ話が持ち込まれたんですよ」
「それで、映画が無事に公開された後、手塚先生がお礼のおつもりだったんでしょう、一緒にアメリカ旅行に行かないか、と誘ってくださったんです」
旅行はどうでしたか?
「もう夢のようでしたよ。ディズニーアニメはぼくがアニメーションを志した原点ですし、そこへ手塚先生と一緒に行けたんですからね。ディズニー・スタジオには“ナイン・オールド・メン”と呼ばれた9人の伝説のアニメーターがいるんですが、そのうちのひとりであるウォード・キンボール氏のお宅にもおじゃましました」
旅行中、手塚先生とはどんな話をされたんですか。
「ずっとアニメとマンガの話ばかりしてましたね。例えばぼくがウォルト・ディズニーの『白雪姫』を40回観たという話をすると、手塚先生は負けず嫌いですから、すぐさま「ぼくなんか『バンビ』を80回も観ましたよ」と切り返してくるんです(笑)
ちょうどそのときの思い出を、つい先日出た『キネマ旬報』で語っていますので、よかったら読んでみてください」
分かりました、ぜひ買わせていただきます!!
すっかり話し込んでしまい、喫茶店を出るとあたりにはすでに薄紫色の夕暮れが迫っていた。
「ひさびさに「松葉」のラーメンを食べて帰ります」とおっしゃる鈴木先生に、ぼくと小出さんももちろん同行させていただき、ここでもラーメンを食べ、餃子をつまみながら、ひとしきりトキワ荘と手塚先生の話で盛り上がった。
鈴木先生が小出さんに対し、
「街おこしやマンガ文化の発展に役立つのなら、ぼくの描いた絵は自由に使っていただいていいですよ」
と言っておられたのが印象的だった。
手塚先生がトキワ荘に部屋を借りたのはたまたまだったかも知れない。だけどそこに芽吹いた小さな芽は、今、大木となってすくすくと育っている。
われわれ虫さんぽ隊は、落合南長崎駅前で解散となった。階段を降りる際、ふとトキワ荘の方を振り返ってみたけど、高い建物にさえぎられ、いったいどっちの方角だったのかも、もう分からなくなっていた。
ついさっきまで鈴木先生と歩いたトキワ荘通りでの出来事が、まるで夢のようにも感じられた。
鈴木先生、小出さん、長時間の散歩におつきあいくださいましてありがとうございます。最後まで読んでくださった読者の皆さんにも心からの感謝を込めて、ぜひまた次回の散歩でご一緒いたしましょう!!