学童・生徒・学生の皆さんはただいま夏休み真っ盛り! いいなぁ!! ということで暇を持てあましておられる手塚ファンの皆さんのため(?)、虫さんぽは今月と来月の2回にわたって大阪遠征編をお届けしま〜す! 前編の今回は、手塚治虫先生が産んだ“ある人気キャラ”のルーツをたどり、続いて幼い手塚少年の科学する心に火を灯した“ある施設”を訪れます。今回はどんな発見と驚きが待ち受けているのでしょうか。ほな、さっそくいきまひょかー(ニセ大阪弁)。
さあやって参りました大阪駅! うおお〜〜〜っ、屋根がめちゃくちゃ巨大だぜ〜〜〜っ!!
さてここ大阪は2011年の夏に一度訪れていて、そのときは手塚治虫先生が戦時中から戦後にかけて勉学に励んだ大学の跡地を訪ねたり、先生のマンガ家としての出発点となった駄菓子問屋街・松屋町を訪ねたりした。
・虫さんぽ 第16回:【夏休み関西さんぽ・前編】大阪界隈:医大生時代の手塚先生の足跡を歩く!
しかし手塚先生が昭和27年に上京して東京に仕事場を構えるまでは、先生の活動拠点は何と言っても大阪だったのだ。1回の散歩ではとても紹介しきれるわけがない!
そこで今回は前後編に分けて、まだ紹介していなかった手塚スポットをじっくりと歩いてみようと思います。手塚先生とゆかりのある方々にお会いして貴重な証言もたくさんうかがってきましたので、そちらもお楽しみに! いざ出発だっ!!
あれっ? うわしまった、駅が広すぎていきなり道に迷ってしまった。済みませーん、地下鉄梅田駅はどっちですかー?
ということで人に教えてもらい、大阪市営地下鉄・御堂筋線に乗ってひと駅目、淀屋橋駅へと向かう。歩いてもわずか1kmほどなのでたいした時間はかからないんだけど、今日はこれからかなり歩くから、まずは体力を温存しておくことにしたのだ。
淀屋橋駅で下車したら10番出口から地上へ出てオフィスビルにはさまれた一方通行路を逆走する形で西へと向かう。すると駅からおよそ1分ほどで右手に老舗の風格を漂わせた和菓子屋さんが見えてきた。
今回の虫さんぽ最初の手塚スポットがここ「御菓子司 鶴屋八幡」なのである。
甘い物、とくに和菓子とチョコレートが大好きだった手塚先生だけど、このお店と手塚先生とのご縁はそれだけではない。
じつはこの老舗を経営する一族のおひとりだった今中宏さんという方が、手塚先生と旧制北野中学校時代の同級生で、しかも手塚先生の産んだ名キャラクター・ヒゲオヤジの誕生に大きく関わっていたというのだ!!
いったいどういうことなのか!? 手塚先生のエッセイからその部分を引用しよう。
「ヒゲオヤジは、ぼくにとって肉親同様である。かれは神田の生まれで、
ぼくの中学時代に
今回、電話でお店におじゃましたいと相談したところ、ご快諾くださり、何と今中宏さんのご子息から直接お話をうかがえることとなった!
「鶴屋八幡」は、お店のホームページによれば元禄15年(1702年)創業の「虎屋伊織」がその前身で、およそ300年の歴史があるという。そして現在はここ大阪本店のほか東京の麹町にも支店をかまえ、大手百貨店にもお店を出しているという名店中の名店なのだ。
ぼくのいつものジーンズに綿シャツというラフな格好だと入るのにかなりためらうが、そこは勇気を出して突入! 店員さんに来意を告げると、間もなくして奥から、今中宏さんのご子息で、株式会社鶴屋八幡 常務取締役をされている今中秋津麿(いまなか あきつ)さん(54歳)がいらっしゃった。
秋津麿さんはこの日の朝まで関東方面に出張に出かけていたが、この取材のためにわざわざ急ぎ大阪へ戻ってきてくださったのだった。
秋津麿さん、はじめまして、今日はありがとうございます!! さっそくですが、秋津麿さんは、お父様の宏さんと手塚先生がご友人同士でヒゲオヤジの誕生に深く関わっていたということはご存知でしたか?
「はい。父は平成9年に亡くなったんですが、生前、その話は聞いたことがありますね」
どんな風にお聞きしていたんでしょう。
「手塚先生がエッセイに書かれていたそのままの内容ですよ。ヒゲオヤジの元になったのは父が描いた祖父(私にとっては曾祖父になりますが)の似顔絵だったという話です。当時もっと詳しく聞いておけば良かったんですが、残念ながら、それ以上のことは記憶にないんです」
宏さんのおじいさんというのはどんな方だったんでしょう。名前は“伴俊作(ヒゲオヤジの本名)”ですか?
「いえいえ違います(笑)。名前を“今中久吉”と言いましてね、父から聞いた話では、とてもガンコで恐い人だったということです。曾祖父は“和菓子の達人”と呼ばれた職人でしたから、仕事にこだわりとプライドを持って打ちこんでいると、必然的にガンコにもなっていたんではないでしょうか」
宏さんと手塚先生の交流というのはどのようなものだったんでしょうか。
「父も手塚先生と同様に子どものころから昆虫採集を趣味にしておりましたので、恐らくそれで気が合ったんでしょう。戦時中に『昆蟲の世界』というガリ版刷りの同人誌を一緒に作ったりしていました」
ああ、ちょうど手元にそのコピーがあります。昭和18年11月発行の『昆蟲の世界』第3号では、手塚先生と宏さんを含む昆虫仲間が座談会を行っているようです。その一部を紹介してみますね。
記者「話は變りますが、皆様は東京の平山博物館へ行かれましたか?」
一同「ハイ」
記者「どんな様子でしたか?」
手塚「きたないでした」
辻「まっ赤でした」
今中「ピュー」(中略)
記者「何がいちばん目立ってゐましたか?」
小山内「家です」
辻「ふんどしとこしまき」
今中「ハンメウ(黒沢注:ハンミョウのこと)です」(中略)
記者「平山さんに會はれたでせうね」
一同「ハイ」
記者「平山さんはどんな人ですか」
今中「あかん人です」林「良い人だと思ひます」
小山内「まづしい人です」(中略)
手塚「出来たてのブヨブヨの人でした」(中略)」
何とも要領を得ない会話ですが、楽しげな様子だけは十分に伝わってきます(笑)。ところで手塚先生と宏さんとの交流はいつごろまで続いていたんでしょうか。
「ご存知のように手塚先生は中学を出てから大阪大学の医学専門部に進学し、やがてマンガ家の道へ進まれましたから、中学卒業以降はほとんど交流はなかったと思います。ただ父は、それ以後もずっと昆虫採集を続けていましたし、中学時代に手塚先生からもらった昆虫標本や昆虫の絵をずっと大切に保管しておりましたからね。そういった意味ではお互いに心の交流はずっと続いていたんだと思いますよ」
秋津麿さん、本日はとても貴重なお話ありがとうございました!! 最後に今中宏さんのことを語っている手塚先生のエッセイをもうひとつ紹介して失礼したいと思います!!
「クラスに今中という子がいた。やせて、色がまっ黒で、これがオサムシはじめ、虫をメチャクチャ集めていたので、なんとはなしに友だちになった。
今中くんは、有名なお菓子屋の鶴屋八幡という店のむすこだった。店には、行ったことがないが、今中くんのおじいさんは偉人伝中の人なんだそうだ。ところが、今中くんにとっては、相当、けむったいおじいさんだったらしい。
今中くんは、おじいさんの、カッカしたときの似顔はこうだと、描いてみせてくれた。ヒゲがおっ立って、
いつとはなしに、その顔の
ヒゲオヤジはこうして生まれたのである。
何十年も、ボクの友だちで、ボクを励ましてくれ、慰めてくれ、読者を喜ばせてくれたヒゲオヤジ。彼の生みの親の今中くんに、一度会ってお礼をいいたいのだが、なかなか会えないので、せいぜい鶴屋八幡のヨウカンを買って食べることで感謝のしるしとしている」(講談社版手塚治虫全集『手塚治虫エッセイ集6』「わが想い出の記」より。※初出は1965年、鈴木出版刊『0マン』第5巻あとがき)
最初の訪問地でずいぶんと長居をしてしまった。しかし散歩はまだ始まったばかりである。続いて四つ橋筋をぶらぶらと南下し、向かったのは四ツ橋交差点の角だ。戦前の昭和12年(1937年)、この交差点の北東角に「大阪市立電気科学館」という施設がオープンした。
この施設の目玉は、東洋で初めて設置されたプラネタリウムだった。
手塚少年がこの施設を訪れたのは、小学校の同級生・石原実氏に誘われ、石原氏の父親に連れられて行ったのが最初だったという。その時の様子を、後年のエッセイから紹介しよう。
「その彼(黒沢注:石原実氏のこと)が、ぼくを四ツ橋の電気科学館へ誘ったのは、開館して間もないころであった。建ったばかりのピッカピカのビルが遠くから見えた記憶がある。(中略)東洋で最初のプラネタリウムという宣伝に心がときめき、なにか巨大な恐竜みたいな怪物を思い浮かべながら入っていった」(講談社版手塚治虫全集『手塚治虫エッセイ集6』「懐かしのプラネタリウム」より。※初出は『月刊うちゅう』1985年7月号)
このエッセイでは、そのあと館内へ入った手塚少年が好奇心全開で見るもの聞くものすべてにいちいち驚いたり感動したりした様子が生き生きと綴られている。そして手塚少年が最も衝撃を受けたのが、プラネタリウム投影機そのもののメカニカルなデザインだった。以下、再び同エッセイから引用しよう。
「ホールへ入ったときの印象は、強烈だった。あの鉄亜鈴の奇怪な姿は目に焼きついて、後年、マンガの仕事のうえでも、しばしばイメージを流用させてもらったくらいである。いま考えると、あのデザインはたしかにライカやコンタックスの新型カメラに通じるかっこよさで、ナチスドイツの工学技術の粋であった」
電気科学館は1989年に建物の老朽化のために閉館し、新たに大阪市立科学館となって中之島にリニューアルオープンした。現在、この四ツ橋の跡地には「ホワイトドームプラザ」という複合商業施設が建っている。このビルは電気科学館とは何の関係もないんだけど、交差点に面した角にアールを持たせた外観や、屋上にプラネタリウムのドームを連想させる丸屋根があるところなど、多分に電気科学館を意識したデザインになっているところが心憎い。
ちなみに手塚先生は、その電気科学館屋上のドーム屋根にも思い出があり、エッセイの続きでこう書いている。
「プラネタリウムを観たあとは、ときおり、屋上へ登った。ドームが半円形に屋上に膨れあがって、それを地球の北半球にしつらえてあった。腕白たちは、なんとか北極までよじ登ろうと試みた。下のほうは傾斜が急で、ぼくにはほとんど登れない
今回、電気科学館で当時販売されていたものと思われる、このドーム屋根の写真絵はがきが入手できたので紹介しよう。うーん、このドームは子どもなら確かに登りたくなりますね!
歩き疲れたのでここらで少しお茶でも飲んで休憩を。四ツ橋交差点から長堀通を西へ100mほど歩き、右折して商店街をちょこっと入ったところにコーヒー屋さんらしきお店を発見した。ここにしよう。
「福田珈琲株式会社」とあるけど喫茶店じゃなくて会社なのかな? なーんてもったいぶっててもしょうがないんでネタばらしをしちゃいます。じつはここが本日3ヵ所目の手塚スポットなのである。
「ごめんください!!」
「いらっしゃいませ、虫さんぽの黒沢さんですね」
事前におじゃますることをお伝えしてあったので、社長の福田正文さんが笑顔で出迎えてくださった。
店内の至るところに赤い頭巾をかぶったかわいい女の子のキャラクターの絵が飾られている。じつはこのお店のマスコットキャラクター「マコちゃん」のデザインは手塚先生が手がけたものなのだ。福田さん、これにはどういういきさつがあったんでしょうか?
「当社は昭和26年(1951年)に私の父の福田規雄がコーヒー焙煎加工販売業として大阪で創業いたしました。
『珈琲は黒い魔女』という一風変わったブランド名も父のアイデアなんですが、使いはじめたのは東京オリンピックの前ごろからですね。それからしばらくして東京オリンピックで日本のバレーボールチームが“東洋の魔女”と呼ばれて大活躍して、うちの商品にも大いに注目が集まりました。
父は旧制北野中学校の出身で、学年は違いましたけど手塚先生の同窓生だったんです。北野中学には六稜会(りくりょうかい)という同窓生の集まりがありましてね。もう30年以上前になりますが、そうした何かの集まりの際に、父が手塚先生と同席する機会があって、そこで「魔女のマスコットキャラクターを作っていただけませんか?」とお願いしたんだそうです」
手塚先生はすぐにOKされたんですか?
「“やりましょう”とふたつ返事で引き受けてくださったそうです。しかし手塚先生はお忙しい方ですから、父も簡単なもので十分だと思っていたところ、しばらくして手塚先生からデザイン画が送られてきてびっくりしたそうです」
ど、どうしたんですか?
「マスコットキャラクターの絵が何と30点くらい届いたんです」
うわあ、それはすごいですね!!
「ただし中にはどう考えてもマスコットには使えないだろうというセクシーな魔女の絵などもありましたけどね(笑)。
そんな中に今のマコちゃんの絵があって、これでいこうということになったんです」
正文さんはその絵をご覧になったんですか?
「もちろん見ましたよ。今も会社のどこかに保管してあるはずなので、黒沢さんが来られると聞いて探したんですが、見つからなくて……。出てきたらまたお知らせします」
ぜひお願いします、大阪まで飛んできますから!! とくにそのセクシーな魔女の絵を見たいので!!
マコちゃんについてのインタビューの後、福田さんにはこだわりのコーヒー焙煎装置を見学させていただき、さらに試行錯誤の末に完成させたという1年間保存可能な完全真空パックについても話をうかがった。
「うちで扱うコーヒーは超高級なプレミアムコーヒーではありません。名前のある農園で作られたコーヒーを注文を受けてから焙煎してお出しする。それなら美味しくてあたりまえです。だけどうちでは手ごろな価格でより多くの方に美味しいコーヒーを味わっていただきたいと考えていますから、そのためにはコーヒー豆の鮮度が命なんです。
それでうちでは父の時代から長期保存のきく真空パックの開発に心血を注いできました。これからもマコちゃんのキャラクターに恥じない、安くて美味しいコーヒーを皆さんにお届けしていきたいですね」
福田さん、ありがとうございました!!
豊かなコーヒーの味と香りに包まれて疲れもすっきり取れたところで福田珈琲を後にして、なにわ筋をふたたび北上。橋を渡って中之島に入ると、右手に円柱形の未来的な建物が見えてきた。「大阪市立科学館」だ。
1989年5月に閉館した大阪市立電気科学館の後継施設として同年10月にオープンした。
地下1階、地上4階の建物の中には、実際に見て触って学べる体験型・参加型を中心とした200以上のアイテムが展示されている。また地下1階には大阪市立電気科学館時代の目玉だったプラネタリウムが、ここでも最新機器で来館者を楽しませているのである。
それにしても虫さんぽでここを訪ねた理由は何なのか? じつは先ほど訪ねた大阪市立電気科学館にかつてあった「あるもの」がここに展示されているのである。もったいぶらずに答えを言っちゃいましょう。その「あるもの」とは、かつて手塚少年がその威容に衝撃を受けたドイツのカール・ツァイス社製プラネタリウム投影機本体そのものなのである。
建物の入口で広報スタッフの方に出迎えていただき、その方の案内でさっそく電気科学館にあったプラネタリウム投影機を見学させていただいた。
旧・電気科学館のプラネタリウム投影機が展示されているのは地下1階のプラネタリウムホール前である。プラネタリウムや展示室へ入るにはそれぞれ観覧料が必要だけど、投影機の置かれている場所はホールの手前なので無料で見学できる。
うおお、この重厚感には圧倒されます! 間近で見るプラネタリウムはつや消しの黒で塗装され、鈍く輝く鋼鉄の塊で、まるで機関車のようだ。だけどその巨大さとは不釣り合いなくらいの細部の精巧さは機関車のそれとくらぶべくもない。
手塚先生はこの装置をドイツの精密な高級カメラにたとえたけど、ぼくは子供のころに東京の科学博物館で見た初期の宇宙ロケットや人工衛星を連想した。かっこよくデザインしようとしてこの形になったわけではない。必要な機能を集約した結果この形になった。プラネタリウムも宇宙船や人工衛星と同様、機能美の塊と呼ぶにふさわしいマシンだったのである。
手が届くような目の前で見られるので、現代の若者にも、かつて手塚先生が受けた感動の断片くらいは味わっていただけるのではないでしょうか。
続いて新旧プラネタリウムについてお話を聞かせていただいたのは、同館主任学芸員で天文担当の嘉数次人(かず つぐと)さん(49歳)である。
初めまして。嘉数さんはどういうきっかけでこちらで学芸員をやられるようになったんでしょうか。
「私も手塚先生と同じです。子どものころから星が好きで、四ツ橋の大阪市立電気科学館のプラネタリウムに魅せられましてね、20代の前半までお客として通い詰めていました」
子どものころからの憧れがそのまま仕事になってしまったんですね。
「そういうことです(笑)」
先ほど旧・電気科学館にあった昔のプラネタリウムを見せていただきましたが、最新のプラネタリウムは前の機械とどこが違うんでしょうか。
「もう表現力が圧倒的に違いますね。くっきりとシャープな星空を再現できること、すべての恒星がまたたくこと、天の川を35万個の星として表現できることなど、限りなく本物に近い星空を再現することが可能になりました」
昔の機械とくらべて装置の形がものすごくシンプルでスマートになっていますが、メンテナンスも楽になったんでしょうか?
「歯車などの機械的な部分は少なくなって機械的なトラブルはほとんどなくなりました。しかし新しい機械はコンピュータで制御していますからね。プログラムの調整などが必要で、昔の装置とはまた別の大変さがありますね」
解説はスタッフの方が生でやられているんですね。
「そこは四ツ橋の電気科学館の時代からずっと変わっていません。その場の流れで最新の話題を入れたり、ジョークを交えたり、担当者ごとの個性も楽しんでいただけたらと思っています」
お客さんから質問されたりしますか?
「時々熱心な方はいらっしゃいますね。われわれは専門家ですから、疑問に思ったことがあったら大人でも子どもでもどんどん質問していただければと思います。大学はそこの学生にならなければ勉強できませんが、科学館はどなたでも学べる施設ですから」
なるほど、幼いころにここで受けた感動が原体験となってマンガ家になったり、星の専門家になったりする人がこれからも出てくるといいですね!
「私もそう願っています!!」
嘉数さん、本日はありがとうございました!!
さてそろそろ日も傾いてきましたが、今回の大阪さんぽはまだこれで半分です。続きはまた来月お届けしたいと思います。今回も最後までおつきあいくださってありがとうございました。お疲れさまでした。来月もここ大阪でお会いいたしましょう!! ほなサイナラ(ニセ大阪弁)。