今回は東京の西、武蔵野市と三鷹市にまたがる井の頭公園周辺を歩きます。ここは作家・
今回の散歩の出発点はJR中央線
じゃあ手塚治虫先生と独歩の『武蔵野』の関係は? まずはそこからご紹介いたしましょう。
昭和28年に発表された手塚先生の『鉄腕アトム』「赤いネコの巻」はこんなプロローグから始まる──。
ヒゲオヤジ先生が2000年の大都会東京を散歩しながら、読者に國木田独歩の『武蔵野』の一節を紹介している。内容は武蔵野の自然の美しさを讃えた美しい文章である。ところがヒゲオヤジ先生が実際に歩いている東京には高層ビルがひしめき合い、自動車が激しく行き交い、工事現場からはけたたましい騒音が聞こえている。
「あーあ……世の中も変わったものじゃわい」
ヒゲオヤジ先生はそう嘆く。
物語はこの後、Y教授というマッドサイエンティストが登場して大きく動き出す。Y教授は武蔵野の自然を偏愛しており、人間によってそれが破壊されることに強く憤っていた。そして自ら“赤いネコ”と名乗り、動物たちを操って人間社会に復讐を企てる!
昭和28年といえば日本中が敗戦の痛手から立ち直ろうと必死になっている時代だった。そんな時代に自然を守れなどと主張する人はほとんどおらず、開発は日本が近代化へと向かうこととイコールであり、まさに未来への希望だった。そんな時代に手塚先生がこんな作品を描いていたということに今さらながら驚きます。
それからアトムのこのエピソードで独歩の『武蔵野』に興味を持って、初めて読んでみたっていう人も多いんじゃないでしょうか。ぼくもまさにそんなひとりでした。読みましたよ、新潮文庫の『武蔵野』を買って!
独歩の随筆『武蔵野』は、元は明治31年(1898年)に雑誌『
自然主義文学の先駆とされるその文章は繊細で瑞々しく、武蔵野の雑木林の美しさ、川のせせらぎ、鳥たちの声、そしてそこに暮らす人びとの素朴な横顔などが生き生きと描かれている。
『鉄腕アトム』の中でヒゲオヤジ先生が紹介している文章には独歩の元の文章からアレンジが加えられているけど、引用元は『武蔵野』の第五章あたりになる。独歩の文章はもちろん素晴らしいけど、ヒゲオヤジ先生版の『武蔵野』もこれまた絶妙の名文なので、お時間があったら、ぜひ皆さん読みくらべてみてください。
独歩が『武蔵野』の中で武蔵境駅からの散歩について書いているのは、ヒゲオヤジ先生が詠んだ第五章の次の第六章だ。ここで独歩は「ある友」と一緒に、当時は甲武鉄道の駅だった「境駅」を降りて散歩をした思い出を綴っている。この境駅というのが現在のJR武蔵野線・武蔵境駅である。
それじゃあぼくらも駅前から独歩の歩いた道を同じように北へ向かって歩き出そう。駅前から北へのびる商店街の道は「独歩通り」と名付けられている。特に何かがあるわけじゃないけど(笑)。
その独歩通りはほんの200メートルほどで終わり「武蔵境通り」という少し幅の広い通りへ合流する。それをさらに500メートルほど北上してたどり着いたのが、玉川上水にかかる桜橋という橋だ。
この橋は、明治22年に甲武鉄道が開通した際に、境駅から田無へと至る道が開かれてそこに架けられた橋だという。その後、平成11年に武蔵境通りの拡幅にともなって新しい橋に架け替えられたが、橋の親柱は古い橋のものがそのまま使われたということなので、それだけは、かつて独歩が歩いたときそのままということだ。
それにしてもここまで来ると一気に緑が増えてくる。上水沿いには未舗装の道などもあって、まさに武蔵野といった雰囲気だ。「赤いネコ」のプロローグでヒゲオヤジ先生がビル街の喧噪を抜けて、タマオくんたちがメンコ遊びをしている山の手にやってきたときの、まさにあの感じかも!
独歩が歩いた当時はこの橋のたもとにお婆さんがひとりでやっている茶屋があって、独歩と「友」はそこで休憩を取り、“まくわうり”を食べた。今はその茶屋はないけど、橋のたもとには『武蔵野』の文章を刻んだ石碑が建っている。
またこの少し上流には昭和44年に架けられたという「独歩橋」という橋もあるので、ついでにチェックしてみよう。
そしてここからは、穏やかな木漏れ日を浴びながら玉川上水沿いをそぞろ歩いて下流方面へと向かいます。
肌をなでる乾いた秋の風と靴底で感じる落葉を踏むサクサクという感触が何とも心地よい。そういえば「赤いネコ」のエンディングも枯れ葉散る秋の武蔵野が舞台だったっけ。狙ってこの時期にここをテーマにしたわけじゃなかったんだけど、結果的には「赤いネコ」散歩に最高の季節となりました!!
この玉川上水は、中央線と交わる三鷹駅近くでいったん暗渠になって流れが地下に潜ってしまうが、駅を過ぎると再び川面が顔を出す。
ちょうどそのあたりの上水沿いに建っているのが「山本有三記念館」だ。かつて作家・山本有三の私邸だった建物が現在は記念館として一般公開されている。
だけどなぜそこを虫さんぽで紹介するのか!? それはこの建物が大正15年に建築された洋館ということで「赤いネコ」に出てくるY教授の怪しいお屋敷とそっくりなんじゃないかナ〜と思って。でももしかして山本先生はあの壊れかけたオンボロ屋敷とこの豪邸をくらべたらお怒りになられるだろうか。いやむしろ手塚ファンだったら大喜びすることだし問題なしでしょう(笑)。
ちなみに記念館への入館は有料だけど庭園までは無料で入れるから建物を外から眺めるだけならただでOK。ただしぼくが散歩をした日は連休の振り替えで臨時休館だったために入り口の門は固く閉ざされていた。ああ何という不運! っていうか山本先生、やっぱり怒ってらっしゃる!? うわーん、ゴメンナサイ!!
ということで、ここで『鉄腕アトム』の「赤いネコ」と國木田独歩の『武蔵野』を振り返る散歩は終わりです。
続いてぼくが向かったのは京王井の頭線の「井の頭公園駅」だ。ここは大都市・吉祥寺のひとつ手前の駅にもかかわらず緑豊かで静かな駅である。改札を出ると小さな駅前広場があって目の前がすぐに井の頭公園の入り口になっている。このひっそりとしたのどかな感じは、まるで千葉か茨城あたりのローカル線の駅にでも来たような印象だ。でもぼくは単なるローカル線の旅に来たわけではない。もちろんここも重要な手塚スポットなのである。
それは手塚先生が1951年に発表した初期SF作品『来るべき世界・前編』の冒頭の場面だ。ヒゲオヤジが東京駅で怪しいカバンを持った謎の男を発見し、それを尾行する。すると男は京王線に乗り換えて、ここ井の頭公園駅で下車するのだ!
その後、降り出した雨の中を男が向かった先は「理学博士・山田野加賀士」という表札が掲げられた洋館だった。そう、男は誰あろう山田野博士本人であり、カバンの中には博士が馬蹄島で捕えた謎の生物が入っていたのである!!
物語はそこからどんどんと加速して、やがて全世界を巻き込んだ一大スペクタクルへと発展していくわけだけど、その発端がまさにこの場所、井の頭公園駅とそこにあった(という設定の)山田野博士邸だったのである。そう思ってホームに立つと、何でもないこの風景もたちまち手塚マンガの世界に見えてきませんか?
ところで、少々マニアックな話になるけど、この不二書房版『来るべき世界・前編』のプロローグには2つのバージョンが存在する。というのは刊行後に手塚先生が「話が分かりにくい」と感じ、再版を出す際に冒頭の24ページを丸々描き直してしまったからだ。手塚先生の描き直しぐせ(?)はすでにこのころから始まっていたんですね(笑)。
ということで、最初に刊行されたバージョンの冒頭には、この井の頭公園駅のシーンはなく、いきなり嵐の山田野博士邸の場面から話が始まっている。
講談社版の手塚全集には描き変え後のバージョンのみが収録されているが、先日小学館クリエイティブから刊行された『手塚治虫SF3部作完全復刻版と創作ノート』には、描き変え前と描き変え後の2つのバージョンがそれぞれ別の本として2冊とも復刻収録されている。興味のある方は、ぜひ手に取って2冊並べて読みくらべてみていただきたい。こうしたところからも手塚先生のこの作品への熱いこだわりが見えてくるはずだ。
それにしても手塚先生はここでなぜ山田野博士邸を井の頭にあるという設定にしたのだろう。ぼくはそれは、かつてここに手塚先生にとっての、ある「聖地」があったからではないかと推理している。
その「聖地」とはいったいどんな場所なのか!? さっそくそこへ向かってみましょう!!
井の頭公園駅から住宅街の中の路地をジグザグに歩くことおよそ10分、着いたのは「井の頭地区公会堂」という建物だ。
ここにはかつて「平山昆虫博物館」という私設の博物館があった。そしてその館長・平山修次郎氏は、昆虫マニアだった手塚先生が少年時代に神のごとく尊敬していた人物だったのだ。
手塚少年が自分の本名の「治」に「虫」という一字を加え、ペンネームを「治虫(オサムシ)」と決めたのは小学校5年生のときだったという。そのきっかけとなったのが、平山修次郎の著書『原色千種昆虫図譜』だった。以下、手塚先生の文章を引用しよう。
「平山修次郎という人のコレクションを並べた『原色昆虫図譜』という本が、ほしくてたまらなかった。やっと借りてかえって、フーン、日本にはこんなにたくさん虫がいたのか、日本は広いなァ、とうなったり、目をパチパチさせたりした。カブト虫の一種に、オサムシというのが描いてあったので、ザシキをころげまわって喜んだ。ボクは、きょうからテズカオサムシと改名する、と決心した」(講談社版全集第395巻『手塚治虫エッセイ集』第6巻「わが想い出の記」より。※初出は『おれは猿飛だ(1)』1952年鈴木出版刊)
手塚少年の平山修次郎への思いはいよいよ募った。三度の食事を一度にしてもいいくらい昆虫に夢中になり、『原色千種昆虫図譜』は手塚少年のバイブルとなった。特に手塚少年はそこに載っていた“フトオアゲハ”という蝶に魅せられたという。再び手塚先生の文章から。
「“フトオアゲハ”というのは、戦前の昆虫マニアにとっては“まぼろしのチョウ”なのである。世界でもその完全標本はほとんどない。(略)当時、このチョウを持っている人間は英雄であり、先にあげた平山修次郎氏などは、ぼくらにとって、神みたいな存在であった」(講談社版全集第383巻『手塚治虫エッセイ集』第1巻より)
そして手塚少年は、ついに宝塚から、ここ井の頭公園の平山昆虫博物館を訪ねる決心をする。
「ぼくは、この“フトオアゲハ”と平山氏のご尊顔を拝するために、ある年、わざわざ上京したことがある。井の頭公園のすみに、昆虫ばかりを展示したささやかな“平山博物館”という建物があり、そこを汗だくでたずねあてたら、平山氏はフンドシひとつで、せっせと自家農園をたがやしていた。ぼくはその平山氏に、ただ恐懼感激して、最敬礼してくにへ帰ってきたものだ」(前出『手塚治虫エッセイ集』第1巻より)
藤子不二雄A氏の『まんが道』には主人公の満賀道雄と才野茂(藤子不二雄Aと藤子・F・不二雄がモデル)が、富山県の高岡市から手塚先生に会いに、はるばる宝塚へやってくる場面がある。しかしふたりは仕事に打ちこむ手塚先生の姿に感激し、ろくに話もせずにただただ感動だけを胸に帰途につくのである。このシーンは『まんが道』の前半のひとつの山場になっているんだけど、手塚先生にもそれと同じようなエピソードがあったんですね!!
というわけで、ぼくは今「平山昆虫博物館」のあった場所の前に立っている。と、こうやって書くと簡単にここへたどり着いたように聞こえるけど、実はここは小さな商店が並んだ細い路地の途中にあって、うっかりすると行き過ぎてしまうような場所なのだ。手塚先生も「汗だくでたずねあてた」と書いているのでかなり迷ったのだろう。
ただ、この建物の斜め向いに井の頭公園の弁天様へと通じる参道があって、そこに地元の人が「黒門」と呼んでいる門が建っている。だから道に迷ったら地元の人に「黒門はどこですか?」と聞けばすぐに教えてもらえるはずだ。
さて、では平山昆虫博物館とはどんなところだったのだろうか。地元の人に聞き込みをしたところ、昔からこの町に住まわれている方にとってはけっこう知られた場所だったようだ。「ああ、平山修次郎さんの博物館でしょ」という感じで、お年寄りの口から平山修次郎という名前がパッと出てくるところからもそれが良くわかる。
そして黒門のすぐ近くで花壇の手入れをされていた男性に声をかけたところ、その方が館内の様子を記憶されていた。お名前を笠原久雄さん(86)という。笠原さんは戦前からずっとこの町に住んでおられるという。
「もう大昔のことだからほとんど忘れちゃったけどねー、子供のころに何回か入ったことがありますよ。世界中の昆虫の標本が展示されててね、チョウとかカブト虫とか。ちょっと薄暗くて子どもには怖い感じのする場所だったんだ。病院みたいな感じっていうのかな。あと、博物館の2階でたまに映画を上映してましてね。戦後だと原爆の映画とか、そういう記録映画ですね。それも何度か見に行きましたよ」
博物館が閉館したのはいつごろなんですか?
「えーと、いつだったかなぁ……昭和30年ごろじゃないかなぁ……」
さらに笠原さんにここで驚くべきことを教えていただいた。
「実はね、平山修次郎さんの娘さんがまだご健在ですぐこの近くに住んでおられるんですよ。もうかなりのご高齢だけどお元気なおばあちゃんで、とってもいい方です。ぜひ会って取材してみるといいですよ」
そ、それは本当ですか!? ということでその方のお宅も教えていただだいたんだけど、残念ながら今回の取材はかなわなかった。ぜひまた機会をあらためて再訪してみたいと思います。
続いてさらなる情報はないか、井の頭地区公会堂の受付にいた方に平山昆虫博物館のことを聞いてみた。応対してくれたのは若い女性だったので古いことはご存知なかったが、『井の頭町会創立五十周年記念誌』という2005年刊行の資料を見せてくださった。
するとそこに掲載されていた年表にこんな記述が!
「昭和31年8月〜 ◇井の頭地区に“公民館建設を”といった声が高まってくる
昭和32年4月 ◇平山家より、旧平山博物館を町会に譲っても良いとの申し出があり、町会総会で譲り受けることを決定
同 6月2日 ◇井の頭文化会館と命名し、一般町会員に開放」
この井の頭文化会館というのが現在の井の頭地区公会堂のことだ。同『記念誌』によれば、文化会館になってからもしばらくは昆虫博物館当時の建物を使用していたという。
そっかー、そういう経緯でここが地区公会堂になってるのか。また先ほどお聞きした笠原さんのお話の、博物館が昭和30年ごろまでここにあったというお話ともぴったりと符合しますね。
ぼくも手塚先生に倣い、博物館のあった方向を向いて最敬礼をし、この場所を後にした。
いよいよ今回の散歩の最後の目的地へと向かいます。そこは「諏訪クワガタ昆虫館」という私設博物館だ。そうなのだ、かつて平山昆虫博物館があったところの目と鼻の先に、現在、再び私設の昆虫博物館が建っているのである。
場所は三鷹の森ジブリ美術館の斜め前という非常に分かりやすい場所だから、こちらは迷わずたどり着くことができた。
それにしても、ここは平山昆虫博物館と何か関係があるのだろうか。さっそく「諏訪クワガタ昆虫館」のオーナー館長である
「実はよく聞かれるんですが、うちは平山昆虫博物館とは何の関係もないんですよ。近くにそういう博物館があったということも、ここへ来てから初めてお客さんに教えていただいたんです(笑)」
清水さんによれば、元々諏訪クワガタ昆虫館は、その名の通り長野県の諏訪市にあったという。
「出版社を経営していた私の父が1995年ごろに趣味で集めた昆虫を展示する博物館として諏訪にオープンしたんです。けれども開館して2年ほどで父が亡くなりまして、その後しばらくは私が引き継いで向こうで運営していました」
清水さんご自身も子どものころから昆虫が大好きで、よくお父様の昆虫採集を手伝っていたという。
「だから標本を管理する方法もよく知っていましたし、父のコレクションの価値も分かっていましたから閉館するという選択はなかったですね。だけど諏訪では夏の間だけ開館するという運営形態を取っていたので、毎年そこへ通って管理するというのが大変だったんです。それでもっと東京の近くに移転することを決めました」
その後、清水さんは昆虫館に最適な場所を求めて東京中を歩き回ったという。
「もう本当にあちこち行きましたよ。昭和記念公園の方とか、石神井とか……。そして今のこの場所を見つけたときに「ここしかない!」と思ったんです」
その理由は、この町には自然と人間が一緒になって生きている環境があったからだと清水さんは言う。
「ぼくは埼玉の里山で育ったんです。だから子どものころは身近に自然がいっぱいありました。虫取りをしたり魚釣りをしたり、それこそ毎日泥だらけになって遊び回っていました。だからそんな人間の身近にある自然がぼくは大好きなんです。ここにも井の頭公園があって玉川上水があって、自然と人間の距離がすごく近いでしょう。そこが気に入ったんです」
館内には清水さんのお父様が世界中を回って集めた珍しいカブトやクワガタの標本がズラリとならんでいる。その中にはマニアも驚く希少種もあるらしい。
だけど清水さんがもっともここへ来て見て欲しいのは家族、それも親子連れにぜひ来てもらいたいという。
「お子さんがここで昆虫を見て大喜びをするでしょう。その後は井の頭公園を歩きながら、親子で自然について考えたり話し合ったりしてもらいたい。そんなところから、人と自然が共存するという心が、子供の心に自然と芽生えてくるといいなと。それが私の理想なんです」
『鉄腕アトム』の「赤いネコの巻」の中でY教授が自らの命を賭けてまで守ろうとした武蔵野の自然──ここ井の頭公園の周りには、それがかろうじてわずかに残されている。
諏訪クワガタ昆虫館を出ると、長かった秋の日も傾きはじめ、井の頭公園の木々が地面に長い影を落としていた。
その中の小径を歩きながら、ぼくもいつまでもこの風景が残っていて欲しいと心から思うのだった。
ではまた次回の散歩にも、ぜひおつきあいください!!
(今回の虫さんぽ、4時間10分、6645歩)
取材協力/三鷹市役所、井の頭地区公会堂、諏訪クワガタ昆虫館(順不同・敬称略)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番