昭和20年代の半ばから30年代の初めにかけて、手塚治虫先生は東京と故郷の宝塚を行き来しながら仕事をする、多忙な日々を過ごしていた。そんな中で原稿が落ちそうになると、編集者は手塚先生を旅館に押し込め、そこでむりやり仕事をしてもらったのです。これがいわゆるカンヅメ(館詰め)です! 今回は、そんな手塚先生の都内でのカンヅメ生活をたどった散歩です。旅館の館主の息子さんとの交流、アパートから消えた手塚先生を追う編集者と逃げる手塚先生との必死の攻防戦。そして手塚先生が愛した幻の地下ホテルとは!? 見逃せない情報満載で都内を歩きま〜〜〜すっ!!
今回は手塚先生のカンヅメ旅館をめぐる散歩だっ! カンヅメとは、リード文にも書いたとおり漢字で書くと「館詰め」。すなわち作家が旅館に詰めてそこで仕事をすることを、出版界の業界用語(なのか?)でカンヅメと言うのだ。
作家やマンガ家というのはものすごく孤独で集中力の必要な仕事である。だから自宅でひとりで仕事をしていると、ついつい飽きてきたり気が散ってダラダラしがちである。しかしカンヅメにされると、ほかにやることがナイので仕事に集中でき、原稿が進むのだ。
手塚先生は、昭和20年代の半ばから東京へ進出し、東京の雑誌で仕事を始めた。するとほかの出版社からも続々と仕事が殺到し、手塚先生はたちまち締め切り地獄におちいった!
そうなると編集者は、とにかく自分の雑誌の原稿を先に上げてほしいから、手塚先生をさらって旅館へ押し込め、そこで自社の仕事だけをしてもらう。
しかしもちろんそれでは他社も納得しない。奪われたら奪いかえせとばかりに、今度は別の編集者が先生をさらい、別の旅館へ押し込める! するとまた別の編集者が……。
いまだ戦後の面影が色濃く残っていた東京の街角で、日夜、そんな激しい戦いが繰り広げられていたのだ。
ということで前置きが長くなったけど、今回は、当時、手塚先生が仕事をした都内の代表的なカンヅメ旅館をめぐります!
ひとつの地域をぐるぐる歩く散歩ではなく、東京都内のあちこちを、徒歩と電車でめぐります。それぞれの場所の位置関係がよくわからないよ〜、という方は、このページのいちばん下にある野村正さん(手塚プロ)謹製のイラストマップを参照しながらいっしょに歩いてくださいねっ!
今日の散歩の出発地点はJR四ッ谷駅からだ。改札を出ると、目の前に大きな交差点がある。ここを南北に走っている通りが外堀通りで、東西に走る通りが新宿通りだ。
この新宿通りを西へ5〜6分歩いたところには、手塚先生が上京して最初に借りた下宿があった。その場所はすでに「虫さんぽ第18回」で歩いているので、ぜひそちらも参照していただきたい。
しかし今回はそちらへは行かず、外堀通りを北へ向かう。300メートルほど歩くと、1階にセブンイレブンの入ったビルが見えてくる。ここが今回の最初の手塚スポットだ。えっ、まだ歩き出して1分ほどなのにもう着いちゃったの!? いやあ散歩なのに近すぎて申し訳ない。
このセブンイレブンの入っている祥平館ビルと、その向かって右隣のSHKビルという2つのビル。ここにかつて「
手塚先生のカンヅメ旅館として、この「祥平館」の名前が活字で出てくるのは、元講談社の『少女クラブ』編集長だった丸山昭さんの著書『トキワ荘実録』だ。
この著書の中で丸山さんは、丸山さんが手塚番(手塚治虫担当の編集者)だった当時、都内のどこかの旅館に雲隠れした手塚先生を、あらゆる手をつくして捜索したことや、ご自身が手塚先生をカンヅメにした思い出などをくわしく書いている。そんな旅館のひとつとして祥平館の名があげられているのだ。
ということで今回の散歩とは別の日に、丸山さんにお会いして当時のことをうかがってきた。
「いやあ、本に書いたこと以外はもうほとんど忘れちゃったなあ」といいながらも、丸山さんはこころよく取材に応じてくださった。
さっそくですが丸山さん、出版社がカンヅメに使う旅館というのはいつも同じ場所だったんですか?
「いえ、そのときの状況によっていろいろでしたよ。もうとにかく一分でも早く部屋へ入って仕事をしてもらわなくちゃいけないから、今いる場所からいちばん近い場所とか、印刷所に近い場所とかね。あと他社に見つかりにくい場所っていうのも重要だったな」
四ッ谷の祥平館は、どういう理由でカンヅメに使われたんでしょう。
「先生の四ッ谷の下宿から近かったからじゃないかな。四ッ谷の下宿は二階の角部屋だったんで、部屋で仕事をしてると外から灯りが見えて部屋にいることがすぐばれてしまうんです。だから歩いて数分の場所に自分の部屋があるのに、わざわざ旅館にこもって仕事をしたりするわけです」
ひゃー、大変だ(笑)。
「あと手塚先生はカンヅメになるときには、仕事道具など最小限の荷物しか持って行かれませんでしたからね。何日もカンヅメが続くと、着替えなどを取りに帰るのにも近いと都合がよかったんだと思いますよ」
講談社でも祥平館は使いましたか?
「何度か使った記憶はありますね。それから、これはずっと後の話になりますが、講談社フェーマススクールズが祥平館でマンガ教室を開いたことがありまして、そのときにも手塚先生に講師として来ていただいたんですよ」
丸山さん、ありがとうございます。丸山さんにはあとでまたご登場いただき、ほかのお話もいろいろとおうかがいします。それではまたのちほど!
っつーことで、ここでいったん散歩に戻ろう。ついでに祥平館についても少し調べてみた。
株式会社祥平館のホームページで公開されている社史によれば、祥平館(の前身の尚兵館)が、戦災をまぬがれて焼け残った建物を利用して、四ッ谷のこの場所で旅館業と下宿業を始めたのは昭和27年のことだそうだ。
つまりちょうど手塚先生が四ッ谷の下宿に住み始めた、まさにそのころ開業したての旅館だったわけですね。
そこでぼくは、当時のことをご存知の方がいらっしゃるかもと思い、祥平館に問い合せをしてみた。対応してくださったのは祥平館総務部の
だけど残念ながら会社は社長も代替わりをしてしまい、当時の資料も残っていないということだった。唯一、昭和36年ごろの旅館だった当時の祥平館の写真を探してくださったのでそれを紹介いたしますね。いやー、昔ながらの風情がある立派な旅館です!
ちなみに餝萬さんによると、このビルの前を通る外堀通りは昭和50年に拡幅されたため、旅館だったころの祥平館は、現在のビルよりもすこし手前、つまり現在の歩道のあたりに建っていたそうです。
さて、次の目的地へは四ッ谷駅から地下鉄で向かいます。東京メトロ南北線で後楽園駅まで行き、そこで東京メトロ丸ノ内線に乗りかえて本郷三丁目駅で下車する、およそ15分の電車旅である。といっても地下鉄だから景色も見えないので、ふたたび丸山さんに話をお聞きしましょう。
丸山さん、講談社がよくカンヅメに使っていた旅館はどこだったんですか?
「そうですね、祥平館も使ったことはありましたけど、うちがよく使ったのは、講談社のすぐ近くの護国寺にあった「山海堂」という旅館ですね。ここも今はもうなくなってしまいましたが、護国寺の前の不忍通りをほんのちょっと東へ行ったところにあったんです。
それと、講談社は自前で「第一別館」という建物を持っていましたから、カンヅメといえば、何といっても、やはりそこがいちばん多かったですね。
第一別館がいいのは、編集部から歩いていけることと、いったん手塚先生をそこへ入れてしまえば、他社の編集者は勝手に入れないですから、いわば治外法権なんです」
「講談社第一別館」は、ぼくも前回の「虫さんぽ第24回」で訪ねてきました! 残念ながらもう建物は残っていないんですね。
「そうなんです、もう壊されちゃいましたからね。あの本(『トキワ荘実録』)にも書きましたが、わたしもあの建物にはいろいろと思い出がありましたので、とても残念です」
そうこうしているうちに本郷三丁目に到着した。住所を頼りに、地図を見ながら春日通りを西へ、次のカンヅメ旅館を目ざして歩き出す。
すると、ぼくはあることに気がついた。これは学童社のあった方向じゃないか! 学童社は、手塚先生が『ジャングル大帝』や『火の鳥』を連載していた『漫画少年』を出していた出版社だ。そしてその学童社があった場所も、「虫さんぽ第14回」で訪問済みである。
手塚先生がカンヅメになる旅館っていうのは、一見、都内のあちこちに散在しているようでも、やっぱり手塚先生の行動範囲の中にあったんだなあ。
そして学童社のあったまさにその場所を左に折れて細い路地へ入り、150メートルほど歩いたところに、重厚な和風旅館の建物が見えてきた。旅館の名前は「
そしてなんとこの旅館には、手塚先生がカンヅメになった昭和20年代当時の部屋が、ほぼ当時のままの状態で、いまも宿泊用に使われているという。うおおっ、これは楽しみだ。さっそくおじゃまいたしましょう!!
「朝陽館本家」では、ここの三代目ご主人・種田守宏さん(77)がお話をしてくださった。旅館は現在、四代目である息子さんがあとを継ぎ、きりもりされているということだ。
「わたしの祖父がここに朝陽館本家を創業したのは明治37年のことで、今年で創業108年になります。創業当初は「御下宿・御旅館」という看板を掲げていまして、下宿屋も兼業していたんです。このあたりは東京大学をはじめとして、いろいろな大学が近いですから。それと受験シーズンになると、地方から受験に来られる学生さんがうちへ泊まって、受験をされるわけです。戦後になってからは旅館専業になりました」
かなり歴史のありそうな建物ですが、いつごろの建物なんですか?
「増改築やリフォームはいろいろやっていますが、元の建物は昔のままですよ。うちは幸いにも関東大震災でも戦争中の空襲でも焼け残りましてね。ただ、今はもう昔の建物を修理できる職人さんがいなくなってしまいましたから、どこかが壊れても簡単には修理できないのが悩みなんです」
古い建物を維持するのは大変なんですね〜。
手塚先生が、こちらへ泊まりに来ていたのはいつごろですか?
「わたしが中学の終わりか高校へ入ったばかりのころですから、昭和27〜28年ごろだと思いますね」
やっぱり! 手塚先生が四ッ谷にお住まいだったころですね。そのころの手塚先生について、種田さんがご記憶されていることはありますか?
「それがあいにく、わたしには何も思い出がないんですよ。中高生といえば、もう聞き分けのいい年ごろですからね。「今日は手塚先生がお泊まりにいらしている」と聞いて「行きたいな」と思っても、わざわざ部屋へ行って先生の仕事のじゃまをしたりはしないですから」
確かにそうですね(笑)。
「ひとつ覚えているのは、当時、手塚先生が「朝陽館」という名前をマンガの中で使ってくださったことがあったんです」
ええっ、何という作品ですか!?
「それが……『鉄腕アトム』だったかなあ。忘れてしまったなぁ。そのマンガもしばらく取っておいたんですけど、もうなくなってしまいましたから……」
ということで、これについては、ぼくも後日、調べてみたけど、結局見つけることはできませんでした。もしかしたら単行本では削除されてしまった部分かも。どなたか見つけられた方がおられたら、ぜひ手塚プロまでご一報を!
ひきつづき種田さんのお話をどうぞ。
「それからわたしには弟がいましてね。弟は当時4〜5歳くらいだったんですが、弟はまったく人見知りをしない子どもでしたから、ときどき手塚先生の部屋へ遊びに行っては、かまってもらっていました。先生もいい気分転換になったんでしょうか、一度行くと、しばらく遊んでもらったりしていましたよ。
それで今回、取材に来られるというので弟にも連絡をとってみたんです。当時のことで何か覚えてないかと。しかし弟も小さいころのことでしたから、あいにく何も覚えてないと言うことでした」
うーん、残念。手塚先生は子どもが大好きだったから、もしかしたら弟さんはマンガとかを描いてもらってたかも知れませんね。それがもしも残ってたら家宝でしたね!!
「ははは、そうですね(笑)。ただ手塚先生とのご縁を感じるのは、弟がいま医者になっていることです。当時、手塚先生がマンガ家だけでなく医者でもあるってことを、弟が知っていたかどうかは分かりませんけどね。それでもこれは何かのご縁なのかも、と思うことがありますよ」
それではいよいよ、種田さんに、手塚先生がかつて泊まったという部屋へ案内していただこう。
種田さんのあとについて二階への階段をのぼる。足の裏に板張り廊下の懐かしい感触を味わいながら案内されたのは、廊下の突き当たりのいちばん奥、「蘭の間」という部屋だった。
この部屋は戦後に増築した部屋だそうで、リフォームはしているが建物そのものは当時のままだという。六畳の和室で、角部屋だから2方向にある窓から、障子を透かしてさしこむ光がとてもやわらかで心地いい。
種田さんは、部屋の東側の窓を開けながら、こう説明してくださった。
「手塚先生がお泊まりになっていた昭和20年代には、この路地をはさんだ向かい側は大きなお屋敷でしてね。大きな木が植わっていたんです。ですからこの窓を開けると目の前まで緑が迫っていて、先生もその風景には癒されたんじゃないでしょうか」
種田さん、ありがとうございました!
さて、「朝陽館本家」に関する話題はまだ終わりではない。じつはこの朝陽館本家は、手塚先生のエッセイを丹念に読まれている方にとっては有名な“あるエピソード”の現場となった場所でもあったのだ。手塚先生のエッセイからその部分を引用しよう。
「本郷の旅館へかんづめになったときなど、他社の編集者が、刑事の真似をしたことがある。その記者は、玄関で居留守を使われるのを警戒して、宿の番頭に「実は、お宅に、これこれこういう人相の男が泊まっているはずだが、それは実は指名手配中の男だから、こっそり覗かせてもらいたい」と言って、黒い手帳を見せた。旅館は大騒ぎになって、ぼくはとうとう指名手配の犯人にされてしまった」(講談社版全集 第383巻『手塚治虫エッセイ集』第1巻より)
この「本郷の旅館」というのが、まさにここ「朝陽館本家」だったのである。そして「他社の編集者」というのは、秋田書店の名編集者として知られた阿久津信道さんだった。
阿久津さんは、秋田書店の雑誌『冒険王』に最初に手塚先生を引っぱってきて、『冒険狂時代』や『ぼくのそんごくう』などの連載を起こした人である。
ただし手塚先生のエッセイでは事実が若干はしょって紹介されており、実際は、阿久津さんは旅館へ直接乗り込んだのではなく、隣家へ乗り込んだのだった。
種田さんのお話にもあったように、当時、このあたりは空襲で多くの家が焼け、戦災をまぬがれた朝陽館本家以外は、周りをバラックの家が取り囲んでいた。バラックというのは、ありあわせの材料で建てた掘っ立て小屋のことだ。終戦直後、戦災で焼け出された多くの人がそうしたバラックに住んでいた。
阿久津さんは朝陽館の裏手へ回り、そんなバラックの一軒をたずね、そこで刑事のふりをしたのだった。
そしてその隣家から隙間だらけの板塀の向こうをのぞくと、果たして窓を開け放して仕事をしている手塚先生がそこにいたのだ。阿久津さんへの取材を元に描かれた伴俊男氏の作品『手塚治虫物語』には、その実際の展開がきっちりと描かれている。
では、本日の虫さんぽ3箇所目、ラストのカンヅメ旅館跡地へと向かおう。次の目的地は京橋である。
ふたたび本郷三丁目駅まで歩いて戻り、そこから東京メトロ丸ノ内線で銀座へ。ここから京橋へは歩いてもすぐだけど、冬の日は短いので、わずかひと駅だけど東京メトロ銀座線を利用した。それでも乗車料金は変わらないのでご安心を。
ここ京橋にはかつて「ホテル・メトロ」という宿があったという。そしてここはカンヅメホテルの中でも手塚先生がもっともお気に入りで、うるさい編集者から逃れて自分からカンヅメになりに行くこともあったという。それはぜひ今回の虫さんぽで訪ねてみなければ!
ということで、散歩に行く前にいろいろと情報を集めたんだけど、なぜかこのホテルの情報にまったく行き当たらない。
中央区役所、中央区観光協会、中央区の郷土資料を収集している中央区立郷土天文館、さらには京橋の地元町会にも問い合せてみたが、誰も「ホテル・メトロ」を知らないのだ。
そんな中、京橋図書館に昭和29年の住宅地図があるという情報を得て、ぼくは京橋図書館へ向かった。果たして図書館にその地図はあったが、なぜかそこにも「ホテル・メトロ」の名前は載っていなかったのだ。
いったいホテル・メトロはどこにあったのか……!?
そもそも手塚先生がこのホテルを利用し始めたのは、手塚先生と親交があったマンガ家で、のちに映像製作会社ピー・プロダクションの代表となったうしおそうじ氏が紹介したことがきっかけだったという。
以下、うしお氏の著書からの引用。
「ボクは、手塚さんもあの環境(黒沢注:編集者に張り付かれてせっつかれながら仕事をしている状況のこと)ではいい仕事はできないだろうと、「ホテル・メトロ」を紹介した。“メトロ”は地下鉄銀座線京橋駅から直行で泊まれるビジネスホテルの走りである」(うしおそうじ著『手塚治虫とボク』より)
ここでふたたび丸山昭さんにお尋ねしたところ、丸山さんもホテル・メトロには行ったことがあったという。詳しい場所は忘れてしまったといいながらも、こんな情報を教えていただいた。
「うしおさんの本にあるとおり、ホテル・メトロは京橋駅の改札を出てすぐのところにフロントがあったんです。京橋駅は改札が2箇所ありますけど、確か明治屋寄りの改札を出たところじゃなかったかなあ……」
京橋の中央通り沿いに建っている明治屋ビルは、昭和8年に建った歴史あるビルで、中央区の有形文化財にも指定されている。「ホテル・メトロ」はもしかしたらこの明治屋のテナントとして入っていたのかも!? ぼくはさっそく明治屋の広報に電話で問い合せてみた。だけど明治屋にホテルがテナントとして入っていたことは一度もないというお返事だった。
と、行き詰まっていたぼくに、大きな情報がもたらされた!
それは、何か情報はないかとたまたま立ち寄った古本屋で買い求めた昭和35年発行の東京の観光案内ガイドブックだった。そこの旅館案内のページに「ホテル・メトロ」の名前がはっきりと書かれてあったのだ。初めて活字でこのホテルが確かに実在したことが確かめられた。
だけど、その後もこれ以上の情報は得られなかったから、あとは現地での聞き込みしかないと思い、今回の散歩にのぞんだ。
しかし現地での聞き込みでも新たな情報は得られなかった。京橋は歴史のある老舗のお店も数多い。そんなお店に入って聞いてみたものの、誰もホテル・メトロを記憶していないという。
これ以上の探索は無理かなぁ、とあきらめかけながらビルの裏手をトボトボと歩いていたところ、かなりのご高齢と見うけられるひとりの紳士とすれ違った。仕立ての良さそうなスーツを着てネクタイをキッチリと結んでおられる。
ぼくはその方に声をかけてみた。
「すみません、このあたりに昔、ホテル・メトロというのがあったのをご存じないですか?」
その紳士は、ぼくがいきなり声をかけたのでかなり驚いたご様子だったが、それでもすぐにこんな返事が返ってきた。
「ホテル・メトロ、ああ、知ってますよ。京橋駅の地下にあったホテルでしょう」
ええっ、ご存知なんですか!?
興奮したぼくはすぐに名刺を渡し、早口で取材の趣旨を説明して詳しい話をお尋ねした。その方はIさんというお名前で、御年82歳の方だった。昭和20年代に丸の内で会社員をしており、当時、ホテル・メトロでは仕事帰りによく仲間とマージャンをやったのだという。
「ホテル・メトロはね、地下にあったんですよ」
はい、地下の改札の前にフロントがあったということは聞いてます。
「そうじゃなくてね、ホテルの部屋も全部地下にあったんです」
ええっ? どういうことですか!?
ぼくはIさんに、当時、ホテル・メトロがあったという場所へ案内していただいた。地上から地下鉄京橋駅へと向かう階段を降りて、改札を背にして立ったIさんが「ここにホテル・メトロがあったんです」と言って指差した場所、そこはただの通路だった。つまり京橋駅の銀座寄り改札口と日本橋寄り改札口とをつなぐ地下コンコース、そこにホテル・メトロがあったというのだ。
ここ……ですか?
「そうなんです。当時はここは通路じゃなくてホテルの部屋が横一列に並んでいたから、両方の改札口はつながっていなかったんです」
そっかー、それで住宅地図にも載っていなかったのか!
Iさんによればホテル・メトロの利用客は出張のビジネスマンのほか、Iさんらはマージャン部屋として、また連れ込み宿的な目的で使う人もいて、いつもにぎわっていたという。
そして手塚先生にとっては、その窓もない閉じられた環境というのも、むしろ集中力を高めるのに良かったのかもしれないですね。
またIさんは、当時のホテル・メトロの経営者とも親しくて、その会社の名前も教えてくださった。
「太平洋興業という会社でね、日本橋浜町の方へ移転したんですよ」
もちろんぼくは、後日その太平洋興業にも問い合せをしてみた。あいにく現在は会社の業態が変わってしまったため、当時の資料は何も残っていないということだったが、それでもホテル・メトロが営業していた期間を教えていただいた。
ホテル・メトロが京橋駅の地下で開業したのは昭和23年10月のこと。当時、日本に数多くいた進駐軍の兵士とその関係者のための宿泊施設としてオープンした。そして昭和45年11月に閉館となった。
ちなみに進駐軍というのは、敗戦後、日本へやってきたアメリカの占領軍のことである。
ではここでの手塚先生の仕事風景はいったいどんなものだったのか。ふたたびうしおそうじ氏の著書から、ある日のカンヅメ風景を紹介しよう。
「(うしお氏は)このホテル・メトロの一室で、手塚と二人して自主的カンヅメを決行したのである。
例によって、隣続きの二部屋ぶん予約しておいた日本間に入った。
(略)
チェックインの時間ぴったりにフロントで手続きを終え、簡素な六畳間の襖を外し十二畳の広さにして、隣の座卓をボクの部屋の分と向かい合わせに並べた。まもなく手塚が来た。
彼は革カバンから道具一式を出す。彼は『鉄腕アトム』を、ボクは『しか笛の天使』の仕事を卓上に並べ、さっそく仕事にとりかかる。
(略)
それからもこのホテル・メトロで、ボクと手塚は何度か「自主カンヅメ」の合宿をおこなった。この合宿で、ボクら二人は漫画や映画について語らい、ますます意気投合していく」(前出『ボクと手塚治虫』より)
ちなみにプチ情報だけど、このうしお氏の文章にも出てくる、当時手塚先生が愛用していた革カバンというのは、昔のお医者さんが往診のときに使った、フタが左右にガバッと大きく開く硬い革カバンだったらしい。
ここで、ホテル・メトロの謎を解いてくださったIさんとお別れし、地下から地上へ出ると、冬の陽はすでに西へ傾きだしていた。
最後に、丸山さんにもう一度お話をうかがおう。丸山さん、手塚先生がよくカンヅメになっていた時期というのは、だいたいいつごろだったんですか?
「手塚先生が結婚される前までですね」
手塚先生が奥さまの岡田悦子さんと結婚されたのは、昭和34年10月ですね。ということはそのころまでということですね。
「そうですね。先生はその少し前に並木ハウスを出て、初台の一軒家へ引っ越したんです。ちょうどそのころから専属のアシスタントを雇うようになって手狭になったからでしょう。そして間もなく結婚もされて、ほとんどカンヅメはなくなっていったんですよ」
時代的にはちょうど『少年サンデー』と『少年マガジン』が創刊されて(ともに昭和34年3月創刊)、マンガ雑誌の主流が月刊誌から週刊誌へと変わる時期でもありますね。
週刊誌では毎週締め切りがきますし、アシスタントを引き連れて旅館を転々としながらマンガを描くというのは、むしろ非効率になってきたということでしょうか?
「恐らくそうでしょうね。マンガの製作がシステマティックになっていって、手作りの時代が終わったということかも知れません。
編集者が作家の尻をたたいて、それでいいマンガが生まれるというのは、草創期ならではの風景だったんでしょう。
なにしろあのころは手塚先生も若かったですが、われわれ編集者もみな若かったですし、マンガ界全体が青春期だったんですよ」
丸山さん、今回もいろいろと貴重なお話しを聞かせていただいてありがとうございました!!
お読みいただいた皆さんも、今回も大長編虫さんぽに最後までおつきあいくださいまして、ありがとうございます。ぜひまた次回の虫さんぽでもご一緒いたしましょう!!