今学校に通っている方、またはかつて学生だった皆さん、教科書の中に、「手塚治虫」の名前を見かけたことはありませんか?
文部科学省の検定を経て、「教科書」として毎年発行されている各教科の教科書ですが、いま、手塚治虫のキャラクターやエッセイ、自伝や伝記などが続々登場しています。
平成2年度の中学1年生向け『現代の国語』に手塚治虫のエッセイ「この小さな地球の上で」を採用して以来、22年間この作品を掲載し続けているのは、教科書や辞書などで著名な出版社、三省堂。虫ん坊では、この教科書の担当をされている株式会社三省堂 佐野郁世さん、山田桂吾さんにお話を伺いました。
——手塚治虫のエッセイ「この小さな地球の上で」が、中学1年生の国語の教科書に採用されたのはいつからなのでしょうか?
佐野:
初めて弊社の教科書にこの作品を採用しましたのは、今から22年前の、平成2年度の教科書でした。その後、幾冊かの改訂版を出していますが、この作品は変わらずに掲載しつづけています。改訂のたびに、すべての掲載作品について続けて掲載するかどうかを検討するのですが、地球上でともに生きる、というこの作品のテーマは、子どもたちにふさわしいテーマとして現代でも古びていない、と思います。現場の先生がたには、すべての収録作品についてアンケートに答えていただいていますが、その評価も大変高く、今年度版でも採用を決めました。
年度によっては、読書の幅を広げるために参考作品としてのいわゆる「読書ページ」に掲載されたこともあったのですが、今回の改訂版では、「学習の手引き」も添えた、授業でしっかり読み込むための作品として掲載しています。
作品の中の話題も、子どもたちの興味をかきたてるもので、たとえばペルーのナスカ高原だったり、イースター島だったりと、TV等で取り上げられた著名な「世界の名所」でイメージが湧きやすく、身近で、好奇心や想像力をかきたてますし、文章もちょうど良い長さでまとまっていて、整っています。教材としてふさわしい作品だと思います。
山田:
時間的にも空間的にも、大きな視点を持つ教材だな、というところもあります。短い文章の中に、ペルーのナスカ、イースター島などの地球の不思議な場所や、NASAの宇宙飛行士による、地球を宇宙から見た時の談話、そして自らの昆虫採集の思い出や戦争体験などをつぎつぎに引いて、人間のみならず生命全体、地球を包括的に捉えていますよね。
佐野:
また、ペルーのナスカを例にひいては「人間の賢さ」を、イースター島のモアイを例に引いては「人間の愚かさ」を対比的に描いていくところはとてもわかり易く、「人間は果てしなく賢明で、底知れず愚かだ。」とずばり書いてあるので、学習する材料としてはとても進めやすいんです。
山田:
この文章は、事実に基づいて筆者の考えを述べていく、いわゆる「説明文」に属する作品だと思いますが、そういう文章は、小説や詩といった、文学作品に比べると時代の変化とともに生徒にとって身近なものでなくなってしまうものも多いのですが、この作品は、初めて採録されてから20年経った今読んでも、十分教材としてふさわしい内容になっています。そんなところも魅力の一つですね。
——率直なところ、手塚治虫に対して、現代の中学生は馴染みがあるのでしょうか?
佐野:
少なくとも、先生方にとっては人気の作家ではないでしょうか。作品そのものは確かにしばらく前に描かれたものですが、全く古びず、人類共通のテーマで描かれているので、先生方も、マンガ作品についても子どもたちにぜひ薦めたい、という方もいらっしゃいます。
山田:
現代でも作品が映画化されるなど、若年層に紹介される機会も多いので、すでに映画などで手塚作品に触れたことのある子どもも少なくないようです。
もっとも、手塚治虫作品にそれほど詳しくなくても、この文章は十分子どもたちに受け入れられるものだと思います。
——どんな方が作品を選定されるのでしょうか。
佐野:
我々編集者の他に、専門家による「編集委員」がそれぞれの得意分野を生かして作品の選定や編集に関わります。この「中学生の国語1」でも、大学で教鞭を取られている先生方や、中学校や小学校など、現場の先生方、また、詩人や歌人、作家の方にもご助力いただくケースもあります。
——小学校と中学校での教科書の違いはありますか?
山田:
実は、国語について言えば、小学校・中学校で、かなり共通したところがあるんです。文部科学省が定めた学習指導要領にしたがって、教科書を編集していくのですが、中学校では、小学校で学習したことをスパイラルに繰り返し復習しながら、さらに学びを深めていく、というような内容になっていますので、ものすごく違いがある、という意識はあまり無いですね。
——学年によって違いはありますか? たとえば、やはり1年生は新しい学校に進学したばかりですから、特に気を使われるのでは、と思いますが。
佐野:
各学年、力を入れて作っていますが、中学1年生に限って言えば、小学校で学んだこととの接続を特に意識しつつ、やはりひとつ高いステージに上るわけですから、より広い視野を持ってもらえるように、という工夫はしています。自分自身の身の回りから、人との関係や、社会との関係に視点を広げていってほしいですね。
手塚先生の「この小さな地球の上で」は、テーマも分かりやすく、中学校一年生でも読みやすい作品ながら、きちんと「地球人」としての視点を与えてくれます。このような作品から、徐々に社会的視点を身につけていってくれたらいいな、と思っています。
——「この小さな地球の上で」が採用されたのは平成2年度からということですが、ちょうど平成になったばかりで、社会の視点も変化があったのでしょうか。
山田:
学習指導要領が変わると、教科書も大きな改訂をする、ということになりますが、その点では、平成元年に学習指導要領の改訂がありました。でも、平成元年の学習指導要領に基づいた教科書というのは、編集期間などの問題と、該当年度の2年前に検定に申請しなくてはならない都合から、平成5年版からなんです。
——ということは、平成2年度版の教科書の編集期間は、おそらく1987年ごろになりますでしょうか。手塚治虫の最晩年に、申請をいただいた形になりますね。
佐野:
手塚先生の御存命中には教科書は完成までには至らなかったのですが……。
新しい作品を採用するのは、勇気がいることでもあります。先ほど申し上げたように、先生方からのアンケートの反応等によっては、一改訂で掲載が終わってしまう作品もあれば、何年も掲載され続ける作品もあります。
——中学生ごろって、勉強が好きになるかどうか、の分かれ目ですよね。少しでも勉強が楽しくなる工夫はどのようなところに加えていますか?
佐野:
例えば、「読むこと」教材の最後に、「私の本棚」というページがありまして、これは新しい試みです。教材と関連する本を3冊、すこし易しい本から、ちょっと難しめの本まで、テーマに合わせて紹介しています。これらは子どもたちに興味を持ってもらいやすい本を、専門の先生方に選んでいただいています。
また、「私の本棚」コーナーは、すべてがこちらからのレコメンドばかりでも窮屈なので、4冊目に自分の好きな本を書き込めるようにしてみました。読んだ書名のほか、1、2行程度の感想と、5つ星までの「評価」を書き込むことができます。世の中の評価だけではなく、自分で読んで評価をきめていいんだよ、というメッセージを込めました。
他には、各単元の扉も工夫ています。例えばこちら(写真)は「どこまでが一個? どこからが一本?」という問題ですが、このように各単元の扉に自由な意見を言えるようなちょっとした問いを載せています。
あえてはっきりとした正解はない問いを設定して、どんどんいろいろな意見を言い、お互いにお互いの物の見方の違いなどを交流するきっかけづくりをしています。
山田:
扉の問いかけをきっかけにしながら、各単元の教材の学習に入っていって、さらに考えを深めて自分のものにしていく、というような狙いですね。
相手に何かを伝えたり、相手の話を聞いたりする面白さを味わってもらいたいです。
——ところで、ここまで伺ったところで1冊の教科書を作る仕事には、とても長い期間がかかるのだなあ、と思ったのですが、国語以外の教科では、どんな教科書を作っていますか?
山田:
国語以外には、英語の教科書も作っています。
——言葉にこだわる、というテーマですね。三省堂といえば、国語辞書「新明解国語辞典」でも有名ですよね。
佐野:
特に「新明解国語辞典」は語釈が特徴的で、そこが好きだ、というファンのかたもいらっしゃるようです。辞書の部門では、他にもいろいろなタイプの辞書を出しています。
——教科書は、どのように選ばれていくのでしょうか? 同じ教科・同じ学年でも、いろいろな出版社から発行されています。
山田:
中学校の教科書は、公立学校の場合、全国585の採択地区が区切られており、各地区の教育委員会が、話し合ってどの教科書を採用するかを決定します。国立や私立の場合は、各学校が検討します。
——最近の教科書採択の特徴というのはありますか?
山田:
この数年来、国際学力調査で、日本の学力低下が叫ばれ、社会問題として捉えられるようになりました。学力を向上したい、という社会的な要請はたしかにあります。
しかし、国語の教科書としては、現状では、闇雲に難しいものではなく、やはり分かりやすく、授業しやすいもの、という要求が現場の先生方からは多いように思います。
もっとも、教科書の需要というのはすぐに何かが変わる、というものでもなく、ある流れができてもそれが定着するまでに10年ぐらいかかるとも言われていますね。
佐野:
教科書は、前の教科書が使われ始めるとすぐに次の教科書を作り始めますので、1冊の教科書の効果を4年間じっくり見届け、次の改訂版に活かすことは時間的に難しいです。現在の版にどのような反響があるのかを横目で見つつ、並走していくような感じですね。そういうところは、教科書づくりの難しいところの一つでもあります。
山田:
計算されたカリキュラムを提供しつつ、いかにさまざまな授業の可能性に合わせた柔軟性を持たせるか、という工夫が、実はもっとも難しいところかも知れません。
——近年ではいじめの報道が相次いでいますが、国語の教科書の編集者として、何かご意見はありますか? 文学作品などでメッセージを伝えることはできるのでしょうか。
佐野:
とてもむずかしい問題だな、とは思うのですが、一つ、教科書からなにかできるとすれば、——個人的な考えですが——手塚先生の作品にも通じるメッセージですが、「どんなことがあっても生きる」ということが全てだと思います。それは例えば教材の文章だったり、学習の活動の中で伝えていくような働きかけが教科書から出来ればと思うのですが、すごく難しい問題だな、と感じています。
山田:
教科書を作る立場からは、教材を通して、教室という、いろいろな考え方を持ち、それぞれに個性を持った生徒たちが集まっている場所で、お互いの考え方の違いを理解し合いながらかかわっていく、という姿勢を身につけていってほしいな、と思っています。教材を選んだり、作ったりする際にも、その視点は大切にしたいですね。
教科書に載っている文章ですと、中身をわかろうと、繰り返し熟読するものですので、メッセージをきちんと伝えやすいですよね。手塚先生の文章もぜひ、何度も読んでほしいです。
——では、最後になりますが、お二人の好きな手塚作品を教えてください。
佐野:
『ブラック・ジャック』が好きですね。短編作品で読んでいけるので、すごく読みやすいということもありますが、各編必ず名台詞が出てきて。
とくに心に残った作品が、「ときには真珠のように」です。ブラック・ジャックの恩人である本間先生が亡くなった後に言う「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」という言葉自体に、この作品のテーマすべてが集約されているような気がします。いろいろな人々のドラマが毎回描かれて、どのエピソードも何かに気付かされてくれるので、読み飽きないですね。
山田:
かぶってしまって申し訳ないんですが、私が中学生の頃、図書館に『ブラック・ジャック』が入っていて、読書の時間に級友と奪い合って読んでいたことを覚えています。
学校の図書館に入っているマンガなんて、当時は『日本の歴史』『世界の歴史』といった学習まんが以外では、『ブラック・ジャック』ぐらいで。ボロボロになるまで読み込みました。
好きなエピソードは、「おばあちゃん」という作品です。がめついおばあちゃんを救うための代金として三千万円もの大金をブラック・ジャックから要求された息子が、なんの迷いもなく「はらいます!」と決断するシーンの表情に、衝撃を受けましたね。はたして自分が同じ状況に陥ったら、同じ事を言えるだろうか? としばらく考えたことを覚えています。
——今回はお忙しい中、お時間いただきありがとうございました!
ここで簡単に、最近の教科書で、手塚治虫作品または手塚治虫の自伝、イラストなどが採用された教科書をご紹介します。
ここにご紹介したのは2011年と2012年の検定教科書のみですが、国語・英語など以外にも、社会・美術などで人物や作品が、またユニークなところでは、技術・家庭の教科書で案内キャラクターとして採用されたり、とさまざまです。
あなたの教科書には載っていますか?? もし、「今使っている教科書で見た!」「昔使っていた教科書にあった!」などありましたら、ぜひ投稿コーナーにお知らせください!
◆国語
2012年 三省堂「中学生の国語1」 「この小さな地球の上で」再録
2011年 東京書籍「国語」(小学5年) 手塚治虫の伝記
教育出版「ひろがる言葉 小学国語」(小学5年下) ジャングル大帝
◆算数
2011年 東京出版「算数」 小学4〜6年の教科書に『鉄腕アトム』
◆英語
2011年 東京書籍 「中学英語 NEW HORIZON」『鉄腕アトム』
◆社会
2011年 日本文教出版 「小学社会」(小学3年〜6年) 『鉄腕アトム』
日本文教出版 「公民 現代の社会」(中学) 『アトム今昔物語』
◆美術
2011年 日本文教出版 「美術2・3」上・下 『鉄腕アトム』『火の鳥』
◆理科
2011年 教育出版 「小学理科」 小学3〜6年 『鉄腕アトム』