今月の『オススメデゴンス』は、コラム「手塚マンガ あの日あの時」でも登場した、『フィルムは生きている』をご紹介します!
マンガ家としての顔のほうが有名でもあり、偉大でもある…と捉えられがちな手塚治虫ですが、アニメーションに対しても並ならぬ関心と情熱がありました。この『フィルムは生きている』ではそんな情熱がありありと語られています。
コラムでも紹介した「マンガは本妻、アニメは愛人」という名言(!?)なども踏まえて、ぜひこの作品を読んでみてください!
(手塚治虫 講談社刊 手塚治虫漫画全集『フィルムは生きている』あとがきより)
(前略)
この「フィルムは生きている」は、ぼくがはじめて東映のスタジオをおとずれた前後、そして、もう狂うほど動画作りに意欲をもやしていたころの、ぼくの私小説(私マンガ?)ともいうべきものです。
だから、書かれている舞台は、かなり東映の新築ホヤホヤのスタジオを参考にしたものが出てきます。今読むとスタジオの中などはかなりインチキくさいのですが、なにしろ、それまではちゃんと整った本格的な動画スタジオなんかないにひとしかったのです。
そのころは、テレビで国産アニメなんかやっていませんでしたし、それどころか、やっとカラー動画がつくられるようになった頃だったのです。
「西遊記」にひきつづいて、北杜夫さんと「シンドバッドの冒険」の構成、そのあと「わんわん忠臣蔵」の構成をやり、それから、虫プロダクションの創立にむけて、ぼくは、しゃにむに猪突していったのです。
それはさておき、この頃はまだマンガ週刊誌がほとんど影のうすい存在だった時代で、武蔵と小次郎がさかんに書いている雑誌の本数を自慢しあっていますが、すべて月刊誌と、その別冊フロクのことです。この頃は、別冊フロクが月刊誌に毎月七、八冊もおまけについたものでした。別冊フロクを月に何冊書くかということが、マンガ家の人気のバロメーターになったりしたものです。
『フィルムは生きている』は、アニメ作りに情熱を燃やす少年・宮本武蔵が、さまざまな困難を乗り越え、故郷の馬を主人公にしたアニメ映画『アオの物語』を完成させるまでの物語で、1958年から1959年にかけて『中学一年コース』、 『中学二年コース』に連載されました。
この「私マンガ」が描かれた背景には、マンガ家・横山隆一の「おとぎプロ」の存在や、東映動画の創立などがあり、アニメ製作を夢見ていた手塚治虫には非常に刺激になったようです。いずれにしても良く指摘されることではありますが、この『フィルムは生きている』には、主人公・武蔵を通して手塚治虫のアニメ製作への熱い思いが描かれているのです。
「なぜじぶんの道をまっすぐゆかん?」と、マンガ家となった武蔵を叱りとばす役として、手塚治虫の親友・馬場のぼるが登場しているのも楽屋オチ的で楽しいお遊び(?)です。レギュラー出演していた『W3』にくらべ、ほんの1ページほどの出演ではありますが、いつまでもファンの記憶に残る名演と言えるでしょう。