文/山崎潤子
関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。今回は現在一迅社の社長を務める野内雅宏さん。野内さんは『週刊少年マガジン』編集者時代、手塚治虫の読み切り作品を担当されています。編集者視点で手塚治虫の多忙さがわかるエピソードをお聞きしました。
PROFILE
野内雅宏(のうち・まさひろ)
編集者、経営者。1981年講談社入社、『週刊少年マガジン』編集部に配属される。『バリバリ伝説』(しげの秀一)、 『はじめの一歩』(森川ジョージ)、『BOYS BE...』(イタバシマサヒロ/玉越博幸)など、数々のヒット作品に携わる。1997年より6年間『週刊少年マガジン』編集長を務める。2018年よりマンガとアニメ・ゲーム関連本などを幅広く手がける株式会社一迅社の代表取締役社長を務める。
──待ち続けて、とうとう打ち合わせができることになったんですね。でも、事務所じゃなくて帰りの車内とは!
高田馬場から手塚先生の花小金井のご自宅まで、当時タクシーで30分くらいだったかと思います。初めて先生とお話させていただくのに、一緒にタクシーの後部座席に2人で乗り込むわけですから。それはもう、ものすごく緊張しました。
──生で手塚先生と会うのは、そのときが初めてだったんですか?
そうです。「写真やテレビで見ていた手塚先生だ。本物だ!」って、ようやく。
初対面の印象は、意外と元気そうだな、でした。手塚先生が猛烈に忙しいことは当然承知していましたし、あまり寝ていないという話も聞いていましたから。
深夜だというのに機嫌もよくて、僕に対しても丁寧によろしくみたいな挨拶をしてくださいました。
──そして、どんな会話を?
「車の中で打ち合わせするけど、いいですね」とおっしゃるので、「はい」って。すると「考えたプロットを今から5つ話しますから、その中で一番面白いと思うものを言ってください」というわけです。えええーーっ、いきなりすごいやりとりきたーー!って思いました。
──読み切り企画については先生も承知していたのでしょうが、それにしてもいきなり5つ!?
あらすじというよりは本当に簡単なプロットでしたが、先生は5つの候補について話してくださいました。
じつは情けない話ですが......、緊張しすぎたのもあって、実現した『ダリとの再会』以外は覚えていないんです。ただ、5つのお話はどれも面白くて、読んでみたいと思わせるクオリティの高いアイデアでした。
──5つの中からどれを選ぶかは、野内さんに委ねられた?
そうなんです。でも「どれがいいですか?」って聞かれたら、編集者として試されているのかなって思うじゃないですか。どれを選ぶかによって、「こいつはわかってるな」と思われるか、「こいつはダメだな」と思われるか......。
──たしかに、手塚先生の中でも5つの中に優劣があったかもしれませんし......。
先生がいまひとつだと思っているものを私が選んでしまって「本当にそれでいいの?」「どうしてそれがいいの?」なんて聞かれたらどうしようって思いましたよ。でも、5つの中に介護ロボットと不良少年の心の交流の話があって、直感でこれしかないと思ったし、自分自身も読んでみたいと思ったから、その話がいいと答えたんです。すると先生も「ああ、僕もそれがいいと思ってたんですよ」って言ってくださったんです。
──当たりだったわけですね!
そのときは「やったー!」ってうれしかったですね。でも後から考えると、もしかしたら先生は、僕が何を答えてもそう言ってくれたのかもしれないなと思ったりもして。
──手塚先生はサービス精神が旺盛だそうなので、若き新人編集者をやさしく導いてくださった可能性はありますね。
でも、当時の私はまだそこまで思い至らず、先生の意中の作品をちゃんと当てることができたんだと、喜び勇んで編集部に戻りました。「先生が出してくださった5つの候補から、ちゃんと当てることができました!」なんて、編集長に報告した記憶があります(笑)。
待っている間は本当に企画が実現するのかと不安でしたが、いきなり車の中で5つもアイデアを出してくださるわけですから、やっぱりこの人は天才なんだ、こりゃ待つのもしょうがないわって思いました。
──先生の名言に「アイデアはバーゲンセールするほどある」というのがありますが、まさにそれを地でいくエピソードですね。新人編集者を驚かせたい、楽しませたいという気持ちもあったのかもしれません。
そんなわけで、原稿のほうも落ちることもなくいただくことができました。とはいえかなりギリギリで、表紙も印刷所に入れたあとだったから、もう落とすわけにはいかなくて......。印刷所に待ってもらってなんとか校了できました。
──内容の打ち合わせから校了までは長かったんですか?
はっきりは覚えていませんが、意外にもあっという間だったような気がしています。
そういえば、原稿を描く間にマネージャーの古徳さんから「先生がタイトルを決めるように言ってたよ」と伝えられて、プレッシャーでしたね。僕はタイトルをつけるのは得意なほうだと思うんですが、あの話についてはかなり悩みました。『ダリとの再会』は少し地味かなとも思ったんですが、変に奇を衒ったり、おしゃれっぽくするよりは愚直な感じのほうがいいような気がして。先生もすぐにOKしてくださいました。
──『ダリとの再会』というタイトルはラストシーンにフォーカスを当てているものの、ネタバレにはなっていない、シンプルですがひねりが効いていますよね。最後まで読んでタイトルの意味がわかるような。
感動や熱さをもっと前面に出すようなタイトルも考えたのですが、どれもピンとこなくて、地味かもしれないけどこれしかないと思って提案した記憶があります。
──『ダリとの再会』の内容についてはいかがですか? 介護ロボットに癒されるという、まさに未来(現代)を言い当てるようなものでしたが。
先生の頭の中では、すでに未来が見えていたんでしょうね。
当時は手塚先生にお会いするのも一苦労という状況でしたから、内容に関して感想や意見を言うような機会は残念ながらありませんでした。先生にとにかくおまかせするだけで。
とはいえ、もしも「ここは絶対こうしたほうがいい」という部分があれば、やはりマネージャー経由でお伝えしたと思います。でも、正直ネームを読んだとき、いやもう完璧で、直すところなんてないと思いましたね。やはりそこはさすがというか、よくこれだけの話を31ページにギュッと凝縮してまとめたな、すごいなって感服しました。
──不良少年のやさしさも、説明ではなくさりげないシーンで表現されているし、無駄がないですよね。自然と感情移入できますし。
手塚先生は話の運びが絶妙ですよね。話をコンパクトにまとめるのって、なかなか難しいものなんですよ。新人のマンガ家さんにあの話を描かせたら、技術はともかくページ数が1.5倍は必要だろうなと思います。
──手塚治虫の読み切りマンガを担当したことは、その後の編集者人生に何か影響はありましたか?
自分の功績だなんて思ってはいませんが、新人だった僕にとっては、大仕事をやり遂げたような気持ちで、ひとつの自信にはなりました。それまでは「自分はなんの役に立っているんだろう」と思っていたけど、編集部の力になれた気がして、大人になれたような感覚でした。
あとはやはり、手塚先生のすごさみたいなものを目の当たりにもできました。原稿をとるって並大抵のことじゃないんだという、編集の厳しさも味わいました(笑)。
──ほぼ初担当がマンガの神様というのは、すごいハードルでしたよね。
僕はもともと手塚先生の読み切りシリーズが大好きだったんです。『紙の砦』や『安達が原』はものすごい名作だと思っています。
そういった数々の珠玉の読切りの名作がたくさんあるわけですから、こんな言い方は先生に失礼かもしれないけど、『ダリとの再会』が超名作の一つに数えられるとまではおそれ多くて言えません。ただ、タクシーの車内で短い間でしたが、手塚先生と読み切りの打ち合わせができたこと、入社1年目でぎりぎり戦えるレベルのものを担当できたということは、僕の人生の大事な宝物というか、人に自慢したくなるようなエピソードなんですよね。
この経験は、自分の編集者人生にもよい影響を与えてくれたと思ってます。
『安達が原』(1971年3月)
宇宙調査官のユーケイは凄腕の殺し屋。地球から遠く離れた星にある魔女の館を訪れ、ここに来た者はもれなく殺されるという噂の真相をつきとめる。ユーケイが老婆の魔女に銃を向けると、魔女は「死ぬ前にお前の身の上を聞かせろ」と言う。果たして魔女の正体は......。福島県安達ヶ原に伝わる鬼婆伝説をヒントにしたSFマンガの傑作。
──野内さんはその後、マンガ編集者として数々のヒット作を生み出すことになるわけですよね。
22歳で『マガジン』編集部に入って、15年目の37歳で編集長になって、その後6年『マガジン』の編集長でしたから、ずっとマンガ畑なんですよ。そもそもマンガが大好きで、マンガがやりたくて講談社に入ったから、女性誌や文芸誌に配属されたらどうしようと思ったくらいで。
──ちなみに学生時代に好きだった作家さんは?
僕の中のマンガの神様だと思っているのは、やっぱり手塚先生とちばてつや先生です。山上たつひこ先生や村上もとか先生も好きでしたね。大島弓子先生、萩尾望都先生、陸奥A子先生といった少女マンガも読んでいました。
手塚プロダクション出身でいえば、石坂啓先生も好きですね。それこそ三浦みつる先生は僕が入社した頃『マガジン』で連載されていましたし。
──守備範囲が広い!
面白いマンガならジャンルを問わずなんでも好きで、とにかく読み漁っていたんです。特に人真似じゃない、個性のある作品が好きですね。
──マンガの世界の第一線を歩まれてきた野内さんですが、マンガ市場について今後の展望は?
今はジャンルの細分化も進んでいるし、作家さんの数もとんでもなく増えて、マンガ文化は花開くとこまで開いたなという感じがしています。少なくとも絵(画力)に関しては、今の若い人たちの美意識は相当なものです。新人さんでもすごい画力の方がたくさんいますし、みなさん感性も鋭いんですよ。だからこれからもたくさん面白いものが出てくると思います。ただ、多すぎて追いきれないのが悩みですが(笑)。
──マンガもアニメも、選択肢が多すぎて時間が足りないですよね。
ただ、XでもInstagramでも、発表することのハードルは下がっていますから、誰でもチャンスがある時代ともいえますよね。SNSでバズれば、出版社からぜひ紙の本で出させてくださいっていう話が来るわけですから。マンガだけでなく、何かを表現したい人にとってはいい時代だと思いますね。
──ヒットの法則のようなものって、ありますか?
こうすれば絶対に当たるなんていう方程式はありませんし、それらしいものに則ってつくっても、おもしろくないような気がします。今、僕自身は現場から離れてしまいましたが、作家さんと編集者が意気投合して心から面白いと思ったものをのびのびつくった結果、それが幸運にも読者に共感してもらえれば、それでいいんじゃないかと思っています。
手塚先生の作品の根底にあるのって、ヒューマニズムでしょう。僕個人としては、手塚マンガのように、人の心に響くような面白いマンガをもっと読みたいと思います。やっぱりマンガって「読んで希望が持てた」「人生が変わった」みたいなものであってほしいですよね。
[了]
山崎潤子
ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。
バックナンバー
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