虫ん坊

関係者インタビュー 私と手塚治虫 三浦みつる編 第1回 漫画少年、「漫画家への道」に葛藤する

2023/01/05

関係者インタビュー

私と手塚治虫

第1回 漫画少年、「漫画家への道」に葛藤する

文/山崎潤子

 手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。今回は、『The♥かぼちゃワイン』の三浦みつる先生です。高校在学中にデビューされ、のちに手塚プロダクションでのアシスタントを経験されました。三浦先生の若かりし頃のお話とともに、手塚治虫とのエピソードなどを語っていただきました。

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PROFILE

三浦みつる(みうら・みつる)

 漫画家。1954年横浜市生まれ。高校在学中に「世にも不幸な男の話」で『週刊少年ジャンプ』(集英社)のヤングジャンプ賞を受賞。高校卒業後、会社員を経て手塚プロダクションでアシスタントを務める。1983年、『The♥かぼちゃワイン』で第7回講談社漫画賞少年部門受賞。2017年に漫画家引退を宣言。


■子どもの頃に一番好きだった漫画は......

───三浦先生は、やはり子どもの頃から漫画がお好きだったんですか?

クラスに大抵1人や2人いるような、いわゆる"漫画少年"でした。ノートに漫画を描いてみんなに見せるというタイプの小学生。だから、もともと「漫画家になりたいなあ」っていう夢はあったんです。

───当時はどんな漫画を?

すでに『サンデー』や『マガジン』といった週刊漫画誌も創刊していたけど、子どもの頃はまだ『少年ブック』『少年画報』『少年』といった月刊漫画誌を読んでいました。もちろん手塚先生の漫画も、リアルタイムで読んでいましたよ。

それに小遣いも少ないから、毎週なんて買えないでしょう。月に一度、小遣いで月刊の漫画誌を買うのが楽しみでした。月刊誌は付録もついていますからね。

───どんな漫画が載っていたんですか?

『少年』なら、『鉄腕アトム』『鉄人28号』『電人アロー』がSF3大漫画でした。他にも『ストップ! にいちゃん』や『サスケ』なんかも読んでいたなあ。

でも、どの漫画が一番好きだったかといえば......。本当は『鉄腕アトム』って言いたいけど、僕は『サスケ』が一番好きでした。あの頃の白土(三平)先生って、すごくかわいらしい女の子を描いていたから(笑)。

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『鉄腕アトム』が月刊『少年』に連載されたのは1952年〜1968年。まさに三浦先生の子ども時代にぴったりリンクしている。

■かわいい女の子を描きたい!

ペンを使って描き始めたのは、中学に入ってからです。石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』。これが僕らの世代のバイブルでした。その後手塚先生の『まんが専科』が出たけど、初級編だけで上級編は出ずじまいでした。これがのちの手塚先生のカッパ・ブックス版『マンガの描き方』につながるわけです。

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『まんが専科 初級編』(1969年)※画像は講談社全集版『手塚治虫のまんが専科』

漫画の初歩的な技術やストーリーの組み立て、漫画家としての心構えなどを解説している。漫画好きの少年、加藤(久男)君が、漫画について徐々に学んでいくストーリー仕立てになっている。

───ではまず、石ノ森先生の本を参考にしていらしたわけですね。

そういえば、石ノ森先生も女の子の絵がかわいいじゃない(笑)。

───当時の漫画好き中学生男子としては、かわいい女の子を描きたいという欲望が......。

もちろん、手塚先生の女の子もかわいいんですけど、どちらかといえば中性的に感じましたね。大人になった今見ると、なかなか色っぽくてかわいいんだけどね。

───手塚先生の女子キャラは、どちらかというと気が強いというか、自分を持っている子も多かったですよね。

■漫画家を目指すには「覚悟」がいる

───それから、まっすぐ漫画家の道を......?

漫画家になりたいという気持ちはありましたが、当時の世の中の雰囲気は、今と違います。「漫画を読んでいると馬鹿になる」なんて言われるし、ましてや「漫画家になって飯を食う」なんて、とんでもないっていう時代です。

───親御さんの反対もありましたか?

ありました。漫画家なんて、当時はよほど特殊な才能がないとダメとか、あるいは親兄弟捨てて......みたいな感覚でしたね。

しかも、中学に上がったときに親父が死んで、うちは母子家庭になったんです。きょうだい3人で、僕は長男だから、親戚のおじさんなんかに「お前は高校を出たら就職して、家を助けるんだ」って、なんとなくレールを敷かれちゃったんです。

───漫画家は特殊な職業という感覚だったんでしょうか。

今なら自分の発表するメディアもたくさんあるし、漫画誌の数も多いし、出版のツテがなくてもSNSで発表できるし、コミケに参加する手もある。選択肢が多いですよね。僕らの頃は漫画誌しかないし、その数も今よりは少ない。限られた発表の場で仕事をとるのは、並大抵ではありませんでした。

───しかも手塚先生や石ノ森先生みたいに、何誌にも渡って何本も連載されている大御所もいます。

どの漫画誌も大御所が連載しているから、新人発掘に力を入れようという時代じゃなかったと思います。

ただ、今の時代はある意味恵まれているけど、ハングリーさがなくなっているような気もする。僕らの時代はたとえデビューできても、続けていけるかどうか、覚悟しないといけない状況でした。漫画家であり続けるって、かなり難しいことですから。

───今は発表の場も多いからこそ、副業などでライトに漫画を描くこともできる。でも当時は、漫画家を目指すのにも「覚悟」が必要だったんですね。

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■自問自答のサラリーマン生活

そんな家庭の事情もあって、高校卒業後はとりあえず就職したんです。高級家具を取り扱う会社で、ヨーロッパからライセンスを受けて日本で製造していました。僕は生産管理の担当で、製品を検品して納めるという、営業と生産の中間みたいな仕事をしていました。

───サラリーマンをされていたわけですね。

親戚の叔父が機械関係の工場を持つ社長で、高校卒業したらそこにこいって言われていたんです。それが嫌で嫌で、ささやかな反抗で家具の会社に入りました。

仕事自体は苦痛じゃなかったんですが、毎朝同じ時間に出勤してタイムレコーダーを押して......っていう生活がどうにも苦痛で。

人に時間を管理されるのが、苦手だったんですね。僕は高校時代、勝手に週休2日制にして土曜日は休んで、家で漫画を描いているような人間でしたから。

───当時は土曜日、学校ありましたよね(笑)。時代の先を行っていたわけですね。

そのときはさすがに担任が家まで来て、このままじゃ卒業できなくなるって怒られました(笑)。

就職のほうは家の事情もあったから、しかたない。漫画は仕事をしながら少しずつ描いていこうと思っていたんです。

でも、会社で働いている間、時間に追われて1本も漫画を描けなかったんです。「このままでいいのか」「漫画をあきらめて、ここで働き続けるのか」という自問自答の日々でした。

■漫画の壁に突き当たった

結局、家具の会社は半年で辞めました。

思い悩んで出した結論です。まだ二十歳前だったけど「いつまでも若いわけじゃないし、行動を起こすなら今しかない」って。チャレンジして、本当にダメなら漫画はあきらめようと思いました。

会社を辞めて自分を追い込んだら、もうあとがない、やるしかないんです。本気度でいえば、人生で一番本気を出した日々だったと思います。

───覚悟を決めて、自ら背水の陣を敷いたわけですね。

あとになって、「あのとき、うちの長男は死んだものだと思ってあきらめた」って、おふくろに言われました。女手一つで苦労して、少しは楽ができると思ったら、頼みの長男が半年で会社を辞めてきたんですからね。

その後は一度東京に出て、住み込みで新聞配達のアルバイトをはじめました。朝2時半に起きて、朝刊の折り込みをして配達、少し寝て、昼頃に起きたらまた夕刊の折り込みと配達。3畳一間の狭い部屋でね、結局、漫画を書く時間なんてないんです。また実家に戻って、アルバイトをしながら自宅で描かせてもらうことにして、そのあたりから、やっと完成原稿ができるようになりました。それをせっせとフレッシュジャンプ賞や手塚賞なんかに応募したり、持ち込みで編集者にネームを見てもらったりもしました。

でも、応募しても佳作止まりで、今ひとつ手応えがなかったんです。

───ようやく漫画を描ける時間ができたのに、うまくいかなかった......。

作品づくりに対する壁みたいなものに突き当たったわけです。

僕は高校3年のときにヤングジャンプ賞を受賞して、誌面に読み切りが掲載されたことがあるから、すでにデビューはしたことにはなっていたんです。一応一度は掲載してもらって、原稿料をもらったから、それが漫画家としてのデビューとは言えるんだろうけど......。そこからが厳しかったわけです。

───デビューしてプロに手がかかっている。手がかかっているから、逆にあきらめられませんよね。

半年で会社を辞めるという覚悟ができたのも、一応誌面デビューして原稿料をもらったという経験が大きかったのかもしれません。「そのあとを続けなきゃ」という思いがありました。あのとき賞をとっていなかったら、あきらめていたかもしれませんね。

〈次回は、三浦先生が手塚プロダクションでアシスタントになった経緯を伺っていきます。〉


yamazaki.jpg山崎潤子

ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。


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