虫ん坊

関係者インタビュー 私と手塚治虫 吉村昌輝編 第1回 新人の制作担当からアニメーターへ

2022/09/12

関係者インタビュー

私と手塚治虫

第1回 新人の制作担当からアニメーターへ

文/山崎潤子

 手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。今回は虫プロダクション時代からアニメーターとしてさまざまな手塚アニメに関わってきた吉村昌輝さん。当時の関係者からは「軍曹」というあだ名で呼ばれています。アニメ制作の裏側や苦労話、そして手塚治虫とのエピソードなどを語っていただきました。

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PROFILE

吉村昌輝(よしむら・まさてる)

 手塚プロダクションアニメーター。1965年に虫プロダクション入社。のちに手塚プロダクション動画部門に参加。ライオンブックスシリーズOVA『雨ふり小僧』では絵コンテ・演出・作画監督を務める。


■「運転免許」があったから入社できた!?

───吉村さんが虫プロダクションに入社されたのは、いつ頃ですか?

 19歳の頃でした。1965年(昭和40年)、東京オリンピックの翌年だったのを覚えています。入社は7月で、11月に20歳になりました。

───やはり、もともと漫画やアニメがお好きだったんでしょうか?

 子供の頃から漫画が大好きでした。近所のお兄ちゃんの家で、『少年』という漫画雑誌をよく読んでいました。初期の頃の『鉄腕アトム』のZZZ(スリーゼット)総統の話なんて、わくわくしながら読みました。新関健之助さん、うしおそうじさん、武内つなよしさんあたりも好きでしたが、やっぱり手塚治虫、アトムが一番でしたね。

 だから、虫プロダクションはあこがれの会社でした。

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『鉄腕アトム』ZZZ総統の巻

人間を廃人にするガスを使う陰謀団ZZZZZZの本拠地に乗り込むリヨン大統領の息子ロベールとアトムだが、ZZZ総統の正体は意外な人物だった──

───絵を描くのもお好きだったんですか?

 もちろん好きでした。画用紙で紙芝居みたいにお話をつくって、近所の子供に見せたりしていましたね。

───入社のきっかけは?

 アニメの仕事がしたくて、高校3年生のとき『ジャングル大帝』のアニメーション制作の募集を見つけて応募したんです。でも、そのときはまだ高校も卒業していなくて、落ちてしまいました。

 卒業後、懲りずに募集を見つけて再度応募したんですが、新しい履歴書を見てもらったら、「車の運転ができるんですね」と言われて採用になりました。高校卒業してすぐ、運転免許をとっていましたから。

───なぜ運転免許で採用になったんですか?

 アニメづくりは絵描きばかりでは成立しない、運転ができるなら制作(進行)の仕事をやらないかということだったんです。制作は外注さんや撮影所回りの仕事がありましたから、車の運転ができるといいというわけです。

 制作でもなんでも、あこがれの虫プロダクションで仕事ができるならなんでもいいと、二つ返事でした。それに、制作で入社したとしても、編入試験を受ければアニメーターにもなれると聞いたんです。

■ランニングに半ズボン、はちまき姿で現れた!

───手塚先生と初めて会ったのは、入社してからですか?

 初入社の日は、7月で夏の暑い盛りだったと思います。アニメーターや僕と同じ制作など、同期入社の数名が集められて、手塚先生から新入社員に激励の挨拶をいただきました。

 現れた先生は、ランニング、半ズボン姿、タオルで頭にハチマキを巻いた姿。仕事中だからもちろんトレードマークのベレー帽もかぶっていません。それが初対面だったから、「え! 仕事中はこんな感じなのか」って驚きましたよね。

 他の先輩たちに聞いたら、先生が新入社員を集めて檄を飛ばすなんてことは初めてだったそうで、うらやましがられたのを覚えています。

───先生は30代半ばの頃ですね。

 僕らは高校を卒業したばかりでしたが、当時は立派な大人に見えました。今思えば、先生もまだ若かったですよね。

───檄を飛ばすというと、どんなお話を?

 さすがに細かいことは覚えていませんが「アニメ制作は本当に大変な仕事だから、体だけは気をつけて頑張ってください」みたいな話だったと思います。アニメの大変さは、先生が一番良く知っていたんでしょう。

 漫画を描くのも大変な仕事だけど、先生とアシスタントが何人かいればなんとかなる。でも、アニメはそうはいきません。とにかく人手が必要で、人海戦術でやらないと回らないんです。

───しかも、当時はまだ日本のテレビアニメの黎明期ですよね。

 毎週30分番組でアニメをつくるなんて、当時はありえないことでした。アニメ制作の実情を知る人たちは「毎週30分なんて、そんなの無理に決まっている」と言っていたそうです。それをやってしまったのが手塚先生です。

───虫プロダクションはかなりの大所帯だったわけですよね。

 最高で400500人くらいはいました。僕が入った頃はその半分くらいかな。僕のような平社員からすれば、手塚先生は雲の上の存在でした。

■大きな瓶を抱えて外注回りの日々

───制作のお仕事で、苦労話などはありますか?

 僕は仕上げ制作といって、外注先を回って仕上げの回収をしたり、スケジュールを調整する仕事をしていました。たとえば夜中に、外注の仕上げ担当さんの家まで車で引き取りに行くんです。引き取るだけならいいですが、外注さんのところで絵具を補充しなきゃならない。寝静まった団地で、ガチャガチャ音を立てながら絵具の入った大きな瓶を7本も抱えていくんです。仕上げの人と「早くしてよ。もうこの色がないんだから」なんてやりとりがありましたね。

───絵具の持ち運びも重労働ですね。今では考えられないほど、制作工程が多かったでしょうね。

 今は彩色もパソコン上でできるし、カットの持ち運びもデータでやりとりできますからね。当時はすべてアナログですから、本当に大変でした。

 これはずいぶん後の話ですが、北京にある手塚プロの子会社・北京写楽にはアニメの指導で頻繁に行き来をしていて、北京に行くたびに「吉村くん、ついでにこれも、これも持っていって」なんて言われて、セル画や絵具が詰まったトランクを3つも4つも持たされる。これがまた重いんですよ! 制作担当がトランクの数を減らそうと、やたらと詰め込むんです。運ぶ人のことも考えずにね。その結果、石のように重くなったトランク......マジで蹴っ飛ばしたくなった(笑)。北京から帰ると、3日くらい体のあちこちが痛かったのを覚えています。

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■制作よりも気楽!? なアニメーター

───そして、念願のアニメーターになられるわけですよね。

 入社から7ヵ月後に制作からアニメ部に移って、アニメーターの仕事をすることになりました。

───編入試験に合格したわけですね。

W3(ワンダースリー)』班でアニメーターを募集していたんですが、僕は中にいて、すぐ横で現場を見ていたから、要領がわかっていたんですよ。練習もしたから、編入試験では僕が一番成績がよかったんです。当たり前ですよね(笑)。

 制作よりも現場のアニメーターのほうが大変そうに思えるでしょうが、僕個人としては制作のほうが大変でした。制作は全体を見ながら、人の仕事の管理をしなければいけないですから。

───なるほど。忙しいと、胃が痛くなりそうですね。

 カットを失くして原画マンに泣きつくなんてしょっちゅうでした。外注さんでも、間に合わなくなるとカットを勝手に捨てて、最初からなかったことにしちゃう人がいるんですよ。今となっては笑い話ですが、当時は「おいおい、そりゃないぜ」という感じでした。

───それだけ現場は切羽詰まっていたんでしょうね。

 とはいえ、アニメーターになれば自分の仕事だけまっとうすればいいわけだから、忙しくても気が楽でした。他人の仕事の責任を負わずに済みますからね。

───吉村さんが入社された当時は、アニメでいうと何をやっていた頃ですか?

 1963年から続いている『鉄腕アトム』、それから『W3』が始まった頃でした。『W3』はどちらかというと、資金稼ぎのための仕事だったんじゃないかな。僕が入社してしばらくしてから、カラーの『ジャングル大帝』が始まりました。

───『鉄腕アトム』『W3』はモノクロですよね。当時一般家庭にはまだカラーテレビは多くなかった時代でしょうか?

 当時は皇太子殿下の結婚式(1959年)や東京オリンピック(1964年)で、一般家庭にもテレビが増えていった時代です。モノクロはかなり普及していましたが、カラーテレビはまだ高価でした。会社には20インチのカラーテレビが何台かありましたが。日本で初のカラーのTVアニメ『ジャングル大帝』は1スタ、2スタにあった20インチのカラーテレビで全社員が集まって観ました。当時カラーテレビは珍しかったので。

 そういえば、モノクロテレビでカラーテレビの雰囲気を味わうために、青、黄、赤と、国旗みたいな色をつけた透明なカバーのようなものを取り付けて、カラーテレビ風なんてやっていた時代です。

───すごい工夫ですね(笑)!

[次回へ続く]


yamazaki.jpg山崎潤子

ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。


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