文/山崎潤子
手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。今回は『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』のアニメ脚本を手掛けた辻真先さん。1950年代から始まったテレビ業界の裏話、過去から現在に至るまでの漫画やアニメの話を交えながら、手塚治虫との思い出を語っていただきました。
PROFILE
辻 真先(つじ・まさき)
推理作家、脚本家、エッセイスト。1932年愛知県生まれ。名古屋大学文学部卒。草創期のNHKでドラマ・バラエティ・歌番組などの番組づくりに携わったのち、『鉄腕アトム』『巨人の星』など、テレビアニメ脚本を数多く手掛ける。さらに作家として本格ミステリ、旅行エッセイ、アニメのノベライズなど広範囲に渡り作品を執筆。1982年に『アリスの国の殺人』で第35回日本推理作家協会賞(長編部門)、2019年に第23回日本ミステリー文学大賞受賞など。2021年には、さまざまな名作アニメの誕生秘話を綴った『辻真先のテレビアニメ道』を上梓。
───当時の世相のようなものは、番組制作に影響はありましたか?
昭和35年頃、「刃物を持たない運動」というのが始まりました。これは少年たちの非行を防止しようという全国的な運動です。非行に走るのはナイフが悪いというわけです。だから、子供には一切刃物を持たせないようにと、PTAなんかが言い出したわけです。子供が鉛筆削りを持てないんですから、バカらしいものでしたよ。何をどうすると痛いのか、血が出るのかなんて、多少怪我して覚えるものでしょう。
だんだんテレビにも影響が出てきて、チャンバラもダメだという風潮になりました。『月下の美剣士』というドラマで剣を抜くなというんだから嫌になります。しかたがないから月下の美剣士が突然柔道の名人になりましたが(笑)。でも「人を投げるとは何事だ!」ってまた叱られました。上が咳をしたら下はマスク、現場の僕らは40度の熱を出さなきゃならないっていう時代でした。
戦中戦後の荒廃した大阪でたくましく生きる男たちが描かれている。手塚治虫自身が高塚修として登場する自伝的作品でもある。作中には戦後の映画や小説に対する制約を描いたシーンも。
───『ふしぎな少年』にも影響があったんですか?
「NHKだからドンパチはダメだろう」と手塚先生も心配されていました。でも、部長や課長は「かまいませんよ。なんでもやってください」と言っていたんです。それなのに女の子を誘拐するなんていうシーンもNGになりましたね。殺しませんからって言ってもダメでした。ギャングのボス役には強面の俳優じゃなく、三枚目の俳優にしたりして気をつかいましたよ。
手塚先生は大阪の人だから我慢強いところもあるのかな。決して愚痴らない方でしたね。でも、さすがにあのときばかりには、帰り道に二人で「あの部長さん、何をやってもいいっておっしゃいませんでしたかねえ」「そのとおりですよね」なんて会話をしたのを覚えています。
───今のテレビも言えないことが増えて、歴史は繰り返すという感じがします。
世の中には、満ち潮、引き潮がありますからね。しばらくするとまた、変わっていくかもしれませんね。でも怖いのは、じりじりと満ち潮になって、そのうちだんだん津波になっていくことに気づかず、溺れ死ぬことじゃないのかな。
たとえば戦争中、たくさんの日本人が満州に送り出されて、終戦直後は内地のことだけでいっぱいいっぱい。満州に行った150万人の日本人のことを思い出した頃には間に合わない。そういうことになるんです。
昭和12、13年頃、日本は素晴らしい一等国だという思想が流行りでした。みんなそういう気持ちだったんです。日中戦争じゃなくて支那事変と呼んだ。戦争は天皇陛下の御名御璽がないといけないわけです。たくさんの日本人が亡くなったけど、当時の外務大臣は「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」と啖呵を切って国連を脱退した。その後戦争で、日本は本物の焦土になってしまいましたが。
「八紘一宇」は「世界を一つの家にすること」で、日本が世界を占領しようという意味です。この言葉は宮崎県にある塔に刻まれて、今では平和の塔っていうことになっていますが......。
───日本全体がそういった価値観に染まってしまっていたわけですね。
そして、昭和20年8月15日の午前と午後で価値観が180度変わってしまった。僕らはそれを実際に体験しているからわかるけれど、いつ何が起こるかなんてわからないんです。
手塚先生もそういう思いで、ずっと漫画を描いていたと思いますよ。だからもし手塚漫画フリークでネトウヨの人がいたら、僕はその人に心理状態を聞いてみたいですよ。
手塚先生の漫画に『複眼魔人』というのがあるでしょう。真偽が見える少年が大人に「うそだい!」って言うわけです。あれはよく覚えていますよ。つくづく、僕と手塚先生は同じようなことを考えているなあって。「日本は絶対勝つ」なんて「うそだい!」ですよ。あれは名セリフだと思いますよ。僕も子供の頃に言いたかったです。
幼いアー坊は、目に移植された人造角膜で人の心の真偽を見抜けるようになる。やがてその能力を特高警察に利用され「複眼魔人」と呼ばれるようになるが......。
───やはり戦中、戦後の日本を経験しているというのは違いますよね。
経験しても何も感じない人もいるかもしれませんが。僕は戦後しばらくの間、アメリカ映画は観られませんでした。フランス映画やイタリア映画はたくさん観ましたが。英語を聞くと背中がむずむずするんです。だからビング・クロスビーの『我が道を往く』なんて観ていないんですよ。観たかったですけどね。
それから、僕は終戦っていう言葉が好きじゃないんです。昭和20年7月の明解国語辞典には、終戦という言葉はないです。終戦というのは、戦争に負けてからつくられた言葉です。
───手塚先生も戦争には反対でしたよね。
ただ反戦のために戦うとなれば、矛盾だと思います。実際に戦争を経験している人は、反戦というより、厭戦、嫌戦なんです。手塚先生もそうだと思います。反戦の旗を翻すのではなく、戦争は二度と嫌なんです。
───たしかに、反戦と厭戦、嫌戦では意味が違いますね。
戦争が嫌なのは、やっぱり実際に体験しているからです。家族や友達が死んだりしてね。
とにかく空襲後の焼け跡っていうのはひどいものです。大人の男は戦争に行っていないし、さすがに小学生じゃかわいそうだから、僕ら中学生が片付ける。昨夜まで燃えていたから熱いのなんのって。下駄履きで飛び跳ねながら近所中を片付けました。隣の家が買いだめしてあったさつまいもが焼き芋になっていて、焼き立てでおいしかったのをよく覚えています。
戦争で思い出すのは、イメージの世界がどんどん潰されていったことです。たとえば「コトコトコットンコトコトコットン......」というかわいらしくて陽気な『森の水車』という歌がありましたが、平和すぎて戦時中は発禁になりました。日本は戦争となったら文化や芸術はすべてご法度になってしまう。融通が利かないんです。『のらくろ』だって戦時中「漫画はけしからん」「犬が軍隊なんてけしからん」って連載は中止になりました。
アメリカは戦時中でも『姫君と海賊』(1944年)みたいなドタバタ喜劇をやっていました。劇中ですぐに壊れる手錠が出てきて、ボブ・ホープが「これ日本製だって」と小気味のいいメタで観客を笑わせる。文化をやれる余裕があったんですよね。
日本はある意味で浅いのかもしれません。そのかわりきれいな水なんですよ。対して、中国やアメリカは底が見えない深さがあるんですよね。
───戦争は二度とあってはならないですね。
それでも、戦闘は動物の本能だから、争いごとはなくならないと思います。生命っていうのはもともと自然のものだから、ある程度はなりゆきにまかせればいいんですよ。それを言ったら、僕なんていつどうなるかわからないけど(笑)。
自然災害で人が亡くなるのは、つらいけどしかたのないことです。でも、戦争や人工的な盛土の土石流で人が死ぬのはそうじゃないと思います。そこはマスコミもわれわれも線を引くべきですよね。
───生命の最期という考え方も、手塚漫画的な世界ですね。「生命とは、自然とは、地球とは」というのはSFのテーマでもありますし。
手塚先生も実際に戦争を見てきたから、ああいうSF的な漫画をたくさん描けたのかもしれません。『メトロポリス』の最初と最後に、花丸博士(ベル博士)の「いつかは人間も(その)発達しすぎた科学のために自分を滅ぼしてしまうのではないだろうか?」というセリフがありますが、これも本質をついていますよね。
『メトロポリス』の最後のページ
僕は今書いている小説を書き終えたら、迷犬ルパンが異世界に行く話を書きたいんです。世界を巨大な象や亀が支えていて端から海の水が落ちているような、地球平面説のような世界。そういうのをコメディタッチで書いたらおもしろいんじゃないかな。
〈次回はアニメの脚本をはじめたきっかけ、漫画愛などについて語っていただきます。〉
山崎潤子
ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。
バックナンバー
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