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関係者インタビュー 私と手塚治虫 伴俊男編 第3回  アシスタントが見た「手塚治虫」という天才

2021/10/11

関係者インタビュー
私と手塚治虫

第3回 アシスタントが見た「手塚治虫」という天才

文/山崎 潤子

手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。手塚治虫のアシスタントを続けられてきた伴俊男さん。その生涯を描いた伝記的漫画『手塚治虫物語』を執筆されています。当時のアシスタント生活の様子、手塚治虫とその作品への思いなどをお聞きしました。

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PROFILE

伴俊男(ばん・としお)

漫画家。1953年、京都生まれ。子ども時代からの漫画好きが高じてアシスタントを志す。1974年より手塚プロダクションにアシスタントとして参加。フリーとしての活動を経て1978年に再び手塚プロダクションに加わり、漫画部のサブチーフとして手塚治虫の創作活動を最後までサポートした。


■伴俊作と伴俊男、名前の秘密

──そういえば、伴さんのお名前はヒゲオヤジの本名、伴俊作(ばん・しゅんさく)に似ていますよね。

なぜか一文字違いでね。でも、まったくの偶然で、なんの関係もないんですよ。僕も子どもの頃に手塚先生の漫画を読んで、ヒゲオヤジの本名が伴俊作だと知ったときはびっくりしました。

──てっきり、ペンネームかと思いました。

いえ。僕のほうも本名なんです。たしかに、ヒゲオヤジの本名を知っている人には「伴俊男は伴俊作をもじったんですか?」なんて聞かれますよね。でも、名前が似ているのは偶然です。

──そんなにありふれた名字じゃないのに、運命的ですよね。

でも、手塚先生に突っ込まれたことは一度もないけど(笑)。

不思議な雰囲気を持つ天才漫画家

──アシスタントとして十数年、近くで手塚先生を見てきて、印象はいかがでしたか?

僕はアシスタントですから、手塚先生とじっくり話をするような機会はありませんでしたが、先生はいつも元気で、バイタリティの塊のような方でした。手塚先生はギャグからシリアス、SF、少女向け、歴史ものまで、なんでも描くでしょう。天才なのは間違いありません。

でも、当の本人はいつも元気でニコニコして、たまに冗談を言うようなイメージの人。うまく言えませんが、なんとも言えず魅力的で、変わっていて、不思議な雰囲気があるんです。たとえばテレビで紹介されるときの手塚先生は、多少手塚治虫らしさを演出しているようなところがありましたね。

──実際に生で接していた人でないとわからない部分があるんでしょうね。

ふだんもニコニコしているけど、漫画のことを語るときは厳しいこともありました。当時流行の劇画には批判的でしたから。

──冗談を言うのはどんなときでした?

手塚先生が冗談を言うのは、やっぱり編集者と打ち合わせをするときが多かったですね。描いている時は真剣そのものですから。次回の『ブラック・ジャック』をどうするかみたいなことを話しながら、よく冗談を言って、みんなを笑わせていましたよ。

■手塚治虫はデフォルメされた漫画キャラそのもの

──手塚先生といえばありえない多忙ぶりで有名ですが、伴さんが実際に経験したエピソードはありますか?

たとえば空港まで車で移動するとき、手塚先生は車の中でペン入れまでするんです。下書きならわかるけど、車の中であそこまでやる人は、見たことも聞いたこともありません。

それに、手塚先生はキャラクターをほぼすべて自分で描いていました。キャラが描けるアシスタントもいましたが、まかせませんでしたね。あんなに忙しいのに、超人的ですよ。

──手塚先生の多忙ぶりはまさに漫画みたいですよね。デフォルメされたキャラみたいな。実際にたくさんの漫画になっていますが(笑)。

手塚先生のオーバーワークぶりは、デフォルメじゃなくて本物なんですよ。漫画表現的なことを実際にやっている人でした。車の中でも、新幹線の車中でも、ホテルの狭い机でも、時間があれば仕事をする。手塚先生が海外に行くときは、すぐ受け渡しができるよう僕らアシスタントも成田空港近くのホテルに泊まって描いていました。

──まさに漫画ですね!

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■天才漫画家は、ずっと青年のままだった

もしかして、編集者に対するアピールだったのかもしれませんね。「遊びに行くわけじゃない。これだけぎりぎりでやっているんだ」っていう。実際、手塚先生は海外の漫画関連のイベントに招待されることが多かったんです。本人も行きたい気持ちはあるだろうけれど、原稿を待っている編集者たちは笑顔で見送れない。それがわかるから、ぎりぎりまでやっているという姿をあえて演出したのかも。実際のところはわかりませんけれどね。

──伴さんは手塚先生が亡くなった前後も、手塚プロダクションにいらしたんですよね。

詳しい事情はよくわかりませんでしたが、病気になって、入院されても、手塚先生はずっと仕事をされていました。病院からも背景の指定が送られてきましたから。

僕はもう先生が亡くなった年齢よりもはるかに年上になってしまったけれど、手塚先生はその生涯を全力疾走で走り続けたんだと思います。考えてみると、手塚先生ってずっと青年のままでした。少年から青年になって、そこからは精神的に歳を食わなかったんだと思います。

──たしかに、いろいろな方に話を聞いても、手塚先生の印象って青年ですね。

■劇画ブームを生んだのは手塚治虫だった!?

手塚先生の偉業は、ストーリー漫画を日本に根づかせたこと、シリーズ物のテレビアニメを初めて毎週つくったこと。そしてもうひとつ、生涯「手塚治虫らしさ」をもって作品を描き続けたことでしょうね。

──考えてみると、手塚先生がストーリー漫画を切り開いたことで、劇画ブームが生まれたようなものですね。

ストーリー漫画から劇画へというのは、自然な流れですよね。手塚先生は劇画風の作品もたくさん描かれましたが、そちら側には行ききれなかったわけですが。

──自分で流れをつくってしまったものの、手塚先生は劇画があまり好きではなかったんですよね。

手塚先生には「漫画は子供のもの」っていう信念がありました。でも、手塚漫画を読んで育った世代が大人になって劇画を描いたり読んだりするようになって、だんだんリアルなタッチとストーリーの劇画が全盛になっていったわけですが。

■好きだったのは、大人向けのSF漫画

──伴さんは、子どもの頃から漫画がお好きだったんですか?

好きでしたね。もともと絵を描くのが好きだったんです。絵を描くのが好きな子って漫画を読んだり描いたりするでしょう。当時は白土三平の『カムイ伝』『忍者武芸帳』、それからさいとう・たかを(さいとうプロ)の劇画マガジン「ゴリラマガジン」などの貸本を読んでいました。

僕が子どもの頃は漫画が盛り上がっていた時代でした。そしてテレビでは『鉄腕アトム』をやっていたでしょう。アトムに続けとばかりに、いろいろなアニメがはじまった時代でもあります。TVアニメーションも盛り上がって、子供心にも新しい文化が生まれつつある雰囲気を感じました。

──手塚漫画も読んでいたんですか?

もちろんです。

──心に残っている作品はありますか?

ひとつに絞るのは難しいですね。僕はもともとSFの愛読者だったから、手塚先生のSF漫画が好きでした。「SFマガジン」に連載された『鳥人大系』なんて好きでしたね。

SFという意味では『鉄腕アトム』もそうですが、アトムは本質的にヒーロー物なんです。僕はそれより、少し地味な『ザ・クレーター』のような、ちょっと大人向けのものが好きでしたね。

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『鳥人大系』(1971年〜1975年)

地球の鳥類が知能を持ちはじめ、鳥人となって地球の支配者となる。人間は家畜として扱われ、鳥人は同じように国家、社会、階級を持つ文明を築いていくが、やがて人間と同じ道をたどろうとするが......。

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『ザ・クレーター』(1969年〜1970年)

ミステリー、怪奇、サスペンスなどを散りばめた連作短編シリーズ。どこからともなく聞こえる鈴の音に罪を責められて苦しむ「鈴がなった」、一度だけ運命を変えることができるという「八角形の館」、敵の基地に墜落しして戦死したと誤解される「墜落機」などが収録されている

──手塚漫画は幅が広すぎて、好みが分かれますよね。

手塚先生は、いつも新しい試みをされていました。手塚漫画って基本的にはギャグが入っていたりして楽しいものが多いですが、『アドルフに告ぐ』『陽だまりの樹』のようにシリアスな劇画調の名作もある。僕はどちらかというと大人向けの話のほうが好きでしたが、先生はエンターテインメントとして劇画も描いていた。それがすごいなと思いましたよ。

──たしかに、劇画は手塚先生のフィールドじゃなかったですからね。

手塚先生がどんなものを描こうとしているかなんて、編集者にだって予想がつかなかったんじゃないでしょうか。手塚先生はいくつになってもどんどん新しいものに挑戦して、おもしろいものに仕上げてしまうんですから。

(了)

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yamazaki.jpg山崎潤子

ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。


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