虫ん坊

関係者インタビュー 私と手塚治虫 瀬谷新二編 第2回 いつだって、手塚治虫はみんなの中心にいた

2020/06/15

関係者インタビュー

私と手塚治虫

2回 いつだって、手塚治虫はみんなの中心にいた

文/山崎潤子

 手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。今回は、瀬谷新二さん。手塚プロダクションのアニメーター・作画監督です。手塚プロダクション入社後の若かりし日々や、手塚先生のアニメへの思いなどを聞いていきます

PROFILE

prof_watashito_seya.jpg瀬谷 新二

アニメーション監督、作画監督、アニメーター。

1978年にアニメーターとして手塚プロダクション入社。1989年の『青いブリンク』にて作画監督補佐、サブキャラクターデザインを担当。以後、『アストロボーイ・鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『遊戯王ZEXAL』など多くの作品でキャラクターデザインや作画監督として携わる。


●はちゃめちゃスケジュールのバンダーブック

────瀬谷さんが入社1年で参加された『100万年地球の旅 バンダーブック』について教えてください。

瀬谷:最初に感じたのは「スケジュールがめちゃくちゃ」っていうことです。
高校時代に徹夜続きのひどいスケジュールで文化祭向けのアニメをつくったことがあったけど、プロはそんなことないだろうと思っていたんですよ。就業時間が決まっていて、スケジュールもきちんと組まれているものだって。
ところがそんなことはなくて、残業なんて当たり前でみんな泊まり込み、寝る場所がなくて廊下のあちこちでスタッフが寝ているというような有様でね。高校時代と変わらないなって思ったのを覚えていますよ(笑)。もちろんクオリティはまったく違いますが。

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アニメ『100万年地球の旅 バンダーブック』(1978年)

1回の『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』内で放映されたスペシャルアニメ。2時間枠でのテレビアニメは日本初で、手塚治虫が原案、構成、演出、原画までを手がけた。24時間テレビ内で最高の視聴率を記録した。

────実際の製作現場は相当タイトだったといわれていますよね。

瀬谷:とにかく人手がなかったんですよ。作画は虫プロ時代のベテランの方にもサポートで入っていただいたりして。撮影スタジオへの届けものや回収というような制作進行の手伝いも足りなくて、誰でもいいからアルバイトで集めろみたいな感じでしたよね。車の免許を持っていない人がタクシーを使って外回りをするもんだから、お金がかかるし、効率も悪いんだけど、なんとか乗り切るためにしかたがなかったんでしょうね。

 現場ではオンエアの直前になっても仕上がらなくて、急遽セルに色を塗るアルバイトを10人くらいに増やして、みんなでせっせと色塗りをしていましたよ。アルバイトさんたちもいきなり入ってさんざんこきつかわれたんだから、大変だよね(笑)。
ただ、めちゃくちゃな状況ではあったけど、手塚治虫の仕事ができるというので、みんな楽しそうだった。若かったから、部活みたいなノリでね。

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────楽しそうではありますが、現場のスタッフは大混乱だったんですね。

瀬谷:こんなひどい制作状況じゃ無理だって、制作デスクだった人が逃げちゃいましたから(笑)。当時マネージャーだった(現在の)松谷社長だって、アニメのことはわからない。で、現場を仕切ったのが、当時もっとも状況をわかっていた大学生のアルバイトの清水さん(現在は手塚プロダクション取締役)だから。サングラスで縦ロールみたいな長髪でね(笑)。

 手塚先生はやっぱり、アニメがやれるというのでものすごい意気込みがあったでしょうね。制作体制の混乱については手塚先生のせいではないと思うんですけど、なにしろはちゃめちゃでした。
結局、バンダーブックは実質1ヶ月半くらいでつくったんじゃないかな。先生ご自身が「1ヵ月半でつくっちゃったよ」なんて笑いながら言っていたのを覚えています。

────しかも、当時は画期的な作品だったわけですよね。

瀬谷:そうですね。1話30分のシリーズものが普通で、テレビでアニメスペシャルを2時間やるなんてことはありませんでしたから。しかも人手が足りないのに、手塚先生が粘って何度もリテイクを出すから、次々とやり直す作業が出てくる。その結果、ますます人手が足りなくなるんです(笑)。

────過酷なスケジュール下でも、決して妥協しないんですね。

瀬谷:複数の漫画連載を抱えながら、アニメのドツボに入るという状況だったんですけどね。手塚先生もときにはバタバタと現場に降りてきて、自らせっせと描いていましたよ。
新人たちが徹夜仕事をしている部屋で、帽子で顔を隠して机の下に頭を突っ込んで寝ていいる先生を目撃したこともありました。アニメの現場が気になって、結局自分で描きはじめて、寝る時間がもったいないからその場で寝たんでしょうね。

●手塚治虫は「激しく回転する太陽」だった

────それというのも、手塚先生の作品への情熱ゆえなんでしょうね。

瀬谷:いつだって、一番働いているのは手塚治虫自身なんですよ。
 当時の手塚先生は、巨大な渦の中の核のような人でした。激しく回転する太陽のような、ものすごい熱量を持った強烈な火の玉といった印象です。周囲の人たちは、自然とその勢いに巻き込まれていく。私のような新人は渦の一番外側のところにいて、渦に巻き込まれながらも「すごいことをやっているんだ」って遠目で見ているような感じですよね。

────アニメも漫画も、何をするにも先生がいなければ回らないわけですよね。

瀬谷:僕らのアニメ部も修羅場ですが、漫画部のスタッフだって締切間際はしょっちゅう徹夜をしている状態です。それに張り付いている漫画の編集者が何人もいて、常に殺気立っているわけで。漫画の編集者からしたら、アニメなんて目の敵ですよね。「アニメさえなければもう少し描いてもらえるのに」って。そんな状況でしたね。

────アニメと漫画で先生の取り合いのような形に?

瀬谷:当時の手塚先生の仕事の7〜8割は、やはり漫画だったと思いますよ。アニメのほうは先生が時間の合間を縫ってわーっとコンテと指示を出すという感じですから。
 4階のアトリエから2階のスタッフの現場に、時折先生がスタスタッと降りてきて、チェック済みのアニメの原稿を「よろしく」ってどさっと置いて、まだ4階に戻っていく。それだってアニメ部の現場からすればもっと早くしてほしいわけです。でも漫画のほうも連載は毎週だから、必死だよね。

────さすがに当時は先生もお疲れだったのでしょうか?

瀬谷:常に終わらない修羅場のような状況でしたが、先生は疲れ知らずというか、タフでエネルギッシュで、いつも楽しそうに見えました。
 手塚先生はなぜか、アニメーターに対してはとてもやさしくて、殺気立った姿を見せるようなこともなかったんですよ。もちろん、相手や年代にもよるのかもしれませんが。
 僕ら若手にはいつもニコニコ接してくれて、海外出張でアニメフェスティバルに出かけたときの土産話なんかも、実に楽しそうに話していましたね。「次はこういうことやりたいんです」っていうのが常にあったように思います。当時のアニメ部の中核メンバーは、家族的な雰囲気はあったかもしれません。
 もちろん、他の人たちとはトラブルもあったかもしれないけど。締切は守らないし、嘘ばかりつくって(笑)。

●2時間「も」寝てしまった手塚治虫

────手塚先生と一緒にお仕事をされていて、思い出深い出来事はありますか?

瀬谷:先生が亡くなる1、2年前かな。僕らは当時花小金井のスタジオに間借りして仕事をしていたんですが、先生は東久留米のご自宅で漫画を描いて、時折スタジオに通われていた。
 そのときは先生の仕事机が部屋の奥にあって、窓を背に先生がレイアウトを書いて、ワンカット上げるごとに、次々投げてくる。僕らはそれを受け取って仕事をするという漫画のようなペースで仕事をしていたんです。

 ある日の深夜3時頃、僕らは徹夜仕事をしていたんですが、先生が「眠くてしかたがないので今から寝ます」って、机の後ろのボンボンベッド(折りたたみの簡易ベッド)に布団を敷いて寝はじめたわけです。
 朝の5時頃、先生がガバッと起きて「今何時ですかっ?」って聞くから、「5時です」って答えたら、「2時間も寝たか」と言って仕事を続けられたんです。先生は5分か10分寝て、すぐに起きるつもりだったんでしょう。

────たった2時間で寝すぎたという感覚は、すごすぎますね。

瀬谷:先生はその時点で50代後半ですよ。それなのに、2時間「しか」寝ていないじゃなく、2時間「も」寝たですからね。当時20代だった私も、2時間しか寝ていないのにどうしてこんなにエネルギッシュに仕事ができるのかと思いましたよ。

 普通なら、そろそろ自分の体を大事にしなきゃいけない時期に、第一線を、しかも全力疾走で走り続けていたんですから。僕は手塚先生の晩年というか、ちょうど自分の20代を先生のもとで一緒に働かせてもらっていましたが、強烈な出来事として心に残っています。

────しかも、そういう生活をずっと続けてらっしゃったんですよね。多少無理されていた部分もあったんでしょうか?

瀬谷:いや、今思い出しても、仕事中の手塚先生にそういうことは感じなかったんですよ。なんというか、どうしようもない創作欲求に突き動かされているというようにしか見えなかったですね。

────エンジンのモーターが違うみたいな感じでしょうか?

瀬谷:エンジンはもちろん、初期設定も違うんでしょうね。一緒に『森の伝説』をつくっていた頃も、仕事を楽しんでいるのはもちろん、それ以上に、自然と湧き上がってくるものを止められないという感じに思えましたね。

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漫画『ドオベルマン』(1970年)
手塚治虫はある日、イギリス人の絵描きドオベルマンと夜の新宿で出会う。ドオベルマンの絵には人類への不思議な示唆が描かれていた。何かに憑かれたように絵を描くドオベルマンの姿は、手塚治虫本人と重なる。

●間に合わなかった『森の伝説』

────『森の伝説』は、手塚先生が晩年に取り組まれていた実験アニメーションですよね。

瀬谷:『森の伝説』は、広島国際アニメーションフェスティバルに向けてつくっていたものです。リミテッドアニメーションとフルアニメーションというアニメの歴史を描きながら、フルアニメがリミテッドアニメに侵食されていくような表現をしていて。どうしてもフルアニメーションで描くパートは手間がかかるんですよ。

 でも、結局『森の伝説』はその年のアニメフェスティバルに間に合わなくて。そのときばかりは、先生も怒っていましたけどね。みんな集められて、いい恥さらしだって怒られたのを覚えていますよ(笑)。

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アニメ『森の伝説』(1987年)
手塚治虫が長年構想を温めていた実験アニメーション。第1楽章から第4楽章までの4つのエピソードでアニメーションの歴史を振り返るというものだったが、最終的に完成させたのは第1楽章と第4楽章のみであり、未完の作品となった。

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漫画『モモンガのムサ』(1971年)

父親に捨てられ、森の中でたくましく生き抜くモモンガのムサ。やがて森の平和を脅かす猟師の息子と対峙することになるが......。『森の伝説』の前半パートはこの作品を下敷きにしている。

瀬谷:そのときはしかたないから『プッシュ』と『村正』っていう短編を急遽つくることになりました。それも先生がキャラを描いてコンテを描いてレイアウトを描いて、それを僕らがアニメーションにしていくわけですが、さすがにそのときの先生は楽しそうとはいかなくて、怒りながらやっていました。お前らこんなこともできないのかってね。いや、先生のようになんて、誰も無理ですって(笑)。

────『プッシュ』と『村正』は、即興でつくられたんですか?

瀬谷:その場でパパッと絵コンテが出てきましたから。それだって間に合わせるのは大変だったんですよ。声優さんのアフレコ中に、もう一本のタイムシート(アニメーションのタイミングを決めるもの)に書き込んでいたりしましたから。

────たとえ短編であっても、アニメの製作現場というのは大変なものなんですね。

瀬谷:バンダーブックのときにもマネージャーの山本(智)さんがよくこぼしていたのが、とにかく人手が足りないっていうことなんです。虫プロ時代なら社員が何百人もいて、号令をかければ一気に戦力が集められたけれど、そのときと同じ感覚で号令をかけてもそうはいかない。人を集めるのはそんなに簡単じゃないってね。
 僕は虫プロ時代の現場は知らないけれど、当時だって相当凄まじかったとは聞いています。今のようにコンピュータで色をつけられるわけじゃないし、トレースだってトレスマシン以前の時代だっただろうし。セル画に手書きでハンドトレスするのは、ものすごい人手がいるんです。

────初期のアニメというのは、膨大な数のセル画に絵を描いていくわけですね。

瀬谷:そうです。ただ、手作業のハンドトレスで描いたセル画は、今でも鑑賞に耐えうる感じで残っているんですよ。線が劣化しないから。マシントレスはカーボンで熱転写する方式ですが、どうしても年月が経つと退色してしまう。とはいえハンドトレスなんて、今では考えられないくらいの手間がかかりますけどね。

●実験アニメーションへの思い

────虫プロ時代と手塚プロになってからでは、手塚先生のアニメに対する考え方が変わられたようなところはあったんでしょうか?

瀬谷:私が言えることなのかわかりませんが......。虫プロはスタッフ数百人の大所帯でやっていて、結果倒産してしまった。だから手塚先生の中では、もう少し家族的な感じでアニメをやり直したいというような気持ちがあったのかなと想像しています。

────虫プロは大きくなりすぎて、逆に身動きがとれなくなっていたところも?

瀬谷:目が届かないし、経営を成り立たせるためにつくりたいものだけをつくるわけにいかない。たとえば虫プロ製作の『あしたのジョー』は完成度が高くて人気もあったけど、手塚治虫がつくりたかったものかというと、そうではないと思います。手塚先生としては、不本意なものもつくらざるをえないわけで。

────自分がやりたいことはたくさんあるのに......なぜ人の作品をというような?

瀬谷:そういう欲求不満があったんでしょうね。だから手塚先生は実験アニメーションをつくりはじめるわけですよ。そういえば、入社直後に先生が「商業アニメなんて見なくていいから。そのかわり『展覧会の絵』(1966)や『ある街角の物語』(1962)のような実験アニメーションを見てください」っておっしゃっていたことがありましたね。

────なるほど。『ジャンピング』や『森の伝説』もそうですよね。

瀬谷:今思えば、私が入社当時、最初に何をつくる準備をしたかといえば、『森の伝説』でした。先生は、『ジャンピング』や『森の伝説』といった作品で、実験アニメーションの可能性をもっと探りたかったんでしょうね。

────なるほど。瀬谷さんが入社された頃というのは、一からスタッフを集めて、実験アニメーションをはじめたかったのかもしれませんね。

瀬谷:ええ。そうだと思います。もともとは実験アニメーションをやりたい気持ちがあったけれど、火の鳥やバンダーブックといった仕事が入ってくる。結果、バンダーブックの評判も、視聴率もすごくよかった。そうなれば、じゃあ来年も、来年もって、先生もつい受けてしまうでしょう。

────商業アニメでしっかり稼ぐことも大切ですからね。

瀬谷:先生が「僕は商業アニメは割り切りますよ」っておっしゃっていたこともありました。でも、あの無理なスケジュールでリテイクの嵐ですから、全然割り切れてないでしょうって思ったけど(笑)。バンダーの変身シーンなんて、手塚先生が持っていって自分で描いていましたから。

────商業アニメが嫌なのではなく、やはり「自分がやりたいもの」をやりたかったのでしょうか。

瀬谷:そうですね。プロのクリエーターとして、手塚先生の中で線引きはあったでしょうが。
 もともと商業アニメの権化であるアトムで大成功したわけですから、その歴史をつくったという自負もあるでしょう。
 同時に、俺ならこうやるのにっていう忸怩たる思いもあったと思います。商業アニメと一線を画した実験アニメーションで成功したいという思いがあったのかもしません。だからこそ、『森の伝説』は納得いく形で完成させたかっただろうなと思います。(了)


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