文/山崎 潤子
手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。2人目は、小林準治さん。手塚プロダクションの作画監督です。虫プロ時代の話や手塚先生とのエピソードを聞いていきます!
PROFILE
小林 準治
アニメーター。手塚プロダクション作画監督。1966年にアニメーターとして虫プロダクション入社。フリーの時期を経て、1978年より手塚プロダクション動画部門に参加。主な参加作品に『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『千夜一夜物語』『ジャンピング』『森の伝説』など。『手塚プロが教える 動物アニメーションの描きかた』(PHP研究所)、『マンガ 手塚治虫の昆虫つれづれ草』(講談社)、『手塚治虫の昆虫博覧会』(共著・いそっぷ社)など著書多数。
────小林さんが虫プロダクションに入社したのは、1966年。その頃の話を聞かせてください。
小林:僕が18歳で入社した頃は、虫プロが元気のいいときだったんです。僕の社員番号は、たしか427番。それから入れ替わり立ち替わりがあって、翌年には社員番号が100番くらい繰り上がったけど(笑)。
────小林さんは、比較的初期のメンバーなんですか?
小林:僕の分類だけど、虫プロって大きく三期くらい分けられるんです。虫プロ設立が1961年で、杉井ギサブローさんや富野由悠季さんが一期。僕は6年目くらいに入ったから、第二期といえるでしょうね。
────当時は、虫プロの絶頂期だったんでしょうか?
小林:僕が入社する前と、入ってすぐの頃はよかったね。最初は定年までいようと思ったから(笑)。
アニメの提供会社(スポンサー)とのおつきあいも多くてね。お菓子だの牛肉だのが差し入れされることもよくあった。僕の入社前の話だけど、『ジャングル大帝』がはじまったときは、三洋電機さんから社員にトランジスタラジオがプレゼントされたっていうし。まだカラーテレビが珍しかった時代に、大型のカラーテレビが寄付されたりもしていたね。
アニメ『ジャングル大帝』(1965年〜1966年)
白きライオン、パンジャの子として生まれたレオを中心に描かれる壮大なドラマ。日本初のテレビ用カラーアニメとして大きな話題となった。
────それはうらやましいですね。ちなみに、お給料はいかがでしたか?
小林:悪くなかったよ。僕と同窓で証券会社に入社したやつの初任給が1万5千円。僕は1万7千円で、3ヵ月の試用期間が終わったら2万1千円だったから。数年で並ばれて、いまは差が開きっぱなしだけど(笑)。ただ、アニメは好きな仕事だからね。特に手塚先生がいた頃は、本当に仕事が楽しかった。
────1960年代は『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『W3』など、手塚治虫原作の虫プロ作品が大人気でしたよね。
小林:でも、徐々にかげりはあったかな。1967年に『悟空の大冒険』がフジテレビではじまって、当初は30%くらいの視聴率だったんだけど、裏番組の『黄金バット』にだんだん人気を奪われちゃって。同年にはじまった『リボンの騎士』も、視聴率が下がると一社提供だったスポンサーさんが降りちゃった。虫プロはアニメのクオリティはよかったんだけど、視聴者はそんなこと気にしないからね。
他社の『宇宙エース』や『宇宙少年ソラン』とか、いわゆる"アトムっぽい"SF作品も、だんだん飽きられはじめてきた。で、『黄金バット』や『オバケのQ太郎』みたいに、それまでとは違うヒーロー像に人気がではじめたんだよね。
1968年には『巨人の星』がはじまって、大人気になって、虫プロ社内でも好きな人がたくさんいたからね。60年代の終わりは手塚先生の作品がピークを過ぎて、だんだんアニメ化されなくなってしまった時代だね。虫プロも『あしたのジョー』『ムーミン』『アンデルセン物語』と、手塚原作以外のものをやりはじめたしね。
アニメ『悟空の大冒険』(1967年)
『西遊記』を手塚治虫がギャグ漫画としてアレンジした『ぼくのそんごくう』を原作としたアニメ。最高視聴率は31.7%を記録した。
────とはいえ、手塚先生の『鉄腕アトム』から、日本のアニメはどんどん裾野を広げたんですね。
小林:そうですね。でも、いまも昔も、アニメ制作は大変な仕事。とくにいまのテレビアニメは制作費が決まっているし、黒字どころかプラマイゼロなら御の字の時代になっちゃった。アニメーターもすぐに辞めちゃう人が多いよね。仕事は大変だし、忙しいし、給料は決して高くないから。アニメ業界が厳しいのは、最初に手塚先生が安く受注したからっていう声もあるけど、それをやらないと、テレビアニメなんてできなかったよ。
────なるほど。たしかに、好きだからこそできる仕事かもしれませんね。
小林:僕の先輩で存命のアニメーターは少ないんですよ。みんな無理するから、長生きできない。60代で亡くなる人も多いよね。80歳を超える人は珍しいくらい。早めに辞めて転職した人のほうが長生きしています。
────なんと! いろいろ体に負担がかかるんでしょうか。
小林:まず、目は悪くなるよね。何十年も(ライトボックスによって)下から光を浴びながら描き続けるから。絵を描くって、好きなことをやって楽しそうに見えるでしょう。でも、案外力仕事なんですよ。長時間集中して、力んで描くから歯も悪くなる。腰痛もすごいしね。
────ダイレクトに体に負担がかかるんですね。
小林:若い頃はリテイクが多くて、心労も多かったけどね(笑)。彩色やトレースなら比較的疲れは少ないけど、白紙から構図を決めて描くという作業は本当に疲れるよ。それを手塚先生はアイディアからやるんだからすごいよね。ペンで描くのは鉛筆と違って力がいるしね。
手塚先生の場合は、ハタから見ていてもとにかく仕事をしすぎ、睡眠時間が少なすぎでしたよ。先生のお兄さんの浩さんは90歳を超えているし、妹の美奈子さんも最近亡くなってしまったけど、80代半ばまでお元気でしたよ。
────小林さんが手塚先生と初めて会ったのは、入社してからですか?
小林:僕は高校生の頃、一度手塚先生に会ったことがあるんですよ。
文化祭の漫画展で、プロの漫画家の原画を展示したくてね。高校の先輩に杉浦幸雄先生っていう漫画家がいて、その人に頼んだら手塚先生に巻物風の紹介状を書いてくれたわけ。そうしたら一発で貸してくれた。手塚先生の他に、藤子不二雄先生、赤塚不二夫先生も貸してくれましたよ。
────高校の文化祭の展示にしては、めちゃくちゃ豪華ですね!
小林:そうそう。高校生によく貸してくれたよね。手塚先生から借りたのは『W3』の原稿。で、原稿を返しに3、4人で訪ねたら、手塚先生ご本人が会ってくれてね。そのとき、僕は図々しくも自分がつくった8ミリのアニメーションフィルムや漫画を見てもらおうと持っていたんですよ。
────先生は見てくださったんですか?
小林:アニメーションフィルムは手塚先生が、漫画はのちに漫画家となった小室孝太郎さんが見てくれたね。アニメは数分のフィルムだったけど、手塚先生に「これはあなた一人でやったのか?」って聞かれて、「はい」って。「よくセルが手に入ったね」「全部切り抜きでやりました」なんていうやりとりをしていたら、「来年試験をするから、虫プロを受けてください」って言われました。
────高校生のうちから、手塚先生とコネクションができたんですね!
小林:いやいや。先生にちょっぴり顔は売ったけど、入社試験のとき先生はいなかったからね。37人面接して、受かったのが3人かな。書類では70人以上応募があったみたいだけど。僕はずっとアニメが好きで、本当は東映に行きたかったんだけど、当時は社員をとっていなくて(笑)。虫プロは募集広告が出ていたから受けたんだけど。
────そんなご縁もあって、虫プロに入社されたわけですね。
小林:僕が入社した頃は、手塚先生もまだ40歳前くらいでね。もちろん当時も大忙しでしたよ。漫画の連載が5、6本あって、アニメのコンテやチェックもやって......。社内では、僕ら新人がおいそれと口をきけるような存在ではなかったんです。先生と普通に話せるのは、杉井ギサブローさんや山本暎一さんといったプロデューサークラスの人。あとはアニメーターの中村和子さんくらいだった。
僕が手塚先生と多少気軽に話せるようになったのは、虫プロが倒産して、手塚プロダクションが高田馬場のセブンビルに移ってからくらいだと思います。僕は一度フリーランスになっていた期間が数年あって、その頃からかな。
────手塚先生が復活した頃ですね。
小林:そうそう。『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』があたって、先生のアニメやりたい欲がむくむくと出てきたんでしょうね。
山崎潤子
ライター・エディター。
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関係者インタビュー 私と手塚治虫 第1回 華麗なる(?)手塚家の生活