虫ん坊

関係者インタビュー 私と手塚治虫 第1回 華麗なる(?)手塚家の生活

2019/10/18

関係者インタビュー

私と手塚治虫

第1回 華麗なる(?)手塚家の生活

文/山崎 潤子

手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。1人目は、手塚るみ子さん。言わずとしれた手塚先生のご長女です。家庭での手塚先生について、話を聞いていきます!

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PROFILE

手塚 るみ子

手塚治虫の長女。プランニング・プロデューサー、手塚プロダクション取締役。手塚作品をもとにした企画のプロデュース、イベント開催など、幅広い活動をしている。

手塚るみ子さんよりひと言

父・手塚治虫については「仕事への執着が半端なかった」「若い才能に嫉妬しまくった」というようなエピソードがたくさんあります。でも、娘の私からみれば、普通の父親であり、普通の家庭人であったように思います。

お父さんが漫画家という家庭は、確かにサラリーマンの家庭とは少し違うかもしれません。

でも、世の中には家がラーメン屋さんだとか、あるいは漁師さんだとか、落語家さんだとか、いろいろな職業の方がいるわけで、漫画家もそのひとつにすぎません。

一般的な家庭とくらべればいろいろ違うところもあるのでしょうが、我が家だけが特段変わっていると思ったことはないんです。


  • 育ちのよさは隠せない!

──手塚治虫先生といえば、「育ちのよさ」でも知られていますよね。たしかひいおじいさんが著名な蘭学者・医師の手塚良庵、おじいさんが検事、お父さんが財閥系の会社員という。

手塚:そういえば、うちは家族を「さま」づけで呼んでいますね。「お父さま、お母さま、お兄さま」って。あんまりないですよね。

叔母(父の妹)は父のことを「おにいま」、母のことを「おねえま」って。こういった言葉づかいは、やはり手塚家が良家だった影響かもしれませんね。さすがに「ごきげんよう」はなかったですけれど(笑)。

私が通っていた学校も、東京の割といいところのお嬢さん・お坊ちゃんの多い学校だったから、あまり違和感はなかったのかもしれません。

──手塚先生が育った宝塚という土地の影響もあるんでしょうか。ご実家は宝塚市の山の手、御殿山。隣の家には宝塚スターが住んでいたとか!

手塚:そうですね。昔から宝塚は高級住宅地でしたし、少女歌劇など文化の香りのする街でしたから。初期の頃の少女漫画には、そんな宝塚という土地で育った影響が伺えますよね。

──子供時代に吸収した文化が漫画に生かされているんですね。そして東京で売れっ子漫画家に......。

手塚:売れっ子漫画家になって贅沢ができた時期もありましたね。長者番付に載ったりして。私自身、子どもの頃からオータニ、オークラ、帝国といった、高級なホテルのレストランに連れていってもらっていました。さすがに幼くて帝国ホテルではバイキングでしたけど。

──やっぱり、上流階級です(ため息)。

手塚:そういう面では庶民的ではないのかもしれませんが、上流階級の子女といわれると、そうでもないような......。

家ではインスタントラーメンや駄菓子も普通に食べていましたよ。それは父も同じで、仕事場ではカップ麺やコンビニのおにぎりに助けられていたと思います。「カップ麺や駄菓子は食べちゃいけません」なんて、そういう家庭ではなかったので。

──......幅広い食生活の家庭だったんですね。

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少女漫画の1ページ

「カーテンは今夜も青い」(1958年)

病に倒れた歌劇のスター、目白千鳥をめぐるサスペンスドラマ。

  • 富士見台の白き豪邸

──手塚家といえば、虫プロ時代の富士見台の豪邸が有名ですよね。

手塚:たしかに富士見台の家は、少し変わっていましたね。400坪の広い敷地に、3階建ての白い大きな家。玄関を開けると、吹き抜けのホールがあって、ハリウッドスターが降りてきそうな、大きならせん階段がぐるり。一般家庭にらせん階段なんていらないと思いますけどね。

──ま、まさに、漫画や映画の世界ですね。

手塚:らせん階段については、父の「映画に出てくるような家を建てたい」っていうあこがれがあったんでしょう。変わった家を建てるということを、楽しんでいたんじゃないかな。

──ちなみに、どのくらいの広さだったんですか?

手塚:平米はわかりませんが、キッチン、ダイニング、応接間、書庫、両親の寝室、父の書斎、母の部屋、祖父母それぞれの部屋、子供部屋、アシスタントさんの部屋、編集さんの麻雀部屋、お手伝いさんのお部屋......部屋数は14か、15くらいありました。

──やっぱり、豪邸です。

手塚:家族も多いし、父の仕事場もありましたから。あと同じ敷地内に虫プロ(虫プロダクション)もあったし、虫プロの社員や編集者がいつもうろうろしているような家だったので、ある程度の広さが必要だったんでしょうね。

  • 無頓着な天才漫画家

──家庭での手塚先生って、どんな感じだったんでしょう。漫画についてはめちゃくちゃこだわるという逸話が多々ありますが。神経質な面も?

手塚:家ではどちらかといえば、何事にも無頓着だったと思いますよ。

たとえばレコード。父はクラシックが好きで、聴きながら漫画を描いていました。だからスピーカーにはこだわって、音響設備は最高のものを準備する。なのに、肝心のレコードの扱いは雑なんです。普通なら、レコードはスリーブ(ビニール製のインナースリーブ)に入れておくでしょう。でも、聴き終えたレコードはそのままその辺に放置ですよ。放置されたレコードが積み重なって、盤面はガサガサになって、かけるとノイズがすごい。それでもお構いなしなんですから。クラシックファンとは思えない(笑)。

──たしかに、いいスピーカーがもったいない!

手塚:父はどちらかといえば、音そのものよりも楽曲、メロディから広がるイメージが大切だったのでしょうね。だから雑音があっても気にならない。

──手塚先生らしいといえばらしいのかもしれませんね。

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手塚:洋服にもあまりこだわりはなかったですね。着心地は多少気にしたでしょうけど。家にいるときは、スラックスに無地のTシャツ(といっても肌着のような)といった格好で、まさに昭和の休日のお父さんって感じでした。もちろん、人前に出るときはきちんとした格好をしていましたけど。

──手塚先生といえば、トレードマークであるベレー帽とメガネですが。

手塚:その2つだけは、こだわっていたようですね。ベレー帽は山ほど持っていましたし。

父は鼻が大きいのを気にしていて。鼻が大きいぶん鼻梁も高くて、日本人向けのメガネは合わなかったみたいです。だから、海外ブランドのメガネを愛用していました。

  • 手塚家の家庭サービス

──手塚家の食卓の風景って、どんな感じでしたか?

手塚:父、母、父方の祖父母、兄、私、妹という7人家族でしたから、なかなかにぎやかでしたよ。いわゆるサザエさん一家のような感じで。ただ、父はいつも忙しくて、食卓につけないことも多かったです。父がいるときはみんなが父と話したくて、家族みんなが父を囲んで話していました。話題は流行りのものの話が多かったかな。「日本にもディズニーランドができるらしいね」とか。そういう情報は父もいち早く知っていたようで。

──忙しい手塚先生にも、家族団らんがあったんですね。

手塚:富士見台の頃は仕事場と家が同じでしたから、家にいることが多かったです。ただ、虫プロが倒産して井荻の借家に移ってからは、別に仕事場を持ったのでほとんど帰れなくなりましたね。でも思えば、当時は高度経済成長期で「モーレツ社員」の時代だし、父親が仕事一辺倒という家庭も多かったと思います。私自身、父が忙しいから寂しいなんて、あまり思ったこともなかったので。

──たしかに、当時のお父さんたちはみんな忙しかったですよね。家庭サービスのようなことは?

父はイベントを大切にする人で、クリスマスやお正月、夏休み、自分の誕生日といったときは、家族で食事に行ったり、旅行に行ったりしていました。なかなか家族との時間がとれないので、節目節目には家族サービスをしようという気持ちがあったんでしょう。ただ、自分で企画しておいて、原稿が間に合わなくて大幅に遅れてくることも多かったですが。

──なるほど。ふだん忙しいぶん、ここぞというときに家族サービスをしていたと。

手塚:もともと手塚家が、そういう家庭内の行事を大切にする家だったのかもしれません。正月はこう、クリスマスはこうっていう形が、きちんと決まっているんですよ。

だから、父との食事で思い出深いのはお正月。大晦日からお正月だけは、絶対に自宅で過ごしていました。お正月は家族そろってお祝いをして、初詣に行ったり。

──お正月だけは、手塚先生も休むんですね。

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手塚:午前中はおせちをつまんだり、おとそを飲んだりしていましたが、元旦でも午後から漫画を描いていましたね。丸一日休むということはなかなかなかったと思いますが。

──......やっぱり。

手塚:クリスマスに家族で外食をするというイベントは、私が大学生の頃まで続きました。家族での最後のクリスマスディナーは、芝公園のクレッセントというフレンチレストランだったと思います。当時の私は親と外食なんてめんどうだなあなんて思っていましたが。

──手塚先生の家族愛を感じます。

手塚:家族そろっての旅行は、祖父母の足腰が悪くなってからはあまり行けなくなりました。仕事ついでに父が母を海外へ連れていったり、母と私を神戸のポートピアに連れていってくれたり、母と妹を北海道に連れていったり。ただ、夫婦2人とか、私や妹と父母といったメンバーで、仕事のついでにいろいろなところに連れていってくれました。子供が大きくなってからは、行ける人だけ行くという、そんな感じの家族旅行が続いていましたね。

──2回「自由奔放な娘と手塚家の教育方針」に続く──


yamazaki.jpg山崎潤子


ライター・エディター。幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。



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