文/山崎 潤子
手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。濱田高志さんは、多数の手塚作品の復刻版を手掛けています。子供の頃に手塚漫画から受けた影響、手塚治虫本人との邂逅、そして現在のお仕事にどうつながっていったかなど、運命のような深い縁をお聞きしました。
PROFILE
濱田高志(はまだ・たかゆき)
アンソロジスト、編集者、ライター。
宇野亞喜良、和田誠、柳原良平といったイラストレーターの画集の企画・編集、テレビやラジオ番組の構成・出演、音楽CDの企画などを手掛ける。これまで国内外で企画・監修したCDは500タイトル以上。手塚作品の出版は国書刊行会、立東舎の一連の復刻シリーズをはじめ、『手塚治虫表紙絵集』(玄光社)、文芸誌『新潮』の特集「手塚治虫のエロチカ」(新潮社)など多数。大阪府出身。(※高は正しくは「はしごだか」)
濱田さんが企画・編集、解題をつとめた手塚治虫の珍しい作品を集めた単行本はこちら
「手塚治虫アーリーワークス」
「手塚治虫コミックストリップス」
──濱田さんといえば、手塚作品の復刻版の編集を多数手がけていらっしゃいます。さらに音楽や文学にも造詣が深いという印象ですが......。
考えてみれば、僕の仕事って全部手塚先生からの影響なんですよ。
手塚先生は子供たちに「どうやったら漫画家になれますか?」って聞かれると、「漫画家になるには、漫画ばかりじゃダメだよ。映画やお芝居を観たり、音楽を聴いたり、本を読んだりすることが大事なんだ」って答えるじゃないですか。だから僕はそれを素直に受け止めて、音楽も聞いて文学にも触れて......ってやってきただけなんです。もともと漫画家志望だったので。だから、手塚イズムをそのまま受け止めた形なんですね。
──濱田さんは子供の頃から手塚ファンだったんですか?
幼稚園の頃、父が会社の同僚からサンコミックスの『鉄腕アトム』を借りてきてくれたんです。僕はまだ字もロクに読めなくて、しかもサンコミのアトムはルビも振ってなかったから何が書いてあるかはわからない。でも、字は読めなくても絵を追っていけば話はわかるんですよ。幼稚園児ながら「漫画ってすごい」って感じましたね。それが手塚漫画との出会いでした。
──はじめて読んだ漫画がアトムだったんですか?
当時は『月刊SNOOPY』という雑誌があって、それを従兄のお下がりで全冊もらって読んでいました。だから、初めて読んだ漫画はスヌーピー、というか「ピーナッツ」。シュルツが大好きだったんですよ。モノクロページを塗り絵がわりにして遊んだりして。あとは講談社ディズニー絵本の『青い自動車』っていうのが好きで、ずっと模写して遊んでいました。
もともと丸っこいディズニータッチの絵柄が好きだったんでしょうね。そんなときにアトムに出会ったから、夢中になりました。
とくに好きだったのが、巻頭で作者の手塚先生が出てきて、アトムと話したり、お話の説明をしたりするページ。楽屋落ち的な雰囲気が子供心におもしろくて。のちにそのプロローグで編んだ作品集を自分で編集する*ことになるわけですけど(笑)。
だから、子供の頃から手塚漫画はもちろん、手塚先生自身にも親しみがあったんです。
*立東舎『鉄腕アトム プロローグ集成』
それに、僕が子供の頃は『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『悟空の大冒険』と、夕方になると手塚アニメの再放送があったんです。だから、アニメと漫画が同時に入ってきた感じですよね。
──多感な子供時代に手塚アニメと手塚漫画を吸収したわけですね。
手塚先生のファンのなかには「漫画は好きだけどアニメはちょっと...」っていう人もいるし、逆に作品によっては、アニメは観ていたけど原作漫画は読んだことがないっていう人もいますが、僕はどっちも好きなんです。
小学生になって字が読めるようになると、アニメのオープニングやエンディングをじーっと見ていました。そこで冨田勲や宇野誠一郎っていう名前を覚えて「音楽はこの人たちがつくっているのか」って意識したりして。脚本やアニメーション担当の名前までチェックして、今回は誰々だからよかったなとか。小学生の頃からそんな視点で観ていました。
──そ、それはすごい小学生です(笑)。
幼少時は大阪に住んでいたんですが、僕が小学生の頃は、兵庫のサンテレビと京都のKBS京都で虫プロ版のアトムの再放送を長い間やっていて、それぞれ異なる時間帯に別の回を放送していたから、アトムを1日2本観られたんです。リアルタイムのアトム世代じゃないけど、たまたま再放送のものをたっぷり観られる地域にいたんですよね。
──普通なら観られないのに、これも運命なのかも......。
関西在住の方は結構見ていたと思いますよ。そうこうしているうちに、24時間テレビで新作の『100万年地球の旅 バンダーブック』が放映されたわけです。それが初めてオンタイムで観た手塚アニメの新作で、僕は小学校高学年でした。『アニメージュ』の創刊3号目の表紙がバンダーブックで、それから『アニメージュ』を読むようになりました。毎号は買えないから立ち読みでしたけど。
アニメ『鉄腕アトム』(1963年〜1966年)
日本初の連続テレビアニメ(週1回・30分番組)として、日本のアニメーションの礎を築いた作品。最高視聴率は40%を超え、一大ブームを巻き起こした。
──小学生くらいになると、漫画もどんどん読みはじめますよね。
オンタイムだと、『ブラック・ジャック』や『三つ目がとおる』ですね。『ブラック・ジャック』は僕が中学生に上がってもずっと連載されていましたから。
仲のいい友達のお兄ちゃんがチャンピオンを買っていたんだけど、読み終えていらなくなったのをもらってきて、『ブラック・ジャック』のところだけを取り外して、集めて自分で製本していました。
──す、すごい。すでに子供の頃から編集していたんですね(笑)。
当時僕の周囲では『ドカベン』『マカロニほうれん荘』『らんぽう』あたりが人気で、小学生男子はだいたいそっちに夢中になるんです。でも、僕はやっぱりB・Jや三つ目派だったんですよね。だからまわりの友達とは微妙な温度差がありました(笑)。
──わー、懐かしい。たしかに手塚漫画は雰囲気が違いますよね。ドカベン派とB・J派との違いってどんなところなんでしょう。
もちろん『ドカベン』もおもしろく読んでいました。当時は野球が花形スポーツで『ドカベン』が好きな子はみんな野球部だったりして。漫画も世の中の流行りとリンクしますから。
でも、手塚漫画って世の中の流行りに直結していなかったような気がします。もちろん時事ネタは入っているんですけど。だから、色褪せないし、いつ読んでも世界観に没入できる。
普通の漫画は「次はどうなるんだろう」っていう次号への引きがあるけど『ブラック・ジャック』はほぼ読み切りでしょう。だからいつでも読めるし、何度読んでもおもしろい。僕にとって、他の漫画は一度読んだら終わりっていう一過性のものだったけど、手塚作品はずーっとおもしろいんです。しかも、単行本で読むと少し改変されていたりして発見もあったり(笑)。
──手塚先生の漫画は、雑誌掲載から単行本化されるときに本人の意向で改変されることが多いわけですが、濱田さんも当時から気にされていたんですか?
小学生の頃、講談社の『手塚治虫漫画全集』の刊行がはじまったんです。
ちょうどその頃手塚プロダクションが「手塚治虫ファンクラブ」をつくって、ファンマガジンの発行をはじめるんですが、僕はもちろん創刊0号から会員になりました。たしか漫画全集にファンクラブ設立の投げ込みチラシが入っていたんですよ。当時は「手塚治虫ファンクラブ京都」というのもあって、会費はたしか年5000円。子供にとっては安くないですが、なんとか親にねだって入会しました。
で、当時ファンクラブ京都が、昔の手塚漫画を雑誌掲載時そのままで復刻版として出していたんです。『ピストルをあたまにのせた人びと』『ぐっちゃん』『流線型事件』とか。
それで僕も小学生ながら、手塚先生の作品は(オリジナルの)雑誌や別冊ふろくと単行本では違うんだってことを知ったんです。実際自分の持っている雑誌の切り抜きと単行本を比べてみると、コマ割りなんかが違うんですよね。そういう認識を持ったら、雑誌のスクラップは捨てられなくなりました(笑)。
──たしかに、捨てたらオリジナルが二度と読めなくなるかもしれない!
手塚作品が掲載された漫画雑誌も集めていましたが、すべて揃えるには小遣いが足りないんです。だから貰い物ばかりでしたね。あとは廃品回収のために紐でくくられている漫画雑誌をくすねてきたり(笑)。
──昭和の子供はお金をかけずに工夫して楽しんでいましたよね。
チャンピオンの増刊号で、ブラック・ジャックがまるまる1冊にまとまった号を友達のお兄ちゃんが持っていたんです。なんとか譲ってもらおうとしたんですが、そういうのはなかなか手放さないんですね。だから友達の家に居すわって、しつこく読み続けて。そうしたら向こうが根負けして「じゃああげるよ」って。そんなこともありました。
昔は駅のゴミ箱に読み終えたばかりの漫画雑誌がたくさん捨てられていたから、高校生や大学生になってもゴミ箱を漁ってました。さすがに今は、そんなことしませんけど(笑)。
──手塚先生の膨大な作品群を雑誌と単行本両方で追いかけるなんて、大変なことですからね。ファンは苦労しますよね。
講談社の『手塚治虫漫画全集』も、毎月4冊刊行だったんですよ。しかもあれは普通の単行本より価格が高い。小学生の小遣いではなんとか月1冊だったから、当然追いつかない。だからお年玉でまとめ買いしたり、古本屋を探したりして地味に集めましたね。当時は大都社から出ていた単行本のシリーズやKC(講談社コミックス)も出るたびに買っていましたから、お金がいくらあっても足りないんです(笑)。
──濱田さんは手塚先生の古い作品も、子供の頃から読んでいたんですか?
僕は漫画を読むのも描くのも好きだったんです。そういう当時の漫画少年は藤子不二雄先生の『まんが道』を読むわけですよ。そこには主人公の満賀道雄と才野茂にとって神様のような存在として、手塚先生がどーんって登場するじゃないですか。
作中の満賀道雄と才野茂は手塚先生の『新寳島』や『ロストワールド』に衝撃を受ける。僕は『まんが道』を読みながら同時に桃源社の復刻版『ロストワールド』を読んだりしているから、どこか時間軸がおかしなことになってる。でも、どちらも新鮮でしたね。。時代的には『新寳島』や『ロストワールド』は古い漫画で、昔からの読者にとっては復刻だけど、初めて読む僕らにとっては新作ですから。だから、僕にとっては流行りは関係なく、常に新しい手塚作品を読んでる感覚だったんですね。
漫画『新寳島』(1947年)
死んだ父親が残した宝島の地図を見つけたピート少年が、宝探しの航海に出かける冒険譚。手塚治虫の単行本デビュー作で、40万部のベストセラーとなった。
──『まんが道』を読みながら、主人公たちと同じ気持ちで『新寳島』を新鮮な気持ちで読んでいたわけですね。
当時『新寳島』の復刻本は出ていなかったので、『ジュンマンガ』に掲載されたもので読んでいました。手塚漫画って、古いものも新しいものもずっと読めるんです。ジャンルだってSF、ギャグ、歴史、サスペンス、大人っぽいものもあるしで、読むたび新発見があってまったく飽きない。初期の作品はコマ割りや段組みも細かくて1ページの密度が濃いし、読めば読むほどおもしろいんですよ。
しかも、『鉄腕アトム』のプロローグや『バンパイヤ』のように、手塚先生自身が漫画のあちこちに出てくるじゃないですか。ベレー帽にメガネ、デフォルメされた大きめの鼻でね。だから読者としては、手塚先生に対してとても親しみを抱いてるんですよ。僕なんて幼稚園の頃からですから。しかも、『まんが道』では、ものすごい神様のような存在として描かれている。だからますます惹かれるんですよね。
次回は、「一ファン」としての、手塚先生との邂逅をお聞きします。
山崎潤子
ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。
バックナンバー
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関係者インタビュー 私と手塚治虫 第2回 自由奔放な娘と手塚家の教育方針
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