虫ん坊

関係者インタビュー 私と手塚治虫 華平編 中国と日本、縁で結ばれた手塚治虫との出会い

2020/07/20

関係者インタビュー

私と手塚治虫

中国と日本、縁で結ばれた手塚治虫との出会い

文/山崎潤子

 手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。華平さんは手塚プロダクションで制作進行を務めています。アニメとの出会い、来日して手塚プロダクションの門を叩いた経緯など、当時の思い出を交えてお聞きしました。

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華 平

アニメーター。中国の上海美術電影制片廠でアニメ制作に携わる。1988年に来日、東京外国語大学卒業後、1995年に手塚プロダクション入社。現在はラインプロデューサーとして、さまざまなアニメの制作進行を務める


中国アニメの巨匠を師とした少年

────中国出身の華平さんは、なぜアニメ業界に?

華:僕は小さい頃から絵が好きで、暇さえあれば落描きやいたずら描きばかりしていました。

母は小学校の教師でしたが、担任のクラスにおてんばな女の子がいたんです。男勝りで、木登りや泥んこ遊びが大好きで、少しもじっとしていないようなね。

ある日の父兄会で、その女の子のお母さんが「この子のおじいちゃんは有名なアニメーターで、絵の勉強をしたければこれほどいい条件はないのに、うちの子にはまるでその気がない」と嘆いていたそうです。そこで母が「うちの息子は絵が好きだから、ぜひ教えてください」とお願いしたわけです。

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────そのおじいちゃんというのは、どんな方だったんですか?

華:それが、万籟鳴(ワン・ライミン)先生でした。中国人初のアニメーターで、「中国アニメ界の父」といわれる人です。だから僕は幸いにも、万先生のもとでアニメの勉強をはじめることができたんです。万先生との出会いが、僕が手塚プロダクションで働く遠因になったんです。

*万籟鳴:1900年生まれ。中国初のアニメーション作家で、長きに渡って中国アニメを牽引した。日中戦争下の1941年、双子の万古蟾(ワン・グチャン)、弟の万超塵(ワン・チャオチェン)とともに、アジア初の長編アニメーション映画『西遊記 鉄扇公主の巻』(原題:鉄扇公主)を制作した。

────万籟鳴さんといえば、手塚先生が子どもの頃からリスペクトしているという......。

華:手塚先生は万三兄弟がつくった『西遊記 鉄扇公主の巻』を中学生のときに観て、大きな影響を受けたそうです。

 手塚先生はもともとディズニーのアニメが大好きでした。ディズニーアニメはおもしろいけど、日本とはユーモアのセンスが違うでしょう。お隣の国、中国がつくったこういう作品のほうが日本人に受ける、だからこういうアニメをつくりたい。そう考えたそうです。

────手塚先生のアニメ制作のきっかけにもなったわけですよね。『西遊記 鉄扇公主の巻』に影響を受けて、『ぼくのそんごくう』が描かれたわけですし。

華:日中国交正常化以降は、手塚治虫先生と万籟鳴先生は実際に親交があったんです。手塚先生は亡くなる前年、1988年に上海で開かれた第1回国際アニメフェスティバルにも足を運んでくださり、万籟鳴先生とお会いしたそうです。

────万籟鳴さんに影響を受けたという点では、手塚先生も華平さんも同じですね。

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『ぼくのそんごくう』(1952年〜1959年)

『西遊記』をベースに描かれた漫画作品で、『西遊記 鉄扇公主の巻』に大きく影響を受けている。この作品を原作に、テレビアニメ『悟空の大冒険』(1967年)がつくられた。

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『手塚治虫物語 ぼくは孫悟空』(1989年)

日本テレビ『24時間テレビ「愛は地球を救う」』で放映されたテレビスペシャルアニメ。子どもの頃に『西遊記 鉄扇公主の巻』のアニメを観て感銘を受け、戦争を経て、いつか自分も孫悟空のアニメをつくるという夢を果たす手塚治虫の半自伝的な内容となっている。手塚治虫が一番会いたい人物として、万籟鳴本人との出会いも描かれている。

痛感した「日本語」の高い壁

────華平さんが来日されたきっかけは?

華:僕は万籟鳴先生に指導を受けながらアニメの勉強をはじめて、高校はアニメの専門学校に入りました。その後、万先生がいらした上海美映(上海美術映画製作所)という当時中国唯一のアニメ制作会社で、アニメーターを5年ほどやっていたんです。そこで原画から動画、レイアウトまでかかわって、アニメ制作の基礎を教えてもらいました。万先生とのご縁のおかげですね。

 そして1988年、「21世紀に10万人の留学生を日本に受け入れる」っていうブームに乗って来日したんです。中曽根首相の時代ですね。正直なところ、当時は出稼ぎみたいな人も多かったですけど。

もちろん万籟鳴先生にも相談しました。「日本で何がやりたいのか?」と聞かれて、「アニメがやりたいです」って答えたら、手塚プロダクションへの紹介状を書いてくださったんです。

────では、来日後はすぐに手塚プロダクションに?

華:いえいえ。やはり言葉の壁がありました。中国にいた頃、独学で3ヵ月くらい日本語の勉強をしましたが、実際には全然歯が立ちませんでした。来日当初は友人のところに身を寄せたんですが、ある日その友人がなかなか帰ってこなくて部屋に入れない。隣の部屋のおばあさんが「お国はどこですか?」って声をかけてくれて、「中国です」って答えたら、日本の中国地方だと思ったらしくて、まったく話が噛み合わなかったのを覚えています(笑)。

 そして、最初に手塚先生にお会いしたのは1988年の415日でした。万籟鳴先生の紹介状を持って会いに行ったんです。そうしたら、先生はわざわざ中国語の通訳を雇って、会ってくださったんです。紹介状も翻訳したんでしょうね。

────初対面ではどんな話をしたんですか?

華:僕は率直に「雇ってください」ってお願いしたんです。でも、「わかりました。まずは日本語を勉強してください」って言われました。いまならよくわかりますが、アニメをつくるには打ち合わせや意見調整が必要だし、言葉が通じないと何もできないから。

────でも、忙しいなか通訳まで雇って会ってくださったんですね。

華:手塚先生も万籟鳴先生の紹介では無下にできなかったんでしょう(笑)。そのときは秋頃に絵のテストをするから、また来てくださいと言われました。そして約束通り、その年の10月頃にまた会ってくださったんです。社長の松谷さんも同席で。

 僕がたどたどしい日本語で少しだけ会話をすると、手塚先生が「あっ、ずいぶん進歩したね」と言ってくださったのをよく覚えています。文法も発音もめちゃくちゃだったけど、単語を覚えるのは子供の頃から得意だったから、そのときは単語を並べてなんとか会話ができたんです。

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『新・聊斎志異 叩建異譚』(1987年)

17世紀、清代中国に書かれた妖怪や幽霊などの話を集めた短編小説集『聊斎志異』に手塚治虫が影響を受け、モチーフとした漫画。戦帰りの叩建は美しい胡玉に誘われて彼女の復讐を手伝うことになるが、しだいに胡玉の意外な一面に気づくことに......

入社を叶えてくれた「手塚治虫の遺言」

────手塚先生が亡くなる前年ですよね。先生の印象はいかがでしたか?

華:写真で知っている手塚先生と違って、ずいぶんお痩せになられていました。先生って、丸顔のイメージでしょう。でも、そのときは面長に見えました。顔色もよくなくてね。でも、先生が寝ずに仕事をするのは有名でしたから、過労だろうと軽く考えていました。重い病気だとは思いませんでした。

 たしかに外見は変わられていましたが、お元気だったんです。明るくて、よく通る声で話されていましたね。手塚先生はサービス精神が旺盛といわれるでしょう。いま思えば、体調が悪くても人と会うときは明るく振る舞っていたんじゃないでしょうか。元気のない姿は見せたくなかったんでしょう。当時は気づけませんでしたが。

だから翌年に先生が亡くなったと聞いたときは、本当に驚きました。青山墓地の一般参列には僕も日本語学校の授業を休んで参列しました。

────すぐに入社したわけではなく、ずっと日本語の勉強をされたわけですね。

華:日本語学校に通ったあと、東京外国語大学の日本語専攻に合格して、大学に行きました。僕は子供の頃から絵ばかり書いていたから、理系は全然ダメで。でも、歴史は好きだからいろいろ覚えられたんですよね。倍率は高かったですが、試験が文系だけだったから運がよかったと思っています(笑)。

 大学を卒業してから、前にもらった松谷社長の名刺の番号に電話して、「大学を卒業しました。手塚プロダクションに入りたいです」ってお願いしたんです。そうしたら、松谷社長が「手塚先生の遺言だからしかたない」って。なんだか、ズルをしたような感じですけど(笑)。そんなわけで、1995年に手塚プロに入社しました。あれからもう25年です。

────来日早々手塚先生にお会いして、それから大学に入って日本語を学んで、約束を果たして入社したわけですね。初志貫徹ですごいです。

華:運と縁に恵まれたんでしょう。大学を卒業したときには一応就職活動もして、銀行にも受かったんですが、僕はやっぱりアニメがやりたかったんですよ。

日本のアニメ業界は、情熱がつくった

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────手塚プロダクションの社員でも、世代的に手塚先生と実際に会ったことがない人が多いそうです。華平さんは先生と実際に会って話ができたぎりぎりの世代ですね。

華:僕がお会いしたときは、先生はまだ60歳にはなっていなかった。きっと先生は100歳まで生きるだろうという感覚でいましたから、まさか翌年に亡くなるなんて、夢にも思いませんでしたね。

────中国にいた頃から、手塚先生の存在は知っていたんですか?

華:もちろんです。中国ではTVアニメの『鉄腕アトム』が大人気で、僕も夢中で見ていましたから、手塚先生はあこがれでした。

 僕が仕事をしていた頃の上海美映は劇場作品しかつくっていなかったから、テレビシリーズのアニメっていう概念がなかったんです。いまはテレビアニメなんて当たり前だけど、当時は本当に独創的な発想だったんですよ。

 ただ、中国にいた頃は、アニメの『鉄腕アトム』しか知らなかったです。中国で『鉄腕アトム』の漫画が読めるようになったのは、アニメをオンエアしたあとでしたから。当時は版権の事情もあったんでしょうね。

────中国から見た手塚治虫や日本のアニメは、どんな印象なんですか?

華:中国も2004年から国策でアニメ産業を推進しはじめて、イベントやシンポジウムが増えたんです。そこで日本の専門家が登壇すると、みなさんこのように話すんです。

「日本のアニメ産業は考えてつくられたものじゃない。あとからついてきたものだ。アニメを好きな人たちが情熱をかけてやってきた結果だ」って。

 中国は最初からアニメをビジネスモデルとしてとらえているけど、本来情熱を持った開拓者には理路整然とした考えなんてないんですよね。それは手塚治虫という人物を知れば、よくわかることです。アニメ制作では相当無理なことをしたといわれるけど、それってお金のためじゃなく、やりたいことをやりたかったから。無理しなきゃ実現できなかったんです。最初から採算を考えたら、できないですよ。

────華平さんご自身の手塚先生への思いって、どんな感じでしょう。

華:これは僕自身の考えですが、手塚先生は予言者みたいだと思っています。アトムに出てくるハイウェイは首都高みたいだし、ロボットが人間のかわりに複雑な仕事をこなせるようになっている。AIとか地下都市とか、どんどん現実化しています。たまたまひとつの事象が合致したなら偶然かもしれないけど、それがたくさんある。あの時代に、なぜ予測できたんだろうって思います。

 きっと先生は、情報を吸収するとき独特な理解がはたらくんでしょうね。ものすごい速読家だったといわれますが、情報の吸収量と消化能力が超人的で、それが結果として予言のように作品にあらわれたのかもしれません。

────たしかに、生きるスピードが速かったですよね。

華:中国の言葉に「天上の1日は地上の1年」というものがありますが、そう考えるとやっぱり先生は神様ですよね。別に神格化するわけじゃなくて、能力が超人的なんですよ。

 手塚先生は本当に、不可能なことを成し遂げる不思議な人。たくさんの作品を量産するだけじゃなく、忙しい中アニメの地位を上げようと、無理をしてさまざまなイベントに出席されていました。そういう意味でも、先生は漫画とアニメの神様なんです。しかも、偉くなっても原稿やアニメの仕事をこなしながらですから。本当に、不世出の人物だと思っています(了)。


yamazaki.jpg山崎潤子

ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。


バックナンバー

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