虫ん坊

関係者インタビュー 私と手塚治虫 池原 しげと編 第1回 『鉄腕アトム』にあこがれて、手塚治虫を目指した少年

2020/08/18

関係者インタビュー

私と手塚治虫

第1回 『鉄腕アトム』にあこがれて、手塚治虫を目指した少年

文/山崎潤子

手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。池原しげと先生は中学生のときに『鉄腕アトム』に出会い、漫画を描きはじめました。手塚治虫のアシスタントを務めたあと、漫画家として、またアニメの世界でも大活躍。そんな池原先生に、アシスタント時代の思い出をお聞きしました。

ikehara_prof.jpgPROFILE

池原 しげと

漫画家。手塚プロダクションで手塚治虫の漫画のアシスタント、アニメ制作などに携わり、漫画家の道へ。手塚治虫のキャラを描くのがうまく、『ふしぎなメルモ』など、学年誌で手塚治虫原作の漫画を担当することも。『魔女っ子メグちゃん』などのTVアニメ企画にも多数関わる。代表作に『ロックマン』シリーズ、『ファミコン風雲児』など多数。




24時間交代制! 極貧のアシスタント生活

────池原先生は漫画のアシスタントとして、手塚先生と一緒に仕事をされていたんですよね

池原:そうです。僕が手塚プロダクションに入社したのは1970年だから、手塚先生はまだ40代でしたね。

────当時の仕事場はどんな感じでした?

池原:仕事場は西武池袋線の富士見台の駅前の、2階に「オーロラ」って喫茶店の入っているビルの3階でした。そこには作業場(スタジオ)と、応接室と、アシスタントの仮眠室があって、手塚先生もアシスタントも同じスペースで仕事をしていましたよ。アニメは虫プロだし、経理やマネジメントの部署は別の場所にあったから。

僕が入社してから1年ちょっとで、同じ富士見台の越後屋ビルに移ったんです。越後屋ビルは、2階、3階、4階と、全部手塚プロが借りていて、少しは広くなった。ただ、その頃から虫プロ(商事)のほうがガタガタしてきて、僕が入って1年半くらいで潰れてしまったんですよね。

────まさに、激動期ですね。

池原:そうですね。ただ、景気は右肩上がりで、社会全体としてはいい時代でしたよ。先生のSF漫画なんかを読んで、未来は宇宙に行けるんじゃないかなんて思えた時代だから。

────1970年といえば、大阪万博の年ですからね。

池原:僕も旅費は会社持ちで行かせてもらいました。漫画部(手塚プロダクション)の社員旅行みたいな感じでね。アシスタントだけで15人いたから、半分ずつ2班に分かれて。先生はVIP待遇だったかもしれないけど、僕らは普通のお客さんと同じで、シシカバブーを食べたりして、楽しかったな。

────勤務体制はどんな感じでしたか?

池原:当時は24時間交代で仕事をしていたんです。朝9時に来て仕事をして、また翌朝の9時に交代。考えてみれば8時間×324時間だから、1日で普通の人の3日分だよ(笑)。

ただ、手塚先生が途中で「今日はもうアシはいらないよ」って言うこともあったから、そういうときは家に帰れたけど。僕はその頃千葉の市川に下宿していたから、遠かったんですよ。夜の9時半を過ぎるともう帰れないから、結局仮眠室でずっと仕事をしていましたね。

────24時間勤務とは! 大変でしたね。

池原:労働基準法なんて守られてなかったよね(笑)。100時間までは残業代が出るんだけど、100時間を超えるとカット。僕がいた頃は基本給も安くて25000円。フルに残業しても手取りで3万円程度。アシスタントの中でいちばん給料をもらっていた人でも、5万円くらいだったんじゃないかなあ。

ただ、深夜まで仕事をすると会社持ちで夜食が出るから、それは助かりましたね。仕事明けは同じビルにある「オーロラ」で、みんなでコーヒーを飲んで解散。これも会社から補助が出たから。

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────当時の2万5000円って、どんな感じでしょうか?

池原:金銭的な意味では、地獄のようなアシスタント生活でしたよ(笑)。部屋代を払って、食事をしたらほぼ給料はなくなりました。僕なんて東京に出てきたばかりで、もともと何も持っていないでしょう。夏はTシャツとジーパン、冬はとっくりのセーターとジーパン。それでずーっと過ごしていました。

僕の友人で一番困っていたやつは、給料をもらうとまずインスタントラーメンを箱で買うんですよ。お金のあるうちは定食屋に行ったりラーメン屋に行ったりして、お金がなくなると給料日までは家でラーメンとごはんでラーメンライスばかり。

でも、僕が辞めた次の年に入った連中は、初任給が10万円近かったという話だから、そういう意味では運が悪かったよね(笑)。

────当時は物価がどんどん上がったから、年によってずいぶん差があったんですね。

池原:でも、あこがれの手塚先生のそばで仕事ができるんだから、薄給でもかまわなかったんですよ。十分でした。

■少年の心にアトムが情熱の火を灯す

────そういえば、池原先生は富山出身ですよね? どういった経緯で手塚プロダクションに?

池原:中学2年生のとき、叔父さんからこづかいをもらって「好きなものを買っていいよ」って言われて、たまたま買ったのが『鉄腕アトム』の単行本でした。B5サイズの光文社カッパ・コミクス版でね。

それまで漫画はあまり読んでいなかったんだけど、以来すっかりハマっちゃって。親の財布からお金を盗んで、『アトム』を全巻揃えましたね。『W3』『ジャングル大帝』『0マン』なんかも夢中で読みました。

その頃から手塚先生の漫画を模写しはじめて、だんだん手塚治虫みたいな漫画家になりたいっていう夢を抱きはじめたんです。まあ、いま思えばなれるわけないんだけど(笑)。

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『鉄腕アトム』(漫画)(1952年〜1968年)

原子力をエネルギー源とするロボット少年、アトムが活躍する物語。連載時より大人気を博し、手塚治虫の全作品の中で最も有名な作品となる。1963年からは虫プロダクション初の商業アニメとして『鉄腕アトム』が放映され、大ヒットする。毎週30分のテレビアニメシリーズは日本初。

で、とにかくなんでもいいから漫画関係の仕事につきたい、漫画を出版している会社に入れたらいいなと思って、イチかバチかで片っ端からハガキを送ってみたんです。そうしたら、秋田書店と少年画報社から高卒でもとってくれるって連絡がきてね。集英社、小学館、講談社は、高卒はとりませんっていう返事だったんですよ。で、運よく少年画報社に受かったわけです。

────すごい! イチかバチかでいい目が出ましたね。

池原:そんなこんなで東京に出てきたら、高校時代に一緒に同人誌をやっていた仲間が手塚プロに入っていたんですよ。

────え? 当時から同人誌があったんですか?

池原:いまみたいに印刷して売るわけじゃなく、いわゆる「肉筆回覧誌」だね。全国の漫画好きがみんなで原稿を寄せて、それを綴じて1冊の本にして、郵送で回し読みしていたんですよ。

────肉筆回覧誌! 当時から、同人誌のハシリのようなものがあったんですね。

池原:でも、一人あやしいやつがいてね、いつもそいつのところで本がなくなるんだよね(笑)。

で、仲間の一人が手塚プロにアシスタントで入社していて、遊びに来たら?って誘ってくれて。そんな縁で僕も手塚プロダクションで働くことになったんです。前に手塚プロのアシ募集に原稿を送ったこともあって、そのときは通らなかったけど。

────働きたかった場所で働けるのは運がいいですね。

池原:少年画報社では編集がやりたかったけど、営業部に配属されて漫画と直接関われなかったから、嫌になって2ヵ月でやめちゃったんです。というより、手塚プロが来ていいよっていうからやめちゃった。あはは。

■漫画は青いインクで描くもの!?

池原:そういえば、富山で同人誌をやっていた頃に『COM』が発刊して、そこに「ぐら・こん」っていう読者ページがあって、それが同人組織のハシリみたいにもなっていましたよ。あるときぐら・こんの富山大会みたいなものがあって、富山県内の漫画を描いている子たちが10人くらい集まって、『COM』の編集者と話をさせてもらってね。そこで手塚先生の生原稿をはじめて見ることができたんです。

当時、僕は万年筆で漫画を描いていたんだけど、なぜかといえば当時の漫画誌は青色のインクで刷られていたから、てっきり青いペンで描くものとばかり思っていたんだよね。

────なるほど。漫画は青いインクで描くものだと(笑)。

池原:あと、紙の下に国語の教科書を置いて色鉛筆でこすると、表紙の紙が凸凹していて、点描らしきものができるんですよ。トーンもやり方がわからないから、試行錯誤でね。

手塚プロに入ってからはもちろんスクリーントーンを使えたけど、当時スクリーントーンは1枚1000円くらいしたから、ものすごい高級品でした。給料2万5000円で、スクリーントーン25枚買ったら給料が飛んじゃう。だから仕事で使った残りのスクリーントーンの切れ端をかき集めて、家に持って帰って使っていましたよ。当時は貧乏だったからね。

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────でも、手塚プロにはすぐ採用されたわけですから、当時から画力があったということですよね。

池原:全然ですよ。先生の漫画をずっと模写していたおかげで、似たようなキャラが描けただけ。新人の頃は背景の効果線ばっかりやっていました。たまに本棚の小物を描かせてもらったり、机を描かせてもらったり。見開きの背景なんて、やっぱり絵のうまい先輩だからね。僕は小物専門だよ(笑)。

でも、先輩たちには「おまえらここに3年以上いたらろくなもんにならんぞ」っていう説教をされましたね。要するに、ずっとここにいれば最低限の生活はできるけど、何者にもなれないっていう意味だよね。デビューするには投稿や持ち込みをするしかないし、休みの日は絵を見に行ったり勉強しながら、自分の漫画も描かなきゃダメだなんて言われましたね。いま思えば、実際にはあんまり信憑性のない説教だったけど。

■得意な手塚キャラ、苦手な手塚キャラ

────池原先生は手塚プロ在籍中、ずっと漫画を担当されていたんですか?

池原:僕は1年半くらい漫画のアシをやって、『ふしぎなメルモ』がアニメ化されるとき、アニメ部に移ったんですよ。なぜなら、キャラの模写ができたから。当時はアニメ部に手塚先生タッチのキャラが描ける人が少なかったんじゃないかな。先生が"まるちょん"で顔を描いた絵コンテのキャラのラフをきれい仕上げる仕事を1年くらいやりましたね。原画のもとになる、フレーミングっていう仕事ですね。

────キャラが手塚先生そっくりに描けた、というわけですね。

池原:中2から高校を卒業するまで、模写ばっかりしていたおかげですね。僕が得意な手塚治虫のキャラは、70年代後半くらいのものです。先生のタッチも時代によって少しずつ変わるでしょう。アトムなら、終盤の頃のアトムが得意なんです(笑)。

────手塚プロに入る前の研究の賜物ですね。ひと口に模写といっても、時代によってタッチがあるわけですね。

池原:だから、先生が亡くなってから手塚キャラを描くオファーがきたとき、先方がどのタッチを望んでいるかによって、誰が描くのがベストかっていうのが違ってきますよね。

────それだけ先生の絵も変わっていましたからね。劇画タッチだったころもあるし。

池原:だから、何も見ずに描けって言われた難しいものもありますよ。たとえば『きりひと讃歌』あたりを描けといわれたら、元の絵を確認しないと描けないよね(笑)。

次回は「アシスタントが見た手塚治虫の実像」について、語っていただきます!

──第2回「アシスタントが見た、手塚治虫の非凡なエピソード」に続く──


yamazaki.jpg山崎潤子

ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。


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