虫ん坊

関係者インタビュー 私と手塚治虫 伴俊男編 第1回  手塚プロダクションに二度入社した男

2021/08/10

関係者インタビュー
私と手塚治虫

第1回 手塚プロダクションに二度入社した男

文/山崎 潤子

手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。手塚治虫のアシスタントを続けられてきた伴俊男さん。その生涯を描いた伝記的漫画『手塚治虫物語』を執筆されています。当時のアシスタント生活の様子、手塚治虫とその作品への思いなどをお聞きしました。

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PROFILE

伴俊男(ばん・としお)

漫画家。1953年、京都生まれ。子ども時代からの漫画好きが高じてアシスタントを志す。1974年より手塚プロダクションにアシスタントとして参加。フリーとしての活動を経て1978年に再び手塚プロダクションに加わり、漫画部のサブチーフとして手塚治虫の創作活動を最後までサポートした。


■漫画への夢を志し、手塚プロダクションへ

──そもそも伴さんは、なぜ漫画の世界に?

子どもの頃から漫画が好きだったというのが一番の動機です。美大に行きたかったけど落ちて、きょうだいが多かったから浪人は難しくて。親には就職しろって言われましたが、漫画家に憧れていたんです。僕は京都出身ですが、アシスタントに応募して、東京に出てきたわけです。

──では、高校卒業後に京都から東京へ?

親も行くなら勝手に行けって感じでした。当時、他にもそういう人はたくさんいたでしょうね。お金なんてないけど、なんとかなるだろうって。

──上京後すぐに手塚プロダクションへ入社したんですか?

最初は小室孝太郎先生という漫画家のアシスタントをしていたんです。小室先生はもともと手塚先生のアシスタントだったから、絵は手塚先生と似ていましたね。手塚先生のアシスタントで、あんなに絵が似ていて売れた人って、あまりいなかったですよ。代表作は『ワースト』という作品です。

小室先生のアシスタントをしているうちに、手塚プロダクションの手伝いに行くことがあって、手塚先生にはそのとき初めてお目にかかりました。

──そういう縁があって、小室孝太郎先生のアシスタントを辞めたあと、手塚プロダクションに入ることになったわけですね。

1970年代半ば、20歳くらいの頃ですね。漫画が大好きでしたから、手塚先生のもとで仕事ができるというのは本当に光栄なことでした。正直に言えば、前のところよりもちょっとだけ給料がよかったっていう理由もありました。こんなことを言うと恥ずかしいですけどね。

──手塚先生の第一印象はいかがでしたか?

当時、手塚先生は40代半ばだったと思いますが、とても元気で、初対面の印象はテレビや雑誌で見た通りの人でした。人前に出る時はピシッとしていて、話しはじめると、口調はとても丁寧なのに、ものすごく早口なんですよ。頭の回転が早いんでしょうね。

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■手塚プロダクションに二度目の入社!?

実は僕は、手塚プロダクションに二度入っているんです。当時漫画部のアシスタントは、だいたい2年ぐらいで辞めていくという慣習がありました。仕事に慣れてきた頃に辞めて、また新人が入ってくるという繰り返し。忙しいときは仕事が回らないから、人を集めなきゃならない。だから、ある程度慣れた人、つまり過去に辞めたアシスタントを助っ人として呼ぶわけです。僕も2年ほどで辞めてから、よく呼ばれていました。

──辞めたのに、また呼ばれるんですね(笑)。

手塚プロダクションを辞めると、みんな自分の漫画を描きはじめるわけですが、誰もがそう簡単に食えるわけじゃありません。僕も呼ばれれば手伝いに出かけていました。チーフアシスタントの福元(一義)さんやマネージャーで現社長の松谷(孝征)さんが、そういった手配に苦労されていましたね。

──手塚先生の仕事量を考えると、アシスタント集めもなかなか大変そうですね。

一度辞めた人が手伝いに顔を出すのは、漫画部の伝統のようなものでした。そういうことを繰り返しているとさすがに手間がかかるというわけで、一度辞めたアシスタント数名を常駐させて、定期的に手伝ってもらうほうがいいだろうとなったわけです。

──なるほど。それで戻ってきたわけですね。

はい。そういうわけで、再び契約社員という形で手塚プロダクションに入ったんです。そこからが長かったですね。結局手塚先生が亡くなるくらいまで、10年くらいアシスタントのサブチーフとしてお世話になっていました。

一度目のときは富士見台に漫画部があった頃、再び戻ってきた二度目のときは高田馬場のセブンビルに仕事場が移っていました。

──富士見台時代、高田馬場時代と、アシスタントを経験されているんですね。

■忙しすぎて殺気立つ富士見台時代

最初に手塚プロダクションに入社した頃は、西武池袋線の富士見台駅前の雑居ビルに漫画部がありました。当時はなんというか、はちゃめちゃでした。狭い事務所にアシスタントや編集者がごちゃごちゃっといてね。応接コーナーみたいなところでは、原稿待ちの編集者がいつもゴロゴロしているんです。さっきまでソファで寝ていた編集者が、いきなりガバっと起きて牛丼を食べに行ったり、というのが日常でした。

──当時は信じられないくらい忙しかったでしょうね。

手塚先生が忙しいのはいつものことです。ものすごい量の仕事をされていましたからね。でも、先生が本気で仕事をすると、そうなってしまうんです。余裕なんて一切ない。みんな必死で、現場は殺気立っていました。

アシスタントチーフの福元さんは大変だったと思いますよ。当時マネージャーだった松谷さんだって、ずーっと現場にいるんです。みんないつ寝ているんだろうっていう感じでね。僕らアシスタントも朝行って徹夜で仕事をして、翌朝次のアシスタントと交代という感じだったと記憶しています。

──誰かが常に仕事をしている状態ですね。

というより、当の手塚先生がいつも仕事をしているんです(笑)。

──それだけ忙しいと、締め切り前は恐ろしいことになりそうですね。

若い男性アシスタントが7、8人いましたが、ときにはケンカになることもありました。僕はできるだけケンカはしたくなかったけど、忙しい時はやっぱり疲れてきて、どうしてもイライラすることはありましたよね。

■一杯のコーヒーで現場の雰囲気が一変

でも、忙しくて雰囲気が悪くなりそうなときは、手塚先生がパン!と手を叩いて「みなさん、コーヒーでも飲みましょうか!」なんて、近所の喫茶店からコーヒーをとってくれるんです。

──先生自ら雰囲気を変えるんですね。

手塚先生は、そういう空気をつくるのがうまいんです。ひと休みしたあと「さあ、そろそろはじめましょうか!」という具合にメリハリをつけてくれることもよくありました。

これは高田馬場時代も続いていて、徹夜明けの朝、ビルの1階にある「つかさ」っていう喫茶店が開くと、先生がコーヒーをとってくれるんです。「つかさ」の娘さんらしき若い女性がコーヒーを運んでくれると、徹夜明けの雰囲気が一気に明るくなるんです。

──今はできない働き方かもしれませんが、ちょっと昭和な感じでいいですね。富士見台時代のアシスタントさんはどんな方がいらしたんですか?

同じような人ばかりじゃなく、十人十色という感じでした。絵はすごくうまいけどちょっと抜けていたり、絵はあまりうまくないけどストーリーをつくるのがうまかったりね。なかなか個性的な人も多かったですよ。

■ゆるく仕事ができた高田馬場時代

──富士見台時代は、本当に大変な現場だったんですね。高田馬場に移ってから、変化はありましたか?

富士見台時代は、みんなフラフラになりながら仕事をしていました。だから辞めていく人も多かったんです。

先ほど話したように、人員確保のために若いアシスタントと、僕らのような少し年季の入った経験者の2種類を雇っていたのが高田馬場時代です。僕らはゆるやかなペースで仕事をさせてもらって、楽な立場で関わっていたんですよ。

──ちょっと先輩的な立場、というわけですね。とはいえ、伴さんたちだってまだお若いですよね。

漫画の世界って少し世代が違うだけでギャップがありますから。今もそうだと思いますが。高田馬場で仕事をはじめたとき、僕は24歳くらいになっていました。若い人たちは20歳前後ですからね。だから、現場の彼らには「なんだこいつらは。楽しやがって」と思われたかもしれませんよね。

そういえば、富士見台時代もですが、高田馬場時代は漫画部のアシスタントからたくさんの漫画家が生まれました。石坂啓さん、高見まこさん、わたべ淳さん、堀田あきおさん......。たしか僕が高田馬場に戻って来た頃は、『コブラ』の寺沢武一さんもいらっしゃいましたね。寺沢さんなんて、やっぱりうまかったです。

──そうそうたるメンバーだったんですね。そういえば、手塚先生はアシスタントに「自分の漫画を描きなさい」とおっしゃっていたとか。

僕の世代は手塚先生から直接そういう教えを受ける機会はなかったですが、僕ら以降の人たちには手塚先生がたまに時間をつくって漫画講座みたいなものをやって、そんなことをおっしゃっていたみたいですね。

──伴さんが関わったのはどんな作品ですか?

もう昔のことですが、『ブラック・ジャック』『ブッダ』『三つ目がとおる』『火の鳥(乱世編)』あたりは覚えていますね。たくさん勉強させてもらいました。

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『火の鳥(乱世編)』(1978年〜1980年)

平安時代末期、さらわれた恋人のおぶうを追って、京の都に出てきた木こりの弁太は、牛若(のちの源義経)という少年に出会う。一方おぷうは火の鳥の生血を手に入れようとする平清盛に仕えていたが......。『火の鳥』シリーズにおいて、時代的には「鳳凰編」に続く物語。

 次回は、高田馬場のアシスタント時代、『手塚治虫物語』についてお聞きします。


yamazaki.jpg山崎潤子

ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。


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