虫ん坊

関係者インタビュー 私と手塚治虫 辻真先編 第2回  日本のテレビ番組、その夜明けを駆け抜ける

2022/03/02

関係者インタビュー

私と手塚治虫

2回 日本のテレビ番組、その夜明けを駆け抜ける

文/山崎潤子

手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。今回は『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』のアニメ脚本を手掛けた辻真先さん。1950年代から始まったテレビ業界の裏話、過去から現在に至るまでの漫画やアニメの話を交えながら、手塚治虫との思い出を語っていただきました。

prof_tsuji.jpg

PROFILE

辻 真先(つじ・まさき)

推理作家、脚本家、エッセイスト。1932年愛知県生まれ。名古屋大学文学部卒。草創期のNHKでドラマ・バラエティ・歌番組などの番組づくりに携わったのち、『鉄腕アトム』『巨人の星』など、テレビアニメ脚本を数多く手掛ける。さらに作家として本格ミステリ、旅行エッセイ、アニメのノベライズなど広範囲に渡り作品を執筆。1982年に『アリスの国の殺人』で第35回日本推理作家協会賞(長編部門)、2019年に第23回日本ミステリー文学大賞受賞など。2021年には、さまざまな名作アニメの誕生秘話を綴った『辻真先のテレビアニメ道』を上梓。


■ドラマや歌番組、すべてが生放送のテレビジョン

───辻先生は作家、脚本家などさまざまなお仕事をされていますが、NHKでテレビマンとしても活躍されたんですよね。

NHKがテレビ放送を開始したのが1953(昭和28)年。そのときテレビ番組制作の募集があって、入社した一期生でした。一緒に入社したのは6人で、右も左もわからない。それで番組をつくろうというんだから大変でしたよ。僕なんて名古屋の大学を卒業したばかりで、東京さえよく知らないんだから。

───テレビ業界の創成期ですね。当時はどんな感じでしたか?

スタジオは内幸町のNHK放送会館という立派な建物でした。今では考えられませんが、当時の番組はすべて生放送。イギリスのグリニッジ天文台からの電波を受信する時計があちこちにあるんです。たとえば時代劇を撮って、放送が終わるとカメラの向きを変えて時計をアップにして、ポン、ポン、ポンって時報を流すんです。

───今では考えられませんね。昔は正しい時刻といえば、NHKの時報だったわけですね。

そうです。時報は生活にとって大事なものだったんですよ。

───NHK時代はテレビのプロデューサーのようなお仕事を?

なんでも屋です(笑)。プロデューサーでありディレクターであり、演出、照明、大道具、小道具まで、全部やるんだからもう大変でした。衣装だけはよくわからなかったけど。ただ、当時の経験はいろいろなことに役立ったと思います。

───どんな番組をつくっていたんですか?

僕がはじめて演出をしたのはのど自慢でした。たとえば築地の魚河岸から駆けつけてきた長靴を履いたお兄さんが登場。これはいいぞと足元からパーンして雰囲気を出すとか。そういうのはおもしろかったですよ。

ドラマもたくさんつくりました。朝の連続テレビ小説第1作の『娘と私』*11961-1962年、NHK)は、僕がコンテを切ったんです。当時はラジオ畑の人が多くて、彼らは音には強いけどコンテは切れないから。

考えてみれば僕だってズブの素人だけど、いきなりコンテを切れたのは漫画をたくさん読んできたからでしょう。当時大学まで出てあんなに漫画を読んでいたのは僕だけでした。いまだに読んでいるけどね(笑)。

1『娘と私』

現在も続く朝の「連続テレビ小説」の記念すべき第1作目。原作は獅子文六。フランス人の先妻との間に生まれた娘の成長を見守る物語。ラジオドラマをテレビドラマ化し、ナレーションを聞くだけでもドラマの内容がわかるよう工夫された。これによって忙しい朝にテレビをつけてドラマを観るという習慣ができあがった。

───生放送でドラマなんて、今では考えられませんよね。

『バス通り裏』*21958-1963年、NHK)というドラマで、ゲストで偉い舞台俳優さんに出てもらったら、びっくりしていましたよ。普通は1ヵ月か2ヵ月稽古をするのに、テレビはリハーサルしてすぐに本番なのかって。

2『バス通り裏』

平日の1915分から生放送された、美容院と高校教師の家族の日常を描いた帯ドラマ番組。十朱幸代、岩下志麻、田中邦衛、米倉斉加年らを輩出した。全1395回。1960年よりカラー化された。1961年に菊池寛賞を受賞。

生放送ですから、本番で俳優がセリフを忘れるなんていうのもよくありました。俳優さんのくわえタバコが震え出したりしたら「あ、セリフを忘れたな」ってわかるんです。しかもなかなかタバコを外さない(笑)。台本を持って近くまですっ飛んでいって、小声でセリフを教えるんです。ひどいときはマイクの音声を消して、俳優の代わりに僕がセリフを言って全国放送で流れたこともありました。

ドラマにマイクが写ったり、人が前を横切ったりもしょっちゅう。放送時間1分前になっても出演者が来ないこともありました。今では信じられないようなトラブルが日常茶飯事でした。

───すごい。もうその世界自体がドラマや映画になりそうです。

実際に、当時のテレビ界を舞台にした(昭和36年)のミステリを今書いているんです。

───おもしろそうですね。そういえば、手塚漫画にも、テレビ業界を描いたものがありましたよね。辻先生と話したことがヒントになったのかもしれませんね。

そうだったらうれしいですよね。

watashitotezuka_tsuji02-01.jpg

『ブッキラによろしく』(1985年)でテレビ局に住みついた妖怪ブッキラとタレントの根沖トロ子の騒動が描かれている。

■『ふしぎな少年』を生放送でドラマ化

───手塚治虫と辻先生の出会いは、どんなものでしたか? アニメの脚本で?

アニメより前に、NHKで『ふしぎな少年』というドラマをつくったときです。

手塚先生はイメージ通りの人でした。初対面の登場シーンもよく覚えていますよ。場所はNHKで、プロデューサーたちと一緒に夜中の12時に会う約束をしていました。手塚先生がほぼ1時間遅れて登場して、「どうもどうも」って言いながら笑顔で入ってくるアングルをね。

───光景が思い浮かびますね。

僕は手塚先生に会えてうれしいものだから、漫画の話をペラペラ話していたら「僕より漫画のことをよく知っていますね」と言ってくれましたよ。僕も漫画や映画には多少詳しかったですが、手塚先生はディズニーの『バンビ』を100回以上観たというようなオタクでしょう。僕は30回くらいしか観ていないから、やっぱりかないません。手塚先生は大阪で僕は名古屋だったから、多少ハンデもありましたけどね(笑)。

watashitotezuka_tsuji02-02.jpg

先生の漫画にあった時間を止められる少年をドラマ化したいと話したら、「ああ、それなら僕が原作を描きますから」っていう感じでトントン拍子に決まってしまってね。話が早くて本当に楽でしたよ。

watashitotezuka_tsuji02-03.jpg

『ふしぎな少年』(1961年〜1962年)

時間を止める力を手に入れた少年、サブタンこと大西三郎が不思議な事件に巻き込まれていくストーリー。テレビドラマとほぼ同時に漫画が連載されることになった。

手塚先生は忙しすぎて、現場にはなかなか来られませんでした。ただ、最初の本読みのときには来てくれて、先生がセットの見取り図をささっと描いてくれたのをよく覚えています。実際のセットは部分的にしかつくれないから、全体の見取り図をカメラマンも役者も理解できたからやりやすかったんです。助かりましたよ。

■『ふしぎな少年』とジャン・コクトーの『オルフェ』

『ふしぎな少年』は時間を止めるというSF的な能力を持つ少年の話でしょう。困ったことに当時のNHKの人たちはSFを知らないから「時間を止める」っていう概念が通じないんです。上の人たちを説得するのに何ヵ月もかかりました。ジョージ・ガモフの『不思議の国のトムキンス』を科学の啓蒙書として置いておいたりして(笑)。

───当時は「時間を止める」が通じなかったんですね。

NHKの部長さんに「時間を止める」のはどういうことかと説明していたとき、ちょうどジャン・コクトーの『オルフェ』(1949年、フランス)という白黒映画がテレビで放映されていたんです。

死んだ奥さんを黄泉の国まで迎えに行くというギリシャ神話のオルフェウスの恋をベースにした話で、主役はフランスの二枚目の俳優ジャン・マレー。ジャン・マレーが異世界に行く瞬間に配達員が郵便受けに手紙を入れて、戻ってきた瞬間に手紙がコトリと郵便受けに落ちる。「時間を止めるっていうのは、こういうことです」って説明したら、やっと理解してくれました。だから『ふしぎな少年』をドラマ化できたのは、ある意味コクトー先生のおかげなんです。助かりました(笑)。

───企画を通すというご苦労もあったんですね。

カメラワークやシナリオの構成も、上を説得するのが大変でした。大人は権威主義だから「これはジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『アンリエットの巴里祭』(1954年、フランス)でもやっていました」「ジョン・フォード監督の『駅馬車』(1939年、アメリカ)であったようなシーンです」みたいに前例がないと通らないんです。あるときズームレンズを使いたくて、「ラオール・ウォルシュの『死の谷』(1949年、アメリカ)でもやってました」って言ったら通りませんでした。アカデミー賞をとっていないからですね、きっと(笑)。

───当時、SF的な表現を映像化するのは苦労されたのでは?

もちろん、当時はCGの技術などあるはずがありません。先ほど話した『オルフェ』という映画は、さまざまな映像手法を凝らしていて僕らも参考にしましたね。たとえばジャン・マレーが鏡から死の世界に入っていくシーン。これはカメラを横にして、水の中に手を入れる。そうすると鏡に波紋が広がって手から死の世界に入っていくような、幻想的な表現になるわけです。

他にも、ジャン・コクトーが死の世界の王女と一緒に車に乗って進んでいくシーンで、フロントガラスから見える光景が次第に反転したネガの世界になるんです。これは『ふしぎな少年』のドラマでも真似させてもらいました。白黒を反転させた背景セットをつくって、俳優を歩かせる。そこでカメラの陰陽を反転させると、背景がスーッと現実のようになって、俳優のほうは白黒が反転するわけです。異様なムードを出すにはぴったりでした。

───本当に創意工夫ですね。

当時のテレビ制作はとにかくお金がないから、見様見真似でやるしかありませんでした。

たとえば、ビニールの黄色いひもをドラムに巻きつけて画面にダブらせる。ドラムを回してライトを当てると、ビニールのひもが光ってちょうど雨のように見えるんです。だからいくらでも雨を降らせられました。足元は撮れないけど(笑)。そういうアホなことを考えては、いろいろやっていましたね。

■さまざまなアイデアで切り抜ける

『ふしぎな少年』で恐竜の卵を悪役と取り合うシーンがあったんです。卵を入れた箱を悪者がやけくそで放り投げたところで、主人公が「時間よ止まれ」と言うんですが、実際に止められるわけがない。しかたがないから実は手で箱の端をつかんで、写真にとる。手が見えないように撮れば、ちゃんと宙に浮いてるように見えます。長く見せるとボロが出るから、ぱっと次のカットにしちゃうんです。

あるときはガラスの問屋さんで凸凹した波ガラスを見つけて、これは使えるとひらめきました。カメラの前に波ガラスを置くと、いい感じで画面がふにゃふにゃして見えるんです。これは僕が発明した通称「メラメラ」という手法です(笑)。

───そういった映像的なアイデアが次々と浮かぶのも、漫画や映画をたくさんご覧になっていたからでしょうね。

場面の切り替えなんて写真をうまく使ったりして、自分で言うのも何だけど、うまかったですよ。つまりごまかし方がうまいんですよ。

───しかも生放送ですよね。今では考えられませんね。

生放送というのは本当に大変でしたよ。本番で赤ちゃんが泣き出したり、ラブシーン中のセットに猫が迷い込んじゃったり。ただ、生放送は番組が終わればそれで終わり。そこは気が楽でした。誰ももう一度ビデオで確認なんてできませんから。おエラいさんが生で見ていると大変ですけどね(笑)。

だんだんビデオテープに移行していくわけですが、初期の頃は高額だから「ビデオテープは絶対に切るな。お前の給料の半年分だ」なんて言われていました。でも切り貼りで編集できなければ役に立ちませんよね。俳優がセリフをトチって「ごめんなさーい」なんて言おうものなら撮り直しだから、むしろ手間がかかるんです。

───編集できないテープはつらいですね。

『ふしぎな少年』も少しずつビデオ撮影に変わっていきましたが、映像は残っていないと思います。だから思い出も自分の頭の中だけ。当時のテレビなんてそんなものでした。本当にドタバタでね。とにかくまだ誰もやってないことばかりだったから、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」っていうのがかっこいいなと思っていました。

watashitotezuka_tsuji02-04.jpg

〈次回は戦争への思いなどを語っていただきます。〉


yamazaki.jpg山崎潤子

ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。


バックナンバー

関係者インタビュー 私と手塚治虫 第1回 華麗なる(?)手塚家の生活

関係者インタビュー 私と手塚治虫 第2回 自由奔放な娘と手塚家の教育方針

関係者インタビュー 私と手塚治虫 第3回 母よ、あなたは強かった

関係者インタビュー 私と手塚治虫 小林準治編 第1回 古き良き、虫プロ時代

関係者インタビュー 私と手塚治虫 小林準治編 第2回 昆虫愛がつないだ関係

関係者インタビュー 私と手塚治虫 瀬谷新二編 第1回 冷めることがなかったアニメへの情熱

関係者インタビュー 私と手塚治虫 瀬谷新二編 第2回 いつだって、手塚治虫はみんなの中心にいた

関係者インタビュー 私と手塚治虫 華平編 中国と日本、縁で結ばれた手塚治虫との出会い

関係者インタビュー 私と手塚治虫 池原 しげと編 第1回 『鉄腕アトム』にあこがれて、手塚治虫を目指した少年

関係者インタビュー 私と手塚治虫 池原 しげと編 第2回 アシスタントが見た、手塚治虫の非凡なエピソード

関係者インタビュー 私と手塚治虫 池原 しげと編 第3回 本当にあった、手塚治虫のかわいい!? わがまま

関係者インタビュー 私と手塚治虫 手塚 眞編 第1回 僕がいま、映画『ばるぼら』を撮った理由

関係者インタビュー 私と手塚治虫 手塚 眞編 第2回 手塚治虫が『ばるぼら』で本当に描きたかった心の中

関係者インタビュー 私と手塚治虫 手塚 眞編 第3回  AIでは再現できない、手塚治虫の目に見えない演出のすごさ

関係者インタビュー 私と手塚治虫 濱田高志編 第1回  昭和時代の子供が出会った手塚漫画

関係者インタビュー 私と手塚治虫 濱田高志編 第2回  ひとりのファンと手塚治虫の邂逅

関係者インタビュー 私と手塚治虫 濱田高志編 第3回  手塚治虫がつないでくれたたくさんの縁

関係者インタビュー 私と手塚治虫 濱田高志編 第4回  「手塚作品の復刻版をつくる」意義

関係者インタビュー 私と手塚治虫 伴俊男編 第1回  手塚プロダクションに二度入社した男

関係者インタビュー 私と手塚治虫 伴俊男編 第2回  富士見台時代から大きく変わった高田馬場時代へ

関係者インタビュー 私と手塚治虫 伴俊男編 第3回  アシスタントが見た「手塚治虫」という天才

関係者インタビュー 私と手塚治虫 辻真先編 第1回  89歳の今でも、最新漫画やアニメまでチェック


CATEGORY・TAG虫ん坊カテゴリ・タグCATEGORY・TAG虫ん坊カテゴリ・タグ