文/山崎潤子
手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。今回は虫プロダクション時代からアニメーターとしてさまざまな手塚アニメに関わってきた吉村昌輝さん。当時の関係者からは「軍曹」というあだ名で呼ばれています。アニメ制作の裏側や苦労話、そして手塚治虫とのエピソードなどを語っていただきました。
PROFILE
吉村昌輝(よしむら・まさてる)
手塚プロダクションアニメーター。1965年に虫プロダクション入社。のちに手塚プロダクション動画部門に参加。ライオンブックスシリーズOVA『雨ふり小僧』では絵コンテ・演出・作画監督を務める。
───当時のアニメ制作はどんな感じでしたか?
現在はデジタルが主流ですが、少し前のアニメ制作と、それほど大きく違うわけではありません。シナリオがあって、絵コンテを描いて、原画を描いて、それをもとに動画を描いて、仕上げ(彩色)をして、背景を描いて、撮影して......という工程です。ただ、本当にたくさんの人手が必要なんです。
───動くキャラクターは、いわゆるセル画ですよね。
そうです。動画担当が描いた動画を、トレーサーがペンできれいにトレースする。で、それを裏から仕上げ担当が色を塗っていきます。
───30分番組で、セル画は何枚くらい必要なんですか?
基本は3コマ撮りのリミテッドアニメですが、それでも3000枚前後は必要ですね。枚数は回によって変わりますが。2000枚で済めばかなり楽なほうです。演出家によっては必要枚数がどんどん増えてしまうこともあって、プロデューサーのほうは「これ以上増やすな!」なんていう攻防がありましたね。キャラクターの目や口だけを動かして表現するのは、手塚先生が考案した手法です。
※リミテッドアニメ:制作費や制作時間を減らすため、アニメーションを簡略化する手法。フルアニメーションは1秒24コマで24枚の絵を動かすが、同じ絵を2枚使う2コマ撮り、3枚使う3コマ撮りといった手法、また、目や口だけ動かす、背景だけ動かすなどの手法がある。
───1枚にさまざまな工程が必要だというのに、それを3000枚とは、大変な作業ですね。
セル画が棚にずらーーーっと並んでいる光景を、今でも思い出します。
特に仕上げの彩色は時間がかかるんです。色を塗りながら、息をフーフーしながら乾くまで待たなきゃならない。さらに、気泡が入らないように気を使う作業です。
───それは時間がかかりそうですね。
色によって乾きやすい色と乾きにくい色があって、白なんて全然乾かない。乾きやすいのは黒とかの濃い色。だから、白っぽい色は最後のほうに塗るんです。黒い色が乾いていれば、ある程度上から塗れますから、だいたい順番を決めながら塗っていくわけです。
モノクロ時代は、全部で黒~白の7色のグレーを使って塗り分けていました。今はデジタルですから、そういったアナログ作業が省けて格段に進化しましたよね。
───何が一番大変でしたか?
もう、すべてが大変でした。僕は実家の八王子から通っていたけど、通勤は電車とバスを乗り継いで1時間以上かかる。時間がもったいないから、1週間に一度家に帰る、という感じでした。
───今は働き方改革などでそういう働き方はできなくなってきていますが、当時はそれが当たり前だったんですね。
でも、その分いい加減なところもあって、忙しい仕事の合間を縫って息抜きしていました。夜の7時か8時まで仕事をしたら、ちょっと飲みに出て、朝方帰ってきてタイムカードを押す。そうすると残業代ばっかり増えちゃうんです。さすがに残業代をこんなに払ってられないと、そのうち上限ができましたが。上限を超えた分は8時間で1日の代休に振り替えられる。でも代休なんて使っている暇はないから、代休ばかりが増えていく一方で......。
───お給料はいかがでしたか?
一般企業に勤めていたまわりの友人とくらべれば、当時の虫プロの給料は本当によかったですよ。もちろん残業代も含めてですが、残業がなくても悪くはなかったと思います。給料は月2回、1ヵ月分を2回に分けて支払われるんです。給料日に近くの寿司屋に行くと、たいがい誰かに会うんですよ。
───月に2度もお寿司が食べられるのは豪勢ですね(笑)。
僕は八王子が実家だから、子供時代の記憶は八王子にありますが、大人になってからはずっと会社にばかりいたから、富士見台のあたりは第二の故郷のような感覚です。実際、八王子のことは忘れているけど、富士見台のことはよく覚えていますから。
でも、一般企業とアニメ業界の現在の経済事情は大逆転。世界のアニメ文化を支えているのに、国内の業界人たちの暮らしぶりは悲惨なもの......。同じ技量なら、中国のアニメーターのほうがいい生活をしています。小さなアニメ会社の社長でも、お金持ちになってベンツに乗っている人もいますよ。
───スタッフは若い人が多かったんですか?
みんな若かったですね。先輩だって2つ上とか4つ上とか、ほとんど20代の若者でした。
───じゃあ、当時30代の手塚先生はずいぶん年上に感じられますね。
とはいえ先生もまだ若かったから、演出家とはよくやり合っていましたよ。意見が合わないと、もうバチバチのケンカ状態。お互い譲らないんですね。昔はそういう骨のある演出家が多かったような気がします。天下の手塚治虫だからといって、遠慮せず言いたいことを言うみたいな。
『ジャングル大帝』のプロデューサーだった山本(暎一)さんなんて、「アニメのほうは私の作品だから先生は口出ししないでください。全部私にまかせてください!」と言って、先生に入らせませんでしたから。
出﨑(統)監督もそうでした。『あしたのジョー』で難しい作画があると、「なんとかやってくださいよ。私の作品なんだから!」ってアニメーターたちに言うんです。「いや、原作はちばてつや先生だろう」っていうツッコミは置いておいて(笑)。
手塚先生だけでなく、アニメの監督さんはけっこうわがままな人が多いですね。
「動けソロモン」の回では、プールで溺れたピノコを助けたアニメーターの青年が登場。青年のアニメにかける情熱、そしてアニメ業界の厳しい実情が描かれている。
───アニメにはアニメの演出や技法があるということなんでしょうね。アニメについては自分のほうがいいものをつくれるという......。
それだけ自信があるから言えるんでしょうね。そういう気概を持った人は多かったように思います。実際、出﨑さんの作品はおもしろいですから。
そういえば、手塚先生が亡くなられたあとも制作が続いていた『聖書物語』は、監督を何人替えてもイタリアのTV局(ライ)からOKが出ず......という状態でしたが、出﨑監督・杉野昭夫(アニメーター)コンビに入ってもらったらすべてOK。難局を乗り切ることができました。
───手塚先生も、力のある人は認めるというスタンスだったんですか?
もちろんそうです。
───手塚先生がアニメーターに無理を言うようなことは?
僕自身は仕事上で先生と密接に関わるわけではありませんでしたから、そういうことはありませんでした。
でも、上の人たちが先生とケンカして「もうこんなの無理だよ」「全然スケジュールのこと考えてない」「勝手だよな」「やってらんないよ」みたいな文句や愚痴を言うのをよく聞いていました。それでもみんな辞めずにやっていたんだから、アニメの仕事が好きだったんでしょうね。
───みなさん文句は堂々と言っていたんですね(笑)。
先生も、自分が無理を言っているのはわかっていたんでしょう。でも、上がらないものはしかたがない。だから「頑張りましょう!」って言うしかない。そう言われると、ついみんな頑張っちゃうんです。まあ、本人が一番頑張っているわけですが。
■伝説の虫プロダクション「3階」で起きたこと
───アニメーターになってからの苦労話はありますか?
忙しいのはもちろんですが、一番は、うまく描けないときの苦しみです。焚き火を描こうとして、石油コンビナートの大災害みたいな炎になってしまったり。悪戦苦闘の日々でした。今でも夢に出ますよ(笑)。
───当時はアニメ表現も前例が少ないですよね。絵に関する勉強会みたいなのはあったんですか?
モデルさんがきて、みんなでクロッキー(素早く描写すること)の練習をすることがありました。会場は3階の仮眠室で、まあ寝るための布団がいっぱいあって。女性のモデルさんがヌードでその布団の上で横たわったりすると、みんな悶々としていましたね(笑)。特にきれいなモデルさんが来ると、直接絵には関係ない制作の人まで、みんな勉強会だといって仕事場から消えるんです。男たちばかりね。
───なるほど。うれしい教育プログラムですね(笑)。
そういった仕事以外のことをするのは、虫プロダクション伝説の3階でした。ここは本当に面白いエピソードがごまんとある場所なんです。
───伝説の3階って? どんな場所なんですか?
1階が主に総務などの管理部門、2階がアニメ制作の現場、さらに屋根裏部屋のような3階があったんです。梁がむき出しになっていて、奥のほうに行くとだんだん天井が低くなる。押入れに布団があって、スタッフが仮眠をしたり、休んだり、会議をしたりするようなところです。だだっ広い感じで、20〜30畳くらいはあったように思います。
───会社で寝泊まりするときなども?
もちろん3階です。ラッシュの試写会(未編集のフィルムを確認する)などもやっていました。暗幕にもなる黒いカーテンを閉め切って、部屋の一方にスクリーンを貼って。だいたい徹夜明けで、暗い中プロジェクターのカラカラカラカラっていう音がしているから、もう眠くて眠くて。ラッシュが終わると、いつも誰かがグーグー眠っている。途中から入ってきた外注さんが、不慣れな低い天井の梁に頭をぶつけてそのままラッシュも見られずに気絶しちゃったこともありました。鉄の梁は中が空洞になっているので、カーン、っていういい音がしてね。
───みなさんの多目的ルームか集会所みたいな存在なんですね。
本当にいろいろな思い出のある、面白い場所でした。豪雨の日にトイレに行くのが面倒になって、3階の窓を開けてみんなで立ちションしたりして。「そっちは手塚先生の母屋だぞー」なんてふざけてね。
寝泊まりしたり、何かとみんなで集まったり、話したり、という場所でした。下手すれば外部の人が寝ていてもわからないんじゃないかという感じで(笑)。もちろん、ときには手塚先生が顔を出すこともありました。
当時虫プロで働いていた人は、みんな3階に何かしらの思い出があると思います。他のことは覚えていなくても、3階のことは覚えているんじゃないかな。
───いまでも建物自体は残っているんですよね。
建物は現存しています。当時としては最先端のモダンな感じの建物でした。もう築60年くらいになると思います。
建物の向こう側には先生の母屋と仕事場がありました。そちらは虫プロダクション倒産のときに売りに出されてしまって、今は8軒分くらいの家が建っているようです。
───そういえば、吉村さんは「軍曹」と呼ばれていらっしゃいますが、あだ名のエピソードは?
『コンバット!』というアメリカ陸軍を描いたテレビドラマが大好きで、米軍のヘルメットをアメ横で買ってきてかぶっていたんです。だから先輩に「軍曹」っていうあだ名をつけられた。他にも西部劇が好きでテンガロンハットをかぶったやつがいて、制作で外回りをするときに、ひとりはテンガロンハット、ひとりはヘルメットで行くという(笑)。変な会社ですよね。
───いろいろな意味で、自由ですね。
当時は先輩があだ名をつけることが多かったんです。小林(準治)くんもいまだにキバさん、キバ坊って呼ばれています。彼の場合は暗闇でニヤッと笑うと歯が光ったように見えたっていうことで。
───みなさん、仲がよかったのが想像できます。
そうですね。若い人ばかりだから、仕事場でもよくふざけたり、いたずらをしていました。
夜遅く、アニメーターが10人くらい仕事をしているとお腹が空くでしょう。隣の駅にあるラーメン屋さんに2班に分かれて車で行くんですが、先に帰ってきたほうが、脅かしてやろうと明かりを消して待ち構える。セロテープで顔を変形させたり、紙で牙をつくったりして、お化け屋敷みたいにして脅かしてやろうとね。でも、帰ってきたほうも雰囲気でわかるんですよね。小石を投げたりして、警戒しながら入ってくるんです(笑)。
───サークルみたいで、楽しそうですね。
こんなこともありました。仕事場は2階ですが、誰かが1階の窓のひさしに乗って待機する。夜中にみんなが仕事をしているときにそっと顔を出すんです。2階なのに窓の外に人の顔があったら、「ギャー」ってなりますよね。僕も真似して、セル画に使う薄紙を濡らして顔に貼って、2階の窓の外から顔を出したことがあります。みんなの驚いた顔がおもしろくてね。暇なときはそんなことばかりやっていました。
───若い人がカンヅメになっているから、そうやっていろいろ楽しい遊びを考え出したんですね。
アニメの先輩の多くは東映動画出身の人が多く、東映時代の伝統が虫プロにも伝わったのかもしれません。
漫画部の人は本当に忙しそうだったけど、アニメ部は毎日キャーキャードタバタ、本当にそんな感じでした。一度は手塚先生のお父さんが仕事場に入ってこられて(スタジオの隣は先生のお父さんたちの住居だった)、「コラー! 何やってるんだ!」って怒られたこともあります。それまで騒いでいたのがシーンとなって、それもいい思い出です。
───虫プロ時代は吉村さんにとっては......。
楽しかったですね。19歳から8年か9年いましたから、青春そのものでした。
[次回へ続く]
山崎潤子
ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。
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