虫ん坊

関係者インタビュー 私と手塚治虫 吉村昌輝編 第3回 手塚治虫との距離が近づいた、高田馬場時代

2022/11/07

関係者インタビュー

私と手塚治虫

第3回 手塚治虫との距離が近づいた、高田馬場時代

文/山崎潤子

 手塚治虫先生の関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。今回は虫プロダクション時代からアニメーターとしてさまざまな手塚アニメに関わってきた吉村昌輝さん。当時の関係者からは「軍曹」というあだ名で呼ばれています。アニメ制作の裏側や苦労話、そして手塚治虫とのエピソードなどを語っていただきました。

watashito_yoshimura_prof.jpg

PROFILE

吉村昌輝(よしむら・まさてる)

 手塚プロダクションアニメーター。1965年に虫プロダクション入社。のちに手塚プロダクション動画部門に参加。ライオンブックスシリーズOVA『雨ふり小僧』では絵コンテ・演出・作画監督を務める。


■アニメーター、ワカメや花火を売る

───吉村さんはいつ頃まで虫プロダクションにいらっしゃったんですか?

 会社が傾いてからは、だんだん人が少なくなっていきました。僕は組合活動もやっていたから、結局最後まで残ったアニメーターなんです。仕事が少なくなってからは、ワカメや花火を売って歩いたりもしました。

───ワカメや花火? それは会社的な副業ですか?

 そうです。もちろんアニメの仕事があればアニメの仕事が優先ですけどね。

 人情で買ってくださる人も多かったです。映産労といって映画産業の労働組合とか、芸術関係の労働組合とか、横のつながりでお互いに助け合っていました。東京中、あちこちまわって「みんなで頑張りましょう」みたいな話をして、ワカメを売ってくるわけです(笑)。特別なイデオロギーがあったわけじゃなく、何かやれることをやろうみたいな感じでしたね。

───なるほど。でも、虫プロダクションも倒産してしまうわけですよね。

 その後は友人と2人でデザイン会社のアニメ部を立ち上げたんです。年齢も20代後半になっていたし、結婚もしたしということで。ただ、手塚プロダクションとはずっとつながりがあって、24時間テレビのアニメも手伝っていたんです。高田馬場のスタジオに徹夜でお手伝いに行ったときは、昔の虫プロ仲間がいて楽しかったですね。

■あの信号が赤になったらもう間に合わない! 日テレの24時間テレビ

───では、あの地獄のスケジュールだったという、伝説の『バンダーブック』や『マリン・エクスプレス』も......。

 当日に車で納品に行くとき「あの信号が赤になったらもう間に合わない」というくらいの状態でした。

───本当にギリギリだったんですね。

 24時間テレビですから、とにかく放映時間に間に合わせればいいということでした。番組が始まってから、本当にギリギリで納品したんです。本編の前半がOR(放送中)なのに、後半部分のフィルムを現像所から日テレに直行、日テレの一室を借りて編集中とか、とにかく毎回綱渡り状態で。

───制作の裏話みたいなものはありますか?

 アニメには「撮(影)出し」という仕事があるんです。これは撮影に出す前に、背景とセルを合わせて、セルの位置や組み合わせ、カメラワークをチェックする工程です。今はデジタル化で、こういう仕事はなくなりましたが。

 先生はこの工程が好きらしくて、時間があれば自分ですることがあるんです。「この背景はちょっと違うなあ」なんて言い出して、別のカットの背景を持ってきてハサミでジョキジョキ......、「あ、これでいいですね」となる。「先生ちょっと待って! それは別のカットで使うんだから切っちゃダメです!」と、こちらとしてはおちおちまかせておけないんです。

───時間がないときはヒヤヒヤしますね。

 どうしても背景やセルが揃わないというとき、先生がある背景を持ってきて「じゃあ、これをアップで使いましょう」と言うんです。「先生、それは天井の絵ですよ。人物がいないけどおかしくないですか?」「いや、話が通じればいいんです!」ですって。

 結局、天井をアップで撮影して、その間は登場人物にセリフを言わせて話をつなぎました。ちょっと不自然でしたが、たしかに話は通じましたね(笑)。

watashito_yoshimura03_01.jpg

■いたずら好きな手塚治虫

───その後また、手塚プロダクションに移られたわけですよね?

 友人と始めた会社の仕事は5年で閉めて、その後は手塚プロダクションにいた友人(のちにサンリオの『リリカ』の編集長となる故・山川氏)が「うちに来ないか」と誘ってくれたんです。それで再就職して、今に至ります。

 当初は動画チェックで入ったんですが、「軍曹さん、あれ描いてください」「オープニングの原画が足りないから描いてください」って、だんだん原画も担当するようになり、最終的には作画監督も3本ぐらいやりました。

───その頃は高田馬場ですよね。

 富士見台時代は先生はいつも別の仕事場にいましたが、手塚プロダクションでは高田馬場のセブンビルで、すぐ隣が先生の仕事場だったりしましたから、顔を合わせる機会は増えましたね。

───手塚先生とのエピソードはありますか?

 先生が外国に行くとき、成田までの車中で『森の伝説』の打ち合わせをすることになったんです。後部座席の左側に僕、右側に先生、真ん中に小林(準治)くんが座って、僕は車酔いですっかりダウンしてしまったんですが、先生がいたずらをはじめたんです。小林くんのシートがもにょもにょと動いて、小林くんは「なんだ?」と面食らっている。でも、先生は素知らぬ顔で打ち合わせを続ける。先生がリクライニングとマッサージ機能をリモコンで動かして、遊んでいたわけです。結果、私がダウンしたので打ち合わせになりませんでした。

───手塚プロダクション時代は、虫プロ時代よりも先生との距離も近づいていますね。

 あるとき花小金井のスタジオで、たまたま他のスタッフがいなくて、先生と僕の2人きりだったことがあったんです。そうしたら、先生がランチに誘ってくれました。先生と2人だけで食事するなんて、後にも先にもあのときだけでした。

───何を召し上がったんですか?

 スエヒロ5というステーキ屋さんでステーキを食べました。みんなでよく行っていたお店でしたが、あのときばかりは緊張で味もしなかったし、何を話したのかも全然覚えていません(笑)。

───長いおつきあいでも、やっぱり先生と2人は緊張するんですね。

 みんなで食事をする機会はありましたが、さすがに1対1はね(笑)。せめてもう1人か2人いれば緊張も薄れますが。

───手塚先生は、やっぱり神様的存在なんですね。

 そうですね。そういう意味では、かえって社外の方のほうが、友人になれるのかもしれませんね。

───漫画家では、馬場のぼる先生とは仲がよかったようですよね。

 ほぼ同期だそうですね。馬場先生は、描かれる絵のあの独特のやわらかいタッチのように、人柄もほんわかしていたのかな。だから手塚先生とも気があったのかもしれませんね。

───手塚先生の漫画にもよく登場しますよね。

 とぼけたキャラでね。「手塚くんの漫画に出てくる僕は、いつもルンペンなんですよね」って、おっしゃっていたんですよね。

 そういうところは手塚先生のいたずら好きなところですね。僕らもよく漫画に登場したんですよ。飲み屋の看板が「バー軍曹」だったり、暗殺リストや連判状にスタッフの名前があったりして。

 先生は仲間の漫画家たちにもアニメの面白さを伝えるため、名漫画家さんの作品を自主でアニメ化する考えがありました。私にも、馬場先生の絵本『きつね森の山男』のアニメ化を依頼されたことがありました。

watashito_yoshimura03_02.jpg

 漫画家の馬場のぼる先生は『鉄腕アトム』『W3』『ブラック・ジャック』など、多くの作品に登場する。

W3』(19651966

それぞれウサギ、カモ、馬の姿に変身した銀河パトロール隊のボッコ、プッコ、ノッコの3人(W3)と真一少年によるSF冒険活劇。作中で重要な役回りを果たす馬場先生は、馬場のぼる先生がモデル。真一のよき理解者として描かれている。

■手塚治虫がベレー帽をとると......

───手塚先生の人間味あふれる部分ですね。

 先生は高田馬場の西友なんかにも、よくご自身で買い物に行っていました。誰かに頼めばいいのに「これは私が家族に頼まれたんです」なんて言って、ひょこひょこ出かけていくんです。でも、ベレー帽がないと気づかれないらしいんですよ。

 有名人はサングラスやマスクで変装しますが、先生の変装は逆なんです。それはベレー帽をとること。ベレー帽をとると、案外普通のおじさんになって、街に溶け込んじゃうんです。

───なるほど。トレードマークを外すと変装になるんですね。

それだけ、ベレーが定着しちゃっているんですよね。

───ほかにも、手塚先生とのエピソードはありますか?

 出崎(統)さんの結婚披露宴に出席したとき、みんなで歌ったり踊ったりしていたんです。

 よくあるパーティ用の鼻眼鏡をかけると、先生にちょっと似るんですよ。ふざけて鼻眼鏡をかけて、ジェンカで「レッツ、キス♪」なんて踊っていたら、先生が僕の後ろで、僕の肩に手をかけて踊っていたんです。あのときはびっくりして、ドキドキしましたよ(笑)。

[次回へ続く]


yamazaki.jpg山崎潤子

ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。


バックナンバー

関係者インタビュー 私と手塚治虫 第1回 華麗なる(?)手塚家の生活

関係者インタビュー 私と手塚治虫 第2回 自由奔放な娘と手塚家の教育方針

関係者インタビュー 私と手塚治虫 第3回 母よ、あなたは強かった

関係者インタビュー 私と手塚治虫 小林準治編 第1回 古き良き、虫プロ時代

関係者インタビュー 私と手塚治虫 小林準治編 第2回 昆虫愛がつないだ関係

関係者インタビュー 私と手塚治虫 瀬谷新二編 第1回 冷めることがなかったアニメへの情熱

関係者インタビュー 私と手塚治虫 瀬谷新二編 第2回 いつだって、手塚治虫はみんなの中心にいた

関係者インタビュー 私と手塚治虫 華平編 中国と日本、縁で結ばれた手塚治虫との出会い

関係者インタビュー 私と手塚治虫 池原 しげと編 第1回 『鉄腕アトム』にあこがれて、手塚治虫を目指した少年

関係者インタビュー 私と手塚治虫 池原 しげと編 第2回 アシスタントが見た、手塚治虫の非凡なエピソード

関係者インタビュー 私と手塚治虫 池原 しげと編 第3回 本当にあった、手塚治虫のかわいい!? わがまま

関係者インタビュー 私と手塚治虫 手塚 眞編 第1回 僕がいま、映画『ばるぼら』を撮った理由

関係者インタビュー 私と手塚治虫 手塚 眞編 第2回 手塚治虫が『ばるぼら』で本当に描きたかった心の中

関係者インタビュー 私と手塚治虫 手塚 眞編 第3回  AIでは再現できない、手塚治虫の目に見えない演出のすごさ

関係者インタビュー 私と手塚治虫 濱田高志編 第1回  昭和時代の子供が出会った手塚漫画

関係者インタビュー 私と手塚治虫 濱田高志編 第2回  ひとりのファンと手塚治虫の邂逅

関係者インタビュー 私と手塚治虫 濱田高志編 第3回  手塚治虫がつないでくれたたくさんの縁

関係者インタビュー 私と手塚治虫 濱田高志編 第4回  「手塚作品の復刻版をつくる」意義

関係者インタビュー 私と手塚治虫 伴俊男編 第1回  手塚プロダクションに二度入社した男

関係者インタビュー 私と手塚治虫 伴俊男編 第2回  富士見台時代から大きく変わった高田馬場時代へ

関係者インタビュー 私と手塚治虫 伴俊男編 第3回  アシスタントが見た「手塚治虫」という天才

関係者インタビュー 私と手塚治虫 辻真先編 第1回  89歳の今でも、最新漫画やアニメまでチェック

関係者インタビュー 私と手塚治虫 辻真先編 第2回  日本のテレビ番組、その夜明けを駆け抜ける

関係者インタビュー 私と手塚治虫 辻真先編 第3回  戦争をくぐり抜けてきたからこそ、わかること

関係者インタビュー 私と手塚治虫 辻真先編 第4回 過去から現在まで、博覧強記の漫画愛

関係者インタビュー 私と手塚治虫 辻真先編 第5回 アニメ『ジャングル大帝』の知られざる裏話

関係者インタビュー 私と手塚治虫 萩尾望都編 第1回 漫画家になる決意を固めた『新選組』

関係者インタビュー 私と手塚治虫 萩尾望都編 第2回 漫画家の視点で「手塚漫画」のすごさ

関係者インタビュー 私と手塚治虫 萩尾望都編 第3回 萩尾望都と手塚治虫は何を話したのか

関係者インタビュー 私と手塚治虫 萩尾望都編 第4回 『鉄腕アトム』に見る、手塚治虫の漫画手法

関係者インタビュー 私と手塚治虫 吉村昌輝編 第1回 新人の制作担当からアニメーターへ

関係者インタビュー 私と手塚治虫 吉村昌輝編 第2回 嗚呼、青春の富士見台。虫プロダクションの日々


CATEGORY・TAG虫ん坊カテゴリ・タグCATEGORY・TAG虫ん坊カテゴリ・タグ