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関係者インタビュー 私と手塚治虫 石坂啓編 第1回 「手塚治虫がアイドル」だった少女、夢を叶える

2023/12/01

関係者インタビュー

私と手塚治虫 石坂 啓編

第1回 「手塚治虫がアイドル」だった少女、夢を叶える

文/山崎潤子

 関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。今回は漫画家の石坂啓さん。石坂さんは手塚プロダクションで手塚治虫のアシスタントを務めたことでも知られています。手塚治虫に対する憧れや当時のアシスタントや編集者たちのエピソード、漫画に対する思いなど、さまざまな角度からお聞きしました。

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PROFILE

石坂 啓(いしざか・けい)

漫画家。
愛知県名古屋市生まれ。大学卒業後、上京して手塚プロダクションに入社。手塚治虫のアシスタントを1年間務め、在社中に漫画家デビュー。主な作品に『キスより簡単』『アイムホーム』『ハルコロ』など、エッセイ集に『赤ちゃんが来た』『お金の思い出』などがある。


■漫画誌を片っ端から読んだ少女時代

 

──石坂先生は、手塚先生のアシスタントをされていらしたんですよね。

 

はい。でも、先生はやめてくださいね。啓ちゃんか、石坂と呼んでください。先生だなんて、きっと天国の手塚先生にプッて笑われちゃうもの。先生なんて呼んだら、罰金100円ですからね(笑)。

 

──わかりました(笑)。漫画家を志したのは、子どもの頃から漫画がお好きだったのでしょうか?

 

手塚先生の漫画は、幼稚園の頃から読んでいたんです。『なかよし』だったと思いますが、『リボンの騎士』の新連載1回目を覚えていますよ。天使のチンクちゃんが乗っている夜空に浮かぶ船とか、真似っこして描いていたっけ......。幸いなことに親が漫画に偏見がなくて、それからもずっと漫画を読み続けました。

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『リボンの騎士』(なかよし版)(1963-1966年)
天使のチンクが下界へと旅立つシーン。

──当時としては、そういうご家庭は珍しいですよね。

 

漫画はまだ有害だと思われていて、市民権がなかった時代でしたね。

うちは母親も漫画を読んだり絵を描いたりするのが好きだったんです。母が「こっちからこういう順番でコマを読むんだよ」って教えてくれたのを覚えています。

まだ貸本屋さんがあった頃で、110円で漫画誌が借りられました。『ぼくら』『少年クラブ』『少年ブック』『冒険王』『まんが王』『漫画少年』『なかよし』『りぼん』......当時の漫画誌は全部読んでいたと思います。手塚先生も『鉄腕アトム』や『ビッグX』など、何誌もまたがって連載されていましたね。小さな頃から手塚先生の漫画は、絵もお話も好きでした。

 

──それを全部読める環境はすばらしい!

 

しかも祖父母が床屋さんをやっていて、そこにも漫画が置いてあるから、おばあちゃんのところでも読めたんです。だからもう、片っ端から読んでいました。

漫画が大好きで、小学校1年生くらいから漫画家になるのが夢でした。といっても、クラスに何人かいる、絵が得意な子のひとりというレベルでしたけれど。でも、自分は絶対に漫画家になれるつもりで、小学校2年生か3年生ぐらいでコマ割りの漫画を描いたりしていましたね。

 

■手塚治虫が「アイドル」だった!

 

──漫画をたくさん読んできた石坂さんが、当時一番好きな漫画家さんは......。

 

私は漫画が本当に大好きで、好きな作品も好きな漫画家もたくさんですが、手塚治虫は別格でした。とくに中学生の頃から、手塚先生一辺倒でしたね。

当時から手塚先生はずっと私の憧れの存在で、アイドルに夢中になるような気持ちで、目がハートになっていたんです(笑)。たまに単行本に載っているメガネとベレー帽姿の先生の写真を見ては「なんて素敵なんだろう♡」って。ブラック・ジャックのかっこいいセリフを読んでは「これを喋らせている(描いている)のは手塚先生なんだわ♡」って。

 

──かわいい! どのあたりが響いたのでしょうか。

 

やっぱり、漫画の中身ですよね。ただ面白いとか、人気があるというだけじゃなく、手塚先生が描く社会、戦争、宇宙といった世界観は、レベルの違う衝撃でした。

学生時代の私は、漫画の中の手塚治虫しか知りませんでしたけど、憧れでもあり、たくさんのことを教えてくれる社会の窓でした。世の中で一番会ってみたい人であり、手塚先生に会えるだけの大人になりたいと思わせてくれるような存在でしたね。

 

だから中学生の頃にはすでに「将来は漫画家になりたい。漫画家になる前に手塚先生のアシスタントになりたい。そのために上京したい」って具体的に思っていました。先生のアシスタントをして、それから独立できるなら漫画家になりたいって。

 

──す、すごい。結果的に夢が叶ったわけですね。

 

でも、まわりの大人は誰一人味方をしてくれなかったんです。「そんなの無理だ」「甘い」って......。

 

──石坂さんは名古屋出身ですよね。

 

名古屋は中途半端に都会だから、上京しなくてもある程度のことができてしまうんですよ。本当に田舎なら上京しないとできないことがあるけど、名古屋なら大学もあるし、就職先もあるし。だから普通の進学校に行かされて、名古屋の大学を卒業して......。

でも、それって私にとっては挫折でした。だから高校、大学と、なんとなく鬱屈した日々を過ごしていたんです。

 

■周囲の反対を受けても、上京→アシスタントの道へ

 

──その状況から、アシスタントになったきっかけは?

 

あるとき『ブラック・ジャック』の連載の欄外柱に「アシスタント募集」と書かれているのを見て、応募したんです。あの柱を見て応募した人は多いんじゃないかな。

当時の私の絵の実力は身のほど知らずなレベルだったでしょうけど、「手塚先生に会いたい」「アシスタントになりたい」っていう強い気持ちだけはありました。そんなわけで、大学を卒業してちょうど就職の時期に上京できたんです。

 

──子供の頃から願い続けた道ですね。しかも合格してしまうんだからすごい!

 

ただ、上京して漫画家を目指すなんて、まわりは誰も賛成してくれませんでしたよ。

「絶対に叶える」という強い一念があったからなんとかなったと思うんです。自分で思い込んで、強く思わなかったら、無理だったと思います。

だから、世の中の親御さんには、お子さんの夢を応援してほしいって心から思います。

 

──普通なら親は「大学まで出たんだから、このまま安定した人生を歩んでほしい」と思ってしまいますよね。

 

漫画家になるといえば、普通の大人たちは「有名になれるのか」「お金は稼げるのか」みたいなことを言うでしょう。でも、そういう問題じゃないんです。「自分の気が済むかどうか」なんです。たとえアシスタントになれなくても、漫画を何度も出版社に持ち込んでボツになってもいい。とにかく自分の気が済むようにやってみたかったんですよね。

 

──それは名言だと思います。やりきった結果は人によって違っていいし、やりたいことをやるのは、有名になることや成功するためじゃないですよね。

 

当時は「有名になって『クイズダービー』に出られるようになってね」なんて言われたこともあるんですよ。笑っちゃうでしょう。でも、それが世間一般の価値観だったんです。

 

──はらたいらさん(笑)。

 

そうそう。若い人は知らないわよね。でも、それは漫画家を目指す人の価値観じゃないですよね。

 

■ゴールは自分で決めるもの

 

──でも、石坂さんがおっしゃるように、ゴールは他人が決めるものじゃないし、「自分の気が済むまで」って、本当にその通りだと思います。

 

ゴールが「有名になりたい」「お金を稼ぎたい」だったら、きっと漫画家じゃなくて、違うことをやるはずでしょう。漫画家はみんな「面白い漫画を描きたい」という気持ちで漫画家になると思います。お金持ちの漫画家さんは、みんな「気がついたら売れちゃった」感覚で、夢中で漫画にのめり込んだ結果だと思います。そういうところが、漫画家のいいところだと思うんです。

 

──本当にそうですね。漫画家さんたちの情熱によって、私たち読者はおもしろい漫画を読めるわけですから。

 

名古屋には、漫画の現場に身を置いて、漫画を仕事にして、仲間と漫画の話ができて......、という場所はなかったですから、私にとっては夢の第一段階が叶ったわけです。だから上京して手塚先生のアシスタントになれたことは、本当にうれしかったです。

 

■サイン会に行っても、サインをもらうのは我慢

 

──手塚プロダクションに入社して、憧れの手塚先生にはじめて会ったときはいかがでした?

 

もうね。まぶしくて、頭の中が真っ白になって、記憶が飛んじゃうぐらいでした。大好きな憧れの人が目の前にいるわけですから「本物が動いてる! きゃー!」っていう感じ。

私は割と図々しい性格で、話したい人には話しかけるし、会いたい人には会いにいくタイプですが、手塚先生を前にしたらもう、借りてきた猫みたいになってしまいました。だから第一印象はそんな感じでしたね。

 

私が採用されたときは同期のアシスタント(わたべ淳、堀田あきお、高見まこら)が5人いましたが、手塚先生が新人を歓迎するご挨拶してくださったり、食事をごちそうしてくださったりという時間も設けてくださいましたね。もちろん私は大喜びでしたけど、緊張しすぎてガチガチでした。

 

──初志貫徹というか、ずっと憧れだった手塚先生にようやく会えたんですね。

 

厳密にいうと、名古屋にいたときに手塚先生のサイン会があって、名古屋の中心街まで自転車を飛ばして、お姿を拝見したことがあったんです。そのときも「かっこいいー」って思いましたよ。

でも、サインはいただかなかったんです。そのときは「先着〇名、色紙代込みで1500円」という有料の形式で、お金を払うのが嫌だったわけじゃなくて、お金を払ってサインをいただくことが自分の中では邪道だと思ってしまって......。いつか先生に直接会って、サインをもらおうって思ったんです。

 

──ただの一ファン、お客さんという立場では嫌だったわけですね。

 

本当は、ものすごーくほしかったですけどね。

 

■女性アシスタントに徹夜はさせられない!?

 

そんなわけで手塚プロダクションに入社しました。

いま思えばよく入れたなと思います(笑)。実力でいえば私はまだまだで、チーフアシスタントだった福元(一義)さんに呼ばれて「みんなよりちょっと練習してね」って言われたくらい。言葉を選んでくれたけれど、一番下手だしアシスタントの水準に達してないってことですよね。

 

──「絶対にアシスタントになる」という熱意が通じたのでは?

 

というより、当時手塚先生は「女の子のセンスも必要だから、女性もとりたい」っておっしゃっていたみたい(といっても、先生に直接何か意見したりできるわけではありませんよ)。もちろん私たちの前の世代にも女性のアシスタントはいらっしゃいましたが。

 

ただ、当時のルールとして、女性には原則徹夜はさせられない。でも、男性は交代で徹夜をするから戦力になる。そういう意味で、女性アシスタントは戦力としては物足りなかったでしょうね。

夜間のほうが先生からたくさん原稿が上がってきますから、背景を描く回数も男性アシスタントのほうが多くなり、絵も上手くなり、力の差が開いてしまう......という側面はありました。実際、男性アシスタントは絵の上手い人が多かったです。

女性には徹夜をさせられないから、現場を仕切るチーフアシスタントは苦々しく思っていたかもしれませんね。でも、当時の私はそんなことはつゆ知らず、「憧れの職場に入れてラッキー!」という感じでした。

 

■手塚先生に話しかけることは厳禁!

 

──普段の手塚先生は、どんな感じでしたか?

 

パーティーなどの対外的な場であれば、手塚先生は本当に柔和で謙虚で紳士というイメージでしょう。でも、アシスタント目線では、常に猛烈な忙しさで、異様に殺気立っている現場でしかお見かけしないわけですから、「先生、今日もよろしくお願いします♪」とか「先生、今日はいいお天気ですね♪」なんてお気楽な会話はまったくありません。

こちらから声をかけることなどできませんし、「おはようございます」「お疲れさまでした」というご挨拶だけです。マネージャーの松谷さん(現在の手塚プロダクション社長)にも「先生に余計な声をかけないように」と釘を刺されましたから。

 

──忙しすぎて、のんきにおしゃべりをする暇もないわけですね。

 

とにかく手塚先生の時間はものすごく貴重で、無駄にしてはいけないから、話しかけるなんてもってのほか。現場はそういう雰囲気ですし、私なんて一番下っ端のペーペーですから、気軽におしゃべりをするような機会はありませんでしたね。

ただ、そういう現場を知っているのも、マネージャーと編集者とアシスタントぐらいでしょう。しっちゃかめっちゃかな毎日でしたけど、天才の仕事ぶりを間近で見られたのは、本当に幸運なことです。だって、他の人たちは、穏やかで紳士でかっこいい、よそゆきの先生しか知らないわけですから。

私がアシスタントをしていたのは1年間でしたが、毎日毎日が刺激だらけ。どこのどの場面を思い出しても、すごかったなあと思います。

人生で一番の勉強の場でした。本当に濃い時間でした。

 

 

次回は、都市伝説とも言える「あの話」の真相をお聞きします!


yamazaki.jpg山崎潤子

ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。


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