文/山崎潤子
関係者に話を聞き、さまざまな角度から手塚治虫の素顔を探っていこうという企画です。今回は漫画家のわたべ淳さん。前回の石坂啓さんらとともに、手塚プロダクションで手塚治虫のアシスタントを務められました。当時の知られざるマル秘エピソードの数々や、手塚治虫の印象的な言葉などを中心にお聞きします。
PROFILE
わたべ淳(わたべ・じゅん)
漫画家、作家。
東京都生まれ。
東京都出身。小学生、中学生、高校生時代を富山市、金沢市などで過ごす。1978年に手塚プロダクションに入社、1980年に『海へ...』にて「ヤングジャンプ」でデビュー。主な作品に『レモンエンジェル』『ホウキとオートバイ』などがある。
──わたべ先生は、出身はどちらなんですか。
出身は東京ですが、親父の転勤で、小学生の頃は転校ばかりでした。でも、鉄人28号や鉄腕アトムの絵をうまく描ける子どもだったから、どこでもすぐに友達ができて、苦労はしなかったですね(笑)。小6の途中から高校を卒業して1年浪人するまでは、石川県の金沢にいました。
──絵が上手だと友達ができるって、たしかにそうかもしれませんね。いわゆる思春期を金沢で過ごされて、東京には進学で戻られたんですか?
金沢の美大を受けて浪人したんですが、受験に落ちたのをこれ幸いと、東京のデザイン系の専門学校に入ったんです。親には申し訳なかったけど、やっぱり、漫画に近いところにいたかったんですよね。
──当時は漫画文化に触れるには、やはり東京だったんですね。
漫画の仕事はしたかったけど、いきなりデビューできるなんて思っていなかったですから。漫画家のアシスタントになるにしても、まず東京に行かなきゃという思いがありました。漫画の役に立つだろうと、学校は真面目に通いましたね。
──子どものころから、漫画を生業にしたいという夢があったんですか?
手塚先生の漫画をはじめて読んだのは、小学校1年くらいの学年誌に載っていた『らびちゃん』だったと思います。それから1963年にアニメで『鉄腕アトム』がはじまりましたよね。漫画のほうの『鉄腕アトム』といえば、帯にシールのおまけがついていた光文社のカッパ・コミクス版をよく覚えています。
当時はまだ小さかったから、アニメと漫画の違いすらよくわかっていなかったけど、「こういうものをやる人になりたい」っていうぼんやりした憧れはありました。
ちょっと絵が好きだったり、人から絵が上手だねなんて言われたりすれば、そういうものに憧れるものでね。ただ、当時はまだ「漫画家」という職業が当たり前の時代ではなかったですから。
『らびちゃん』(1960年〜1961年)
幼年誌、低学年向けの学年誌に連載されていた作品。森の中で家族と暮らすわんぱくな子うさぎ、らびちゃんが、他の動物たちと楽しく遊んだり、ときには失敗したりというほのぼのストーリー。
──ぼんやりとでも「漫画のようなもの」に携わる人になりたいと思っていたわけですね。
小学校2年生か3年生くらいのとき、手塚治虫がどんな人なのかも知らないくせに「手塚治虫が死んだら、僕がアトムを描く!」なんて豪語していましたね。生意気にも(笑)。
──夢は大きく(笑)。
そういえば、手塚プロダクションの忘年会でタクシーに乗ったとき、たまたま手塚先生と一緒になったことがあったんです。お酒が入っていたものだから、うっかり先生に「子供の頃、先生が死んだら僕が描こうと思っていたんです」って話しちゃったんですよね。
──手塚先生はなんとおっしゃった?
「ああ、そうですか」って。今思えば若気の至りですよ。全然空気読まずにね。
──漫画家を目指すにあたって、憧れた漫画家さんはいましたか?
中学生の頃は『750ライダー』の石井いさみさんとか、野球漫画を描き始めた頃の水島新司さんに憧れていました。それから、当時大人気だった『ハレンチ学園』の永井豪さんとかね。『ハレンチ学園』なんて、友達と一緒に笑い転げた覚えがあります。
──男子中学生が好きそうな漫画ですね!
高校生になってからは、ちょっとひねくれて「ガロ」を読むようになって、ああいう世界に憧れていましたね。
──世の中をちょっと斜めに見る感じですね。
当時好きだったアンダーグラウンドなフォーク歌手やアーティストとか、好きなものが漫画の中に登場するんですよね。そういう感じも好きでした。ガロには漫画を2度ほど投稿しましたが、返ってきましたね(笑)。
──本来はガロ系の漫画のアシスタントさんになりたかった?
というか、実は「別冊マーガレット」や「プリンセス」に投稿したりもしていたんです。
──え! 少女漫画ですか!?
今思えばあまりいい心がけじゃなくて、少女漫画家になれば、女の子にモテるんじゃないと思って(笑)。
──それは......動機としては全然ありだと思います(笑)。
よくロックミュージシャンが音楽をはじめた理由を、「モテたかったから」なんて言うでしょう。それと同じですよね。そんなわけで、専門学校を卒業してからは、少女漫画家のアシスタントをぼちぼちやっていたんです。いまいかおるさん、あしべゆうほさん、竹宮恵子さんのところにも何度か手伝いに行きました。
でも、アシスタントとして少女漫画の現場を生で見たときに、これは男の自分が簡単に踏み込める場所じゃなさそうだなって。キラキラした世界を描きながら、孤独で厳しい現場ですからね。もちろん少年漫画の世界も厳しいものですが、少女漫画の世界の厳しさに、ちょっと怖気づいたんですよ。
少女漫画の手伝いをしながら自分の漫画を描いてはいたけど、そろそろどこかに腰を落ち着けなきゃと思っていたんです。朝日ソノラマの「マンガ少年」に持ち込みに行ったとき、たまたま「手塚プロダクションと松本零士さんのところでアシスタントを募集しているけどどうか」っていう話があったんですよ。
──わたべ先生はそういった紹介があったんですね。
当時は手塚治虫のアシスタントなんて、ちょっと格式が高いようなイメージでした。
その頃の僕は長髪にロンドンブーツみたいな格好をしていたんだけど、さすがにどうだろうと思って、髪は鎖骨のあたりで切りました(笑)。
──おしゃれ! その頃の姿を見てみたいです。
面接のときは簡単な職務経歴書もつくりました。1回しか行ったことのないアシスタント経験も経歴に入れてね。でも、後で聞いたら「こいつはちょっと調子がよすぎるから大丈夫か?」みたいに思われたらしいけど(笑)。
結局、面接に行ったら決まったわけです。で、同期が石坂啓、堀田あきお、僕の奥さんでもある高見まこともう1名いて、僕を含めて5人でした。
──すんなり入社が決まったんですね。
たまたまツテがあったとはいえ、手塚プロダクションに入れたのはうれしかったです。
手塚治虫といえば漫画家の最高峰のような存在で、もちろん憧れはありましたから。
当時は胸を張って手塚ファンといえるほどたくさん手塚漫画を読んでいたわけじゃないけど、手塚先生のすごさは十分知っていましたからね。
──やっぱり、手塚先生は一段高いところにいるイメージだったんですか?
僕が好きだった漫画家さんたちも、手塚治虫を見上げていた人たちばかりですから。
当時、手塚先生は虫プロの倒産やいろいろなことがあったあとで、苦労されてたみたいですけども、僕らにはわからないですからね。
──手塚先生に初めて会った感想は?
新入社員がチーフから話を聞いていたら、先生がニコニコしながら「どうも!」と言いながら入ってきました。第一印象は「デカい!」です。当時は一番元気な頃で、恰幅もよくてね。体も大きいけど、声も大きいんですよ。「わぁ、本物だ」って思いました。
──手塚先生は50歳くらいで、仕事はノリに乗っていた時期ですよね。
『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『ユニコ』『火の鳥』『未来人カオス』など、ものすごい量をこなしていましたね。
言い方は難しいけど、一般の方が目にするメディアに登場する手塚先生と、生の先生とでは、いい意味でずいぶん違っていました。ある意味暴君なところもあったりして。
僕らよりも先輩の時代の話ですが、先生に「これをやってください」って言われてその通りにすると、「僕はそんなこと言ってませんよ」ということがよくあったらしいです。
──上司と部下あるあるですね。
腹に据えかねたのか、あるとき録音したらしいけど、さすがにその録音を先生に聞かせて反論するなんてことはできなかったらしいです(笑)。
──先生が白と言えば黒も白になるといった面はありそうですね。
でも、当時の僕らはまだまだ若くて、みんな生意気でした。今になって「先生のことをもっともっと見上げておけばよかった」って思うんです。
たとえば、先生の原稿がなかなか上がらないと、近くにいる編集の人が愚痴を言うでしょう。それらが僕らの耳に入るものだから、自分たちは裏側を知っている、一端の業界の人間になったような気持ちになってしまったのでしょう。
だから、あんなに近くにいたのに、先生の偉大さがよく見えていなかった気がするんです。
──なるほど。
ただ、その頃の僕らは、先生の巨大な影の中にいたような感じで、見上げてみても、先生の頭まで見えてなかったと思います。時がたって、当時の状況を俯瞰して見えるようになってから、「手塚先生って、あんなにすごかったんだ」って、ただただ思うんですよ。
──近くにいると偉大さ、大切さが見えにくくなる。学びのあるお話ですね。
[第2回へ続く]
山崎潤子
ライター・エディター。
幼少期より漫画漬けの生活を送ってきた生粋のインドア派。
好きな手塚作品は『ブラック・ジャック』。著書に『10キロやせて永久キープするダイエット』などがある。
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