2023/04/07
写真と文/黒沢哲哉
手塚治虫の代表作のひとつである『ブラック・ジャック』が2023年、連載開始50周年を迎えた。1973年11月に『週刊少年チャンピオン』で連載が始まって以来、いまだ人気の衰えない名作だけど、この作品がいったいどんな時代にどんないきさつから生まれたものだったのか、よくご存知ない方も多いだろう。そこで「ブラック・ジャック再入門」と題して、誕生の背景と手塚の試行錯誤の日々を振り返ってみたい。その第2回目は、習作時代の作品から『ブラック・ジャック』に至る、手塚の医療マンガの流れを読み解きます!!
さて、ところでこのコラム冒頭に『ブラック・ジャック』が発表された当時、医療マンガは珍しかったと書いた。
では『ブラック・ジャック』以前に医者を主人公としたマンガはなかったのかというと、そんなことはない。
63年に『週刊少年マガジン』に連載されたちばてつやの『ハチのす大将』は、ハチのすの街と呼ばれる貧しい町出身のインターンの青年・嵐大介が主人公のお話だった。
物語は、この大介青年の目を通してさまざまな患者たちの人間模様や病院内での騒動などが綴られていく。手術シーンもあるにはあるが、お話の軸はあくまでも、ちばてつや得意のヒューマンドラマである。
その後、60年代の終わりごろから劇画ブームが台頭してくると、その影響を受けた少年マンガもどんどんとリアルになっていった。
そうした流れの中で生まれたのが、特定の職業に従事するプロフェッショナルの姿を描く「職業マンガ」という新たなジャンルだった。『少年マガジン』が当時このジャンルの開拓に積極的で、医療マンガもいち早く掲載している。
それが69年4月6日号に掲載された読み切り『女豹ドクター』(橘外男原作、阿部兼士作画)だった。
物語は、ひとりの女性医師が 、不治の病の治療方法を見つけようと奮闘するというもの。しかし行き過ぎた実験的手術が世間の批判を浴びて、彼女は法廷で裁かれてしまう。
展開的にはツッコミどころの多い作品ではあるが、ストーリーの主軸に医療の倫理という重厚なテーマをもってきた少年マンガとしてはかなり先進的な作品だった。
そして『週刊少年チャンピオン』73年11月19日号において、医療マンガの真打ち『ブラック・ジャック』がいよいよ登場するわけだけど、じつは当時の『チャンピオン』編集部内では、もうひとつの医者マンガの企画が進行中だった。
そのエピソードが記録されているのは、宮崎克原作、吉本浩二漫画によるマンガ『ブラック・ジャック創作秘話』だ。
同書によれば『ブラック・ジャック』の連載は、鬼編集長として有名な壁村耐三が独断で決めて進めていた作品だった。
ところがその壁村の下で働いていた名編集者で後に同誌編集長となる阿久津邦彦も、じつはまったく同じ時期に医療ものマンガの連載を準備していたのだ。
阿久津が準備していたのは杉山義法原作、篠原幸雄まんがによる『負けずの大五』という作品だった。
篠原幸雄は、手塚のアシスタントを経て70年にマンガ家デビューしたばかりの新進のマンガ家だった。
阿久津は「少年誌初の医療マンガ」を目指して篠原と打ち合わせを続けていた。だがそのころ、手塚の『ブラック・ジャック』も連載開始に向けて着々と執筆が進められていたのだった。
結局『負けずの大五』は、「少年誌初の医療マンガ」の称号を『ブラック・ジャック』に譲り、『ブラック・ジャック』から5週遅れて連載が始まった。
『ブラック・ジャック』が徐々に人気を伸ばしていく中で『負けずの大五』は10週でひっそりと連載を終えたのである。
ちなみにこれは黒沢の個人的な余談だけど、『負けずの大五』の作画を担当した篠原幸雄は、その後、編集プロダクション「ワークハウス」を立ち上げ、80年代のファミコンブームの時代には攻略本で数々のヒットを飛ばした。
そのころライターとして独立したばかりのぼくも、篠原さんの会社で多くのゲーム攻略本やホビー本の原稿を書かせてもらい、キャリアを積んだのである。
ここに紹介した『負けずの大五』の単行本は、その当時、篠原さんから直接いただいたものである。
ここでふたたび冒頭の『恐怖菌』の話題に戻ろう。じつは『ブラック・ジャック』の中にも手塚の医療マンガのルーツである『恐怖菌』からモチーフを借りたと思われるエピソードがあるのでそれを紹介しておきたい。
74年に発表された第51話「ちぢむ!!」は、体が肥大化するのではなく、動物の体全体が縮んでしまうという謎の病気のお話だ。
アフリカの奥地で大飢饉が発生する中、人間や動物の体が縮んでいく奇病が発生する。その原因究明と治療を求められたブラック・ジャックが現地へと向かった。
しかし彼にもその原因はわからず、彼はある推論に至る。もしかしたらこれは病気ではなく、人口増加を抑えようとする大自然の力によるものなのではないのだろうか。
そしてもしも本当にこれが大自然の力、つまり神の摂理なのだとしたら、医者がこの病気を治そうとすることは、神の意思に反する行為なのではないかと。
この物語のラスト、B・Jが「医者はなんのためにあるんだ」と叫ぶカットは、医療マンガ『ブラック・ジャック』を代表する絵としてたびたび紹介されるので、このお話を読んだことがなくても、このコマだけは目にしたことがあるという人も多いだろう。
それからもうひとつ、『ブラック・ジャック』には、ズバリ「恐怖菌」と題されたお話もある。
第46話「恐怖菌」は連載時のタイトルは「死に神の化身」だった。しかし単行本に収録する際に内容の一部を変更し、その際にタイトルを「恐怖菌」と改題したのだ。
ベトナム戦争の戦場で、全身が腐る奇病が発生する。B・Jは、これは人間が作り上げた新種の病原菌によるものだと推測する。だが、治療に希望が見えてきたとき、アメリカ政府の方針が変わり、患者を抹殺し、闇に葬るという判断が下される。
こうして見ていくと、手塚の最初の医療マンガ『恐怖菌』は、手塚の頭の中では『ブラック・ジャック』までひと続きのレールの上にあった作品だということがよく分かるだろう。
こうなると戦災で失われた幻のオリジナル版『恐怖菌』を何としてでも読みたくなってくるけど、それは永遠に叶わぬ夢なのでしょう。
さて、こうして『ブラック・ジャック』によって開拓された医療マンガというジャンルでは、その後、数多くの人気マンガが誕生している。
おもな作品のタイトルを列記してみると、77年『闇の逃亡医』(高山紀芳原作、加藤唯史劇画、『週刊少年ジャンプ』連載)、88年『スーパードクターK』(真船一雄、『週刊少年マガジン』連載)、『RASH!!』(北条司、『週刊少年ジャンプ』連載)、98年『"殺医"ドクター蘭丸』(梶研吾原作、井上紀良漫画、『週刊ヤングジャンプ』連載)、01年『ゴッドハンド輝』(山本航暉、『週刊少年マガジン』連載)などがある。
中でも00年に『週刊ヤングサンデー』で連載(後に『ビッグコミックオリジナル』連載)された『Dr.コトー診療所』(山田貴敏)は、2003年に最初のテレビドラマが放送されて以降、特別版や第2期が放送された後、2022年12月には映画が公開されるなど、今なお人気の続く作品となっている。
同じく00年発表の『JIN -仁-』(村上もとか、『スーパージャンプ』連載)は現代から江戸時代にタイムスリップした若き医者が活躍するお話で、昔の限られた医療環境の中で、現代の医学知識を駆使して奮闘する主人公の姿を描いたドラマで、こちらも2009年と2011年にテレビドラマが放送され、2012年には『Dr. JIN』というタイトルで韓国でドラマ化されている。2011年には朝日新聞社が主催する漫画賞、第15回手塚治虫文化賞も受賞している。
2002年に発表された『ブラックジャックによろしく』(佐藤秀峰)は、手塚の『ブラック・ジャック』をリスペクトしたタイトルの医療マンガである。この作品はその後、著者自身がオンラインコミック配信サイト『漫画 on Web』で全話無料公開したことでも話題となった。
ということで今回はここまで! 次回は手塚が『ブラック・ジャック』を発表した時代がどんな時代だったのか。そして手塚がどんな状況の中にいたのかを振り返ります。
じつは手塚先生、このころはものすごーーく大変な時代だったのです。それではまた次回のコラムでまたお会いいたしましょう。
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
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