2018/11/28
今回からコラム「手塚マンガあの日あの時」がニューアル! 「あの日あの時+(プラス)」となりました~~~!! このコラムは手塚治虫のマンガが描いた時代や世相、手塚マンガが時代に与えた影響などを、その時代にタイムスリップして皆さんと調査するコラムです。第1回目の今回は、1979年4月に東京の九段会館で開催された「手塚治虫ファン大会」の「あの日あの時」を調査します。あの日、1,000人の手塚ファンで埋めつくされた会場でいったい何があったのか!? 時間を越えた冒険の始まりです!!
今回、我われあの日あの時調査団は、1979年4月30日の東京都千代田区の九段会館へ向かっています。この日、九段会館で初の「手塚治虫ファン大会」が開催されるというのです。朝から降っていた小雨もお昼前までにはすでに止み、正面玄関前には早くも開場を待つ手塚ファンの長い行列が出来ているようです。
時刻は11時30分、もう30分ほどで開場される予定ですね......と思っていたら入場が始まったようです。どうやら予想以上の行列にスタッフが予定時間を早めて開場した模様! 我われもさっそく潜入いたしましょう!
開場を今や遅しと待っている手塚ファンの行列。若い女性の姿も目立っている
ということで入場が始まると3階まである客席がたちまち満席となった。九段会館の収容人数は1,112人だから、ここには1,000人以上の手塚ファンが集結したことになる。
この日配られたプログラムを見ると、12時開場、1時開演となっており、開会のあいさつがあった後、手塚アニメやパイロットフィルムなどの上映が続いている。その後に待望の手塚のトークコーナーが始まるという段取りである。
じつはこの構成には、この大会を仕切った当時大都社編集長・篠田修一さんの読みが含まれていた。手塚先生は恐らくファン大会の当日もギリギリまで仕事場で仕事をしているはずである。なのでまずは映画のフィルムをたくさん用意しておき、手塚先生が会場へ到着したところですぐにトークに切り替えるという作戦だったのだ。
ちなみに篠田さんのそうした準備段階の苦労については、旧「手塚マンガあの日あの時」で取材をしているのでそちらをお読みいただきたい。
・手塚マンガあの日あの時第59回「第1回手塚ファン大会が開催されるまで」
篠田さんの軽妙なトークによる開場のあいさつの後、映画の上映が始まった。当時はビデオなどが普及する前なのですべて16ミリ映写機による上映である。
プログラムには書かれていないが、この日最初に上映されたのは「手塚治虫のハリウッドレポート」と題したドキュメンタリー映画だった。手塚はこの前年の1978年12月15日から22日まで取材旅行でアメリカへ行っており、バーバンクのディズニースタジオや、ロスアンゼルス郊外にあるディズニー・アニメーションの作画監督ウォード・キンボール氏の私邸などを訪れた。その時の記録映画である。
その後、短編映画の上映が着々と進行し、その合間にステージに立った篠田さんから手塚の現在の状況が逐一報告された。
「手塚先生はあと30分くらいで手塚プロを出られるそうです!」
その言葉に会場では拍手が沸き起こる。しかし次のフィルム上映が終わった後にはこんな続報が伝えられて会場は落胆のため息に包まれた。
「やっぱりもう少し遅れるとのことです......」
篠田さんによれば、そもそも九段会館を会場として選んだのも高田馬場の手塚プロから車で20分弱という距離の近さが大きな理由だったという。多忙な手塚は必ず遅れてくるに違いないので、仕事場からできるだけ移動距離の短い場所が望ましかったのだ。
ただし手塚を待つ間に上映されるフィルムも手塚ファンにとってはめったに見られない貴重な映像ばかりだった。何しろ手塚自身がファンを退屈させないようにと選りすぐったフィルムだったのだ。この機会を逃したら次はいつ見られるか分からない。ぼくら手塚ファンの目はスクリーンに釘付けとなった。
『ノーマン』のパイロットフィルムは1968年に手塚がテレビアニメ化を目指して私費で制作したものだったが、当時はスポ根全盛期だったために実現しなかった幻の作品。
『魔神ガロン』のパイロットフィルムは、1972年ごろ、手塚プロで実写特撮テレビドラマを作ろうとして金田啓治氏に制作を依頼して作られたもの。しかしこちらも番組の実現には至らなかった。
そうこうしているうちについに手塚が到着し、壇上に上がると会場は沸きに沸いた。
手塚は制作が始まったばかりの『火の鳥2772・愛のコスモゾーン』と、この年の夏放送予定の「24時間テレビ」スペシャルアニメ第2弾『海底超特急マリン・エクスプレス』について熱く語った。その内容が当時のファンクラブの会誌に採録されているので引用しよう。
「今度の『火の鳥2772』は七万枚というセルを使います。七万枚というとディズニーくらいの動きになるわけです。(中略)一時間半で五万枚と称している東映の『白蛇伝』、あれくらい動く、完全なフルアニメです。(中略)ただ動きがいいからといって、ポカポカころしたり暴力があったりという形じゃなしに、アニメの夢という物を見せたい」(「手塚治虫ファンクラブ会誌1号「大成功!! ファン大会」より)
また『マリン・エクスプレス』については──、
「『バンダーブック』は宇宙の話だったんですけれども、今度は海の話、いや海の話というよりは、ある秘密境、海の秘境を探検する話なんです。(中略)これに出てくるキャラクターは全部、今までの私のキャラクターです。つまり、リボンの騎士、レオ、アトムを含めてヒゲオヤジなんかも出て来るオールキャストです。(中略)ヒゲオヤジはこのところ、探偵になる役が非常に少ないんで、一回、そういう役を徹底してやらせやろうという事を考えています」(同記事より)
ついに手塚治虫が会場へ到着。待ち焦がれたファンも大盛り上がりだった!!
トークを続けながら模造紙にスラスラと絵を描いていく手塚お得意のステージパフォーマンス。
描いているのは『火の鳥2772』に登場する異星人クラックの絵だ。この絵もサインを入れて来場者にプレゼントされた
手塚のトーク終了後、プレゼント抽選会では、手塚の直筆のサイン色紙やセル画などが当たる抽選会が開かれこちらも大いに盛り上がった。篠田さんによれば、手塚は九段会館に到着するとすぐに壇上へは上がらず、控え室に積み上げられたプレゼント用の数十枚の色紙に猛烈なスピードでサインをし、その上で登壇したのである。
手塚はこのプレゼント抽選会にもつきあい、1点1点当選者に景品を手渡した。
こうして午後5時、大盛況のうちに第1回ファン大会は終了した──と思いきや、まだ終わりではなかった。サービス精神の旺盛な手塚は、締めの言葉でこう語ったのだ。記録はないのでぼくの記憶で再現しよう。
「本日はこんなにたくさんの方が集まってくださって本当にありがとうございます。プログラムはここで終わりです。でもせっかく来ていただいたみなさんに楽しんでもらいたいと思ってじつは会社からフィルムをいっぱい持ってきたんです。なのでお時間のある方はぜひそれも見ていってください。次の予定がある方や遠方から来られた方は無理なさらないでまた機会を設けますので! それでは本日はありがとうございました!!」
篠田さんが大切に保管していた当時の司会進行メモによれば、手塚の締めのあいさつの後、第2部が始まったのは午後5時半からだ。上映されたのは、虫プロ商事が制作した実写とアニメの合成テレビドラマ『バンパイヤ』(1968-69)の第1話から第4話まで。このうち第1話はテレビで放送された本放送版ではなく、放送されなかった貴重なNGバージョンが上映された。ぼくの記憶では冒頭から数分間の展開が本放送版とは異なっており、本放送版にはないシーンもあった。さらに手塚が個人的にコレクションしていた戦前のアメリカのアニメーション映画フィルムなども上映された。
こうしてファン大会の夜は、いつ終わるともなく更けていったのである。
さて次回はこの翌年にタイムスリップ。同じ会場で開催された第2回ファン大会の会場へ潜入します。事前調査では第2回でも第1回以上にいろいろなコトがあった......らしいゾ!!
取材協力/篠田修一
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
■前回の記事はこちらから
・手塚マンガあの日あの時第59回「第1回手塚ファン大会が開催されるまで」