虫ん坊

手塚マンガあの日あの時+(プラス) "テレビっ子"手塚治虫を読もう!!(1960年代編) 第3回:カラーテレビ時代の幕開けに登場した不謹慎番組とは!?

2019/07/30

"テレビっ子"手塚治虫を読もう!!(1960年代編)
第3回:カラーテレビ時代の幕開けに登場した不謹慎番組とは!?

あの日あの時ロゴ1120800_201907.png

 手塚治虫のマンガの中に引用されたテレビCMのキャッチフレーズや流行語などを探ってきたあの日あの時+(プラス)調査隊の旅。1960年代を巡ってきたその旅もいよいよ今回がラストである。今回我われが向かうのは1960年代後半の時代なのだが、果たしてこの時代の手塚マンガには、どんなCMや俳優、番組が潜んでいるのだろうか。さっそく調査を開始しよう!!


◎1968年、カラーテレビの受信契約が始まる!


 さて、今回最初に向かうのは1968年だ。
 この年がどんな年だったかを当時の年表で振り返ってみると、4月には東京の千代田区霞ヶ関に日本初の超高層ビル「霞ヶ関ビル」が竣工している。地上36階、高さ147メートル。これは1970年3月に東京都港区浜松町の「世界貿易センタービル」(地上40階、高さ152メートル)が竣工するまで日本一の高さを誇っていた。そして9月にはラテンアメリカ初のオリンピックであるメキシコオリンピックが開催されている。
 テレビ放送の受信契約数は2,122万733世帯となり普及率は88.1%。またこの年の5月からはNHKの受信契約がカラー契約と白黒テレビの普通契約に分割されている。初年度のカラー受信契約数は168万8897世帯。これが翌年からは毎年倍々で増えていくことになる。

03television03-02a.jpg

03television03-02b.jpg

霞ヶ関ビル開業当初のパンフレット2種(上)と、当時の絵ハガキ

◎古墳時代も宣伝の時代!?

 手塚がこの年、雑誌『COM』1968年9月号から連載を始めていたのが『火の鳥』「ヤマト編」である。
 古墳時代を舞台としたこの物語の中で、火の国の王・川上タケルが酒をあおりながら宴会を開いている。そこでタケルが侍従らしき老人・長島に、これからは何事も宣伝・PRの時代だからコマーシャルに出ろと命じる。
 そんな2人のやり取りの中で唐突に描かれているのが、侍従の言う「飲んでますか?」というセリフと、微妙に似てるようでまるで似てないとも言える三船敏郎の似顔絵だ。
 これは1964年から65年にかけて放送されていた武田薬品工業の栄養剤「アリナミン」のCMをパロディ化したものだ。

03television03-03.jpg

『火の鳥・ヤマト編』を収録したCOM名作コミックス第4巻(1969年、虫プロ商事刊)の表紙

03television03-04.jpg

03television03-05.jpg

03television03-06.jpg

『火の鳥・ヤマト編』より。大宴会をもよおして盛り上がるクマソの王・川上タケル。そこで飛び出したのが「飲んでますか」という「アリナミン」CMのキャッチコピーだった

◎栄養剤CM戦争はまだ続く!!

 武田薬品の公式サイトによれば「アリナミン」の発売は1954年のこと。活性ビタミンB1剤としては嚆矢とされる商品だったが、前回のあの日あの時+(プラス)で紹介したように1960年代に入ると他社の栄養剤が激しいテレビCM攻勢を仕掛けてきていたためにシェアを奪われつつあった。
 そうした中で同社が満を持してCMに起用したのが俳優の三船敏郎だった。当時、映画スターは雲の上の存在でありテレビの番組やCMに出るなどとても考えられないという時代だった。しかし武田薬品はその常識を打ち破り、スター中のスターである三船敏郎の起用に成功したのだった。

03television03-07.jpg

03television03-08.jpg

三船敏郎がテレビCMに出演していた時代の「アリナミン」新聞広告2種。1963年6月(左)と1964年12月のものだ。世界のミフネはスティル写真でも圧倒的な迫力だ

◎ビッグスターが栄養剤のCMで競演!!

 この三船敏郎の「アリナミン」のCMは1964年から65年にかけて放送された。今回、動画が再見できなかったのでCMの内容を記憶で書くと、最初は三船がカヤックとか登山などのスポーツで汗を流している場面が映し出される。続いて場面が変わると、バスローブ姿の三船のアップとなり、カメラ目線になってひとこと、あの重厚な声で「飲んでますか!」と言うのである。
 このころの家庭用テレビの標準的な画面サイズは14インチだったが、銀幕の大スターのオーラはその小さなテレビ画面からも大いに伝わり、これ以後、栄養剤のCMに大物俳優や人気スポーツ選手が続々と出演するきっかけとなったのだ。例を挙げると、エーザイの「ユベロン」には石原裕次郎、塩野義製薬の「ポポンS」には仲代達矢、三共の「ビオタミン」には長嶋茂雄が出演していた。

◎怪しい宿の主人が口走った言葉は......!?

 続いて1969年の暮れも押しせまった時期の、雑誌『漫画サンデー』1969年12月3日号に掲載された短編『怪談雪隠館』に引用されたテレビCMを見てみよう。
 この短編作品の主人公はマンガ家の手塚治虫本人である。締め切りから逃げ出した手塚が列車のトラブルで、やむなく雪に埋もれた見知らぬ山奥の温泉宿に泊まることになる。ところがこの宿を経営する家族は全員が怪しげな人々で、手塚は少しずつ恐怖を感じるようになっていく。
 そんな恐怖の中で宿の主人が言った言葉が、
「だってあなた こわがらせる相手のいない 芝居なんて......」「クリープを入れないコーヒーみたいなもんでしょ」
 というセリフだった。
「クリープを入れないコーヒーなんて......」という言葉は、1966年から放送が始まった森永乳業のコーヒー用粉末クリーム「クリープ」のCMコピーだ。この言葉の後に毎回「まるで○○のようなもの」という言葉が続くのだが......じつはこのCMには手塚治虫も出演しており、手塚は「クリープを入れないコーヒーなんて、風刺のないマンガのようなもの」と言っていた! 今回その新聞広告を発見したのでここにご紹介いたします。

03television03-10.jpg

03television03-11.jpg

1969年に発表された短編『怪談雪隠館』より。マンガ家の手塚治虫は編集者から逃げて温泉宿に止まったのだが、そこはお化け一家が経営する恐怖の宿だった! ※画像は講談社版手塚治虫漫画全集『雑巾と宝石』所収「怪談雪隠館」より(以下同)

03television03-12.jpg

03television03-13.jpg

と思ったら館主の悪ふざけだったことが発覚するのだが......そこで家主が吐いたのが「クリープを入れないコーヒーみたいなもんでしょ」という言葉だった

03television03-14.jpg

03television03-15.jpg

1969年9月の新聞広告より。渋くてダンディなおじさま=芦田伸介がクリープの魅力をアピール。......そして左上に居並ぶ文化人の写真とコメントにも注目。何とそこに手塚先生も参加している!!

◎博打に勝った老婆が放ったヒトコトは......!?

 さていよいよ1960年代の"テレビっ子"手塚治虫を締めくくる最後のネタを紹介しよう。これは登場人物が、テレビCMではなくてあるテレビ番組の名前を叫んでいるというものだ。
 まずはその作品を見てみよう。それは雑誌『少年チャンピオン』に1969年8月10日の創刊号から連載されたSFの連作短編シリーズ『ザ・クレーター』だ。その第7話「三人の侵略者」に問題のセリフが登場している。
 物語の舞台は軽井沢ならぬ重井沢の別荘地帯だ。そこへ地球の偵察のために3人の宇宙人がやってくる。一方、刑務所から脱獄した3人の凶悪犯も重井沢へ逃げ込んできた。
 そして凶悪犯とおぼしき3人組が押し入った別荘には若い姉弟とベッドに寝たきりの祖母がいた。
 この祖母の老婆がなぜか丁半博打に強くて、凶悪犯のひとりと博打を打って勝ってしまい、凶悪犯の身ぐるみを剥いでしまった。
 ここで老婆が発したのが「裏番組をぶっとばせェ ヒ ヒ ヒ ヒ ヒ」という言葉だった。

03television03-16.jpg

03television03-17.jpg

03television03-18.jpg

『ザ・クレーター』「三人の侵略者」より。宇宙から謎の円盤に乗った宇宙人が地球へ接近。一方で凶悪な殺人犯3人もまた同じ場所へ向かおうとしていた......!! ※画像は講談社版手塚治虫漫画全集『ザ・クレーター』第2巻より(以下同)

03television03-19.jpg

03television03-20.jpg

03television03-21.jpg

3悪人の人質となった老婆が、悪人のひとりと丁半博打を打ち、何と勝ってしまう。そこで吐いたひとことが「裏番組をぶっとばせェ ヒ ヒ ヒ ヒ ヒ」という言葉だった

◎大河ドラマに挑戦した伝説的な過激バラエティ番組!!

『コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!!』は1969年4月27日の日曜午後8時から放送が始まった日本テレビのバラエティ番組だ。主演は番組タイトルにもあるとおり萩本欽一と坂上二郎の人気お笑いコンビ「コント55号」である。同番組は毎回公開録画の形式を取っており、会場に詰めかけたお客さんを画面に入れこみながら、その爆笑の渦の中で2人のアドリブ満載のステージが進行していく。
 ちなみにこの裏番組とは、当時同じ時間に放送されていたNHKの大河ドラマ第7作『天と地と』のことだ。海音寺潮五郎の原作を元に石坂浩二演じる上杉謙信と高橋幸治演じる武田信玄がぶつかり合ったこの番組の視聴率がまたすごかった。平均視聴率が25.6%、最高視聴率は32.4%。この番組タイトルはそれをブッ飛ばす勢いで付けられた挑戦的なものだったのだ。

03television03-22.jpg

新番組『コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!!』の紹介記事(『讀賣新聞』1969年4月18日号より)

03television03-23.jpg

『コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!!』放送開始当日の新聞広告(『讀賣新聞』1969年4月27日号より)

◎『裏番組をブッ飛ばせ!!』の名物コーナー!!

 それにしても『ザ・クレーター』の中で、丁半博打に勝った老婆がなぜこの番組名を口に出したのか。
 じつは『裏番組をブッ飛ばせ!!』の中には「野球拳」という超人気コーナーがあった。次郎さんと若い女性ゲストがステージ上でジャンケンをして、負けた方が着ているものを1枚ずつ脱いでいくというゲームである。
 脱いだ服はその場にいる観客同士がオークションで競り合い、勝った人がその場で現金で買い取って収益金は交通遺児に贈られる。
 盛り上がるのは当然ながらゲストの女性が負け続けたときだ。ジャンケンの際には会場の観客全員が「アウト! セーフ!! ヨヨイノヨイ!!」というかけ声を発するのだが、その声にもだんだんと力がこもり会場は異様な熱気に包まれてゆく。
 ステージ上には簡易な脱衣室が設置され、負けたゲストの女性は、その中へ入って1枚ずつ着ていた服を脱いでいく。上着を脱ぎ、ブラウスを脱ぎ、スカートを脱いでその下に着ていた水着だけになると、最後はその水着まで脱いでバスタオル姿で現われる女性タレントもいた。
 当時小学6年生だったぼく黒沢も、この番組に夢中になったひとりであり、近所の女の子と野球拳ごっこをして遊んだ思い出もある。しかしもちろん一緒に見ている親や祖父が面白かったはずはなく、恐らく憮然としていたに違いない。

03television03-24.jpg

『讀賣新聞』1969年5月11日号に掲載された『コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!!』の新聞広告。早くも野球拳コーナーが大人気となっていた

03television03-25.jpg

『讀賣新聞』1969年6月23日号のテレビ欄より。ほうほう、この日はお色気タレントとして当時大人気だった小川ローザが出演していたのか......Oh!モーレツ!!

03television03-26.jpg

テレビ番組特集を組んだ『アサヒグラフ』1969年10月24日号の表紙を飾ったのは『コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!!』の公開録画風景。会場のお客さんは大人も子どももこの笑顔である

◎お下劣番組に総スカン!!

 こうして子どもたち(と一部のお父さん)に大喝采された『裏番組をブッ飛ばせ!!』の「野球拳」コーナーであるが、もちろん批判的な意見も多かった。神奈川県の相模原市では番組を見学した当時の市長がこのコーナーのあまりのお下劣さに仰天し、この番組の公開録画での市民会館の使用を断ったと当時の新聞が報じている。何でも市長が見学した回では「女優の小山ルミが水着姿で、小さい子までセリ売りに参加」(『朝日新聞』1969年9月7日号)していたそうである。
 新聞記事を追いかけていくと、その後、八王子市でも同様の対応を検討中、との記事も見つかった。
 番組はその後、このコーナーだけを独立させ1969年11月から『コント55号の野球ケン!!』として再スタートを切ったが、同年に設立されたばかりの放送番組向上委員会(BPO=放送と人権等権利に関する委員会機構の前身)からだけでなく日本テレビ内の番組審議会からも批判が出たため、翌1970年3月で放送打ち切りと相成ったのである。

 ちなみに先に紹介した大人向け短編『怪談雪隠館』にもこの野球拳が登場している。雪に降り込められた旅館で、手塚治虫が風呂へ入ろうとすると、宿のおかみさんが先に入っていて......以下は画像をご覧ください。

03television03-27.jpg

ついにメディアや行政からも批判の声が上がり始めた。ぼくは大好きな番組だったんですけどねぇ......。(『朝日新聞』1969年9月7日号より)

03television03-28a.jpg

03television03-28b.jpg

『怪談雪隠館』より。旅のロマンである混浴温泉、楽しめるか楽しめないかは相手によりけり......か?

◎低俗だろうと面白いものは面白い!!

 いやあ、1960年代の"テレビっ子"手塚治虫の調査は何だか騒然としたエンディングを迎えてしまいました。この手の番組に対してはさまざまなご意見があるとは思いますが、手塚の考え方としては恐らく、作品への引用のされ方などを見ても、かなり寛容な立場だったのではないかと、ぼくは思っています。
 実際にいまこうして振り返ってみても、あのころのテレビは聖俗を併せ持ったところが自由でとても魅力的なメディアだった気がします。
 ということで、1970年代以降の手塚マンガとテレビの関係についても、ただいま鋭意調査継続中です。また材料が集まりましたらぜひあの日あの時+(プラス)調査隊を編成し、その時代へ向かってみようと思います。
 ではまた次回のコラムでお会いいたしましょう!!


CATEGORY・TAG虫ん坊カテゴリ・タグCATEGORY・TAG虫ん坊カテゴリ・タグ