2021/04/02
写真と文/黒沢哲哉
手塚治虫が初めてアトムを描いてからおよそ60年が過ぎた。60年前、日本がいまだ終戦直後の混乱の中にあったころ、手塚はアトムという少年ロボットに託して、子どもたちに何を伝えようとしていたのか。今回は、アトム誕生のころのあの日あの時を振り返る。
(※この記事は2009年10月当時の内容をそのまま再録したものです。記事内でご紹介した事実などはすべて取材当時のものとなります)
アトムが手塚治虫の作品に初めて登場したのは、昭和26(1951)年4月から雑誌『少年』で連載が始まった『アトム大使』だった。そしてその一年後の昭和27年4月、アトムが主人公となって新たに『鉄腕アトム』がスタートする。
そのアトム誕生から間もなく60年の歳月が経とうとしている。その間、アトムはずっと多くの読者を魅了し続けてきた。また時代の節目節目になるとなぜか世間の注目を集め、その度に新たな価値を見出されては再評価されてきた。
今回のアメリカ版CGアニメーション映画『ATOM』もそんな節目のひとつだろう。
だが、そうした作品の普遍性とは別に、アトムが長い時の流れの中に置き忘れてきたものもある。それはアトムが当時の時代とどう関わってきたかということだ。
今回は皆さんと一緒にアトム誕生の時代を見てみよう。それによって、21世紀の現代に読む『アトム』とはまるで違った印象を持った、この作品のもうひとつの横顔が見えてくるはずだ。
アトムが生まれた昭和26年という年はどんな年だったのだろうか。
太平洋戦争の敗戦からわずか6年目。日本はいまだ復興に向けて必死にあがいている時代だった。
この前年の昭和25年6月に始まった朝鮮戦争は、鉄鋼や繊維などの莫大な需要を生み、日本の復興に大いに弾みをつけた。
だがその一方で、日本は朝鮮半島へ出撃するアメリカ軍の前線基地となり、ふたたび世界戦争に巻き込まれる不安も広がっていた。
そんな中、朝鮮戦争の開戦と前後して、日本に駐留していたGHQ(連合国軍総司令部)は、日本国内での労働運動の激化を危険視し、マッカーサー元帥の指示で"レッドパージ"を断行する。レッドパージとは、共産党員とその同調者たちを公職や企業から強制的に追放することだ。
『アトム大使』の中には"赤シャツ隊"という科学省のスパイ警察が出てくる。この部隊は実質的に天馬博士の私兵部隊のような存在で、天馬博士の命令に従って宇宙人たちを容赦なく縮小していく。
現実にレッドパージが吹き荒れる中、人々は戦時中の特高警察(政治・思想犯を専門に取り締まる特別高等警察)を思い出し恐怖していた。そんな時代の読者にとって、この赤シャツ隊の恐ろしさは、今のぼくらの想像をはるかに超えた生々しいものだっただろう。
だが、手塚治虫はどんな悲観的な状況を描いても読者を決して絶望させはしない。むしろ現実がつらく厳しいときにこそ、ぼくらを励ましてくれるのが手塚マンガなのだ。
『アトム大使』に登場する高層ビル群やスマートな流線型の都電、銀座のど真ん中でサーカスの興業を行なうマンモス劇場など。今ではこれらを見ても特別に驚くことはないだろう。だが昭和26年という時代の中で見ると、この風景に対する印象はまるで違ってくる。
昭和26年4月、新聞は銀座に戦後初めて街灯が復活したことを報じている。このころになっても、街のいたるところにいまだ廃墟が残っており、夜ともなれば都会の駅前でさえ真っ暗になった。
上野駅周辺には、およそ1,300人の浮浪者がたむろして駅の地下道をねぐらにしていた。男女比は男8:女2、そのうちおよそ1割が子どもだった。しかも浮浪児の数は、地方では減少していたものの、都市部では逆に増え続けていた。
手塚は、そんな過酷な時代を生きる子どもたちに向けて『アトム大使』を描いていた。子どもたちは、きっとそれを夢中になってむさぼり読んでいたことだろう。そしてほんのひととき、つらい現実を忘れてアトムとともに夢の国に遊んだのである。
『アトム大使』のアトム初登場シーンにも、そんな当時の子どもをめぐる厳しい社会状況が色濃く反映されている。
ある日サーカス団に児童省の役人がやってくる。彼らは、サーカス団がタマオ少年とロボットを対決させるという話を聞いて、それが不当な労働に当らないかを査察に来たのだ。そこで役人のひとりが、サーカス団の団長にこう言い放つ。
「あなたは児童憲章を知らないのかね」
これは、昭和26年5月に日本政府が児童憲章を制定したことを背景にしたセリフだ。児童憲章は「児童は人として尊ばれる」「児童は社会の一員として重んぜられる」など、子どもの人権を高らかに謳ったものだった。だが現実はその理想にはいまだ遠く及んでいなかった。
昭和22年ごろに社会問題化し始めた子どもの人身売買は、その後、いったんは下降線をたどったものの、25年ごろから再び増加。昭和26年8月には、厚生省(当時)が、被害児童の数を全国で推定5000人と発表した。
宇宙人のタマオが山道で見知らぬ男たちと出会い、そのまま銀座へ連れて行かれてサーカスで働かされる。そんな異常なことが普通に起こるような時代だったのだ。
ちなみにこのアトムと役人との対面シーンで、役人がアトムにガムを食べさせる。役人は「児童省のガムはおもちゃじゃない」から、人間には絶対にふくらませられないと主張する。ところがアトムがそれを楽々とふくらませて、役人が驚くというオチだ。
実はこのギャグは、当時の風船ガムの流行を下敷きにしている。
終戦直後、米や小麦、砂糖など、お菓子の原料となる食品は厳しい食料統制下にあった。そのため菓子製造業者は思うようにお菓子が造れない。そこで目を付けたのがチューインガムだった。統制品ではない松ヤニや酢酸ビニール樹脂に、サッカリンやズルチンなどの人工甘味料で味を付ける。松ヤニや酢酸ビニール樹脂には柔軟性があり、風船のようにふくらませることができる。これを風船ガムとして売り出したところ大評判となったのだ。
そこでたちまち多くの業者が参入し、昭和23年ごろには、大小さまざまのガム製造業者が全国に350〜400軒以上もひしめいた。だが、そうした中にはいいかげんな業者もいて、精製していない松ヤニを使ったことで、口の中がかぶれて腫れあがるというトラブルなどが頻発したのである。
児童省の役人は、それを指して児童省配給のガムは「おもちゃじゃない」「いいガムだ」と言っているのである。
さて次回は、日本が戦後の混乱期を抜けて高度経済成長のスタートラインに立ち、先進国を猛追し始めた時代=昭和40年代の『アトム』を振り返ります。ぜひまたお付き合いください!
※『アトム大使』の各ページは、『鉄腕アトムハッピーバースデーボックス』(2003年光文社刊)内の「鉄腕アトム誕生大全」から転載
協力/財団法人大宅壮一文庫
参考文献/串間努『特集チューインガム戦後編』(『日曜研究家』Vol.11 扶桑社刊)
(初出:2009/10/09)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
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