2021/02/12
写真と文/黒沢哲哉
「マンガは風刺だ」
日ごろからそう語っていた手塚治虫先生のマンガには、作品を発表した当時の"時代"がリアルに、そして独特の視点から描かれています。けれども、作品の発表から年月を経るにつれて、そうした作品の生まれた背景というものは、いつしか忘れ去られてしまうものです。
このコラムでは、手塚治虫先生が作品の中で時代をどう描いてきたか、手塚マンガが時代とどう関わりを持ってきたのかを振り返ります。
(※この記事は2009年2月当時の内容をそのまま再録したものです。記事内でご紹介した事実などはすべて取材当時のものとなります)
1976年夏、日本はロッキード事件に揺れていた。アメリカのロッキード社の航空機受注をめぐり、日本の大物政治家が多数関わったとされるこの一大疑獄事件は2月に発覚。7月末には前総理大臣、田中角栄が逮捕されるに至った。
そのおよそ1ヵ月半後の9月6日午後1時54分、当時のソ連の最新鋭ジェット戦闘機"ミグ25"がとつぜん北海道に飛来し、函館空港に強行着陸した。乗っていたのはソ連空軍のエリートパイロット、ビクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉29歳。中尉はアメリカへの亡命を主張する。
この、文字通り空から降って湧いた事件は、自衛隊の防空体制の不備に対する批判、ベレンコ中尉の処遇、乗ってきた戦闘機をどうするかなど様々な問題を引き起こし、ロッキード事件が吹っ飛ぶほどの大騒動に発展した。
この事件の直後に手塚治虫が描いたのが『ブラック・ジャック』第143話「空からきた子ども」である。
B・Jの家の庭先に、ある日突然、ウラン連邦の最新鋭ジェット戦闘機が着陸する。戦闘機には空軍少佐とその妻、そして幼い病気の子どもが乗っていた。少佐はB・Jに子どもの病気の治療を依頼するが、その病気はB・Jにも手に負えないものだった......。
このお話がベレンコ中尉の事件を下敷きにしていることは明らかだが、作品は事件の安易な引用にとどまらず、わが子を救おうとする親の愛や軍人の誇りを全うする少佐の姿を、B・Jの視点から描いた感動的な物語になっている。
そして何より驚くのは、この作品の掲載号である。
この作品が載ったのはこの年の『週刊少年チャンピオン』第43号(10月18日号)だった。その店頭発売日は9月17日金曜日。何と事件発生からわずか10日後のことだったのだ。
僕は当時、チャンピオンのページを開くなり、あまりの速さにひっくり返るほど驚いた。
当時の大手週刊誌がこの事件をいつどのように報じたかを振り返るとそのすごさがよりはっきりする。
まずこの事件を最初に記事にしたのは、事件の3日後に発売された『週刊新潮』9月16日号(9月9日店頭発売)だった。4ページの記事だが独自取材による内容はほとんどなく、それまでの報道内容をまとめただけの速報記事である。次が9月10日店頭売りの『週刊朝日』。こちらはわずか1ページで、航空評論家の青木日出雄氏の談話をまとめただけのもの。
そしてようやく週刊誌の記者が独自取材を行なった記事が出始めるのは、次の週の後半になってからなのである。
一方、手塚マンガの方はというと、印刷や配本にかかる時間を引いて、さらに15日が祭日であることを考えると、遅くとも13〜14日には描き上がっていたのではないだろうか。
手塚はこのころ『ブラック・ジャック』のほかに『三つ目がとおる』(『週刊少年マガジン』)、『どろんこ先生』(『読売新聞日曜版』)、『虹のプレリュード』(『少女コミック』)などを連載中で、9月からは『MW』(『ビッグコミック』)と『火の鳥・望郷編』(『マンガ少年』)の連載も始まっている。
手塚治虫の殺人的スケジュールや、編集者や印刷所の連係プレーによる綱渡りの雑誌掲載については、これまでにも多くの関係者が語っているが、こうして具体的な日付けを見ながら振り返ると、天才の超人的な仕事ぶりの一端が垣間見えてくる。
そんな時代の空気を感じながら、あらためてこの作品を読むと、また違った感想も生まれるのではないだろうか。
資料協力/財団法人大宅壮一文庫
(初出:2009/02/09)
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
手塚マンガあの日あの時+(プラス)
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