2020/04/24
手塚治虫のマンガには、物語の流れを無視してちょこちょことコマの片隅に顔を出す謎生物たちがいる。ヒョウタンツギや「おむかえでゴンス」のセリフで知られるスパイダーなど。そしてその中でもひときわ異彩を放っている謎生物が"ママー"である。目は1つで足はなく空中に浮かんでいて時に毒舌を吐く。この謎生物ママーの正体に迫るシリーズ2回目の今回は、手塚プロ資料室からもたらされたある重大情報から話を始めよう。これを読めばあなたもきっとママーが大好きになりますよ!!
手塚治虫のマンガ『七色いんこ』の中には、会話の流れと関係なく、登場人物たちが「日本の国土ッ」と口走る場面が何度か出てくる。
このセリフはいったい何を意味しているのか。手塚ファンの間ではこれまでさまざまな憶測が語られているが、決定打となるものはなかった。
そんな中、昨年2019年のこのコラムで『七色いんこ』を深堀りした際に、この謎のセリフについてもぼくなりに調べて推理した結果を紹介した。
その内容をざっくり言うと、もちろん私見ではあるが、このセリフは『七色いんこ』が連載されていた当時、にわかに盛り上がりを見せていた北方領土返還運動と関わりがあったのではないかというものだ。
・手塚マンガあの日あの時+(プラス)一読三嘆!! 『七色いんこ』を8倍楽しむ読み方!!」第3回:ニュースの真相を知ると8倍楽しめる!!
ところが...である。このコラムが公開された直後に、手塚プロ資料室の田中創さんから驚くべきメールをいただいたのだった。そのメールとは......!?
田中さんから了解をいただいたのでその全文を以下に引用しよう。
「あの日あの時」拝見しました。
謎の「日本の国土ッ」とのことですが、実は(黒沢注:手塚先生が)デビュー前に創作した"ママー語"なのです!
添付画像をご覧ください。
手塚先生の「昆虫手帳」(1942年10月から翌年10月までの昆虫採集記録)の中に、
「ママー國語辞典」なるページがあり、そこに出てました。
やはり「国土」というのは、戦時中ならではですね。
デビュー前のノートか何かで見た記憶があったので、色々探したら出てきました。
現物は手塚治虫記念館にあるのでコピーからのスキャンです。
手塚プロダクション 資料室
田中 創
そしてこのメールに添付されていたのがこの画像である。
1942年10月というと手塚が大阪府立北野中学校(現・北野高校)の2年生だったころである。「昆虫手帳」というのはそのころ手塚が愛用していたポケットサイズの手帳のことだ。
当時は昆虫採集がブームだったため、昆虫採集マニア向けの専用手帳というものが市販されていた。手塚はその手帳に詳細な昆虫採集の日記や採集地の地図、採集した昆虫のスケッチなどを詳細に記録していた。
手塚が愛用していた昆虫手帳は数冊が現存しており、その一部は手塚治虫記念館に展示されている。また、展覧会などで一般公開されることもあるので実物を目にされたことのある方も多いだろう。
そしてこの手帳には、昆虫採集に関する記録以外にも、マンガ家としての才能の片鱗をうかがわせるお遊び的なイラストや落書きなどが描かれることもあった。
今回田中さんが教えてくれた『ママー國語辞典』もそうした落書きのひとつだったのだ。
この貴重な資料の発掘によって、「日本の国土ッ」という『七色いんこ』に頻出する謎のセリフが、じつはこの作品の連載より40年も前に生み出されたものであることが明らかになったのだ。
『ママー國語辞典』には「日本の国土ッ」という言葉の意味が次のように書かれている。
「エッ」といった語に、「日本の国土」をそへたもの
何かに驚いて聞き返す際の「エッ!?」という言葉になぜか「日本の国土」という言葉を添えているという。
これだけでは何のことか意味が分からないが、田中さんもメールに書かれているように、1942年というのは太平洋戦争の真っ最中である。戦争が日に日に激しさを増していた当時の社会背景が、手塚少年の心にも強い影響を与えていたに違いない。
この手帳が使われ始めた年である1942年3月、日本は長期戦を覚悟し、当時のオランダ領インドシナ(現・インドネシア)を陥落させて石油確保のめどを立てていた。ところがその翌月の4月にはアメリカの爆撃機が日本の本土を初空襲して日本中を震撼させる。また6月のミッドウェー海戦では日本がアメリカに大敗を喫した。
それでも日本は強気の姿勢を崩さず、9月には日本の実質的な傀儡国家である満州国が建国10周年を迎え、盛大な慶祝記念式典を開催している。
だが1943年が明けると日本の敗色はいよいよ濃くなってゆく。2月、日本軍の南方の重要拠点だったガダルカナル島から撤退、政府(大本営)はこれを敗北とは認めず"転進"と言い換えた。
6月にはこれまで徴兵が猶予されていた学生・学徒も兵士として動員することが決定、10月には雨の中で出陣学徒の壮行会が盛大に開催されている。
「日本の国土」をめぐる問題は、現実的な問題として常に日本人の目の前にあったのだ。
そうした時代背景の中で、手塚治虫が創造した"ママー國"の言葉として、「日本の国土ッ」という言葉が使われるようになったのだろう。
こうして今回手塚プロ資料室・田中さんからの情報で「日本の国土ッ」が戦時中に創作されたママー國の言葉であることが明らかになった。
しかし! である。じつはこの言葉が『七色いんこ』よりはるか以前(遅くとも1950年代以前)から手塚の頭の中にあった言葉であるということは、2012年の時点ですでに明らかになっていたのだ。
その証拠は2012年1月に小学館クリエイティブから刊行された『手塚治虫創作ノートと初期作品集2』の中にあった。
この本は、手塚が市販のノートにマンガのアイデアやプロット、マンガの下描きなどを書いていたものをノートの体裁そのままの形で出版した貴重な資料である。その中の「有尾人下書きノート(2)」という名前が仮付けされたノートの中にその記述はあった。
このノートの最終ページに近いページの片隅に「日本の国土ッ」という文字が走り書きされていたのだ。
このページの前後には1950年1月に刊行された描き下ろし単行本『ふしぎ旅行記』のアイデアメモや下書きが書かれているので、おそらくそれと同じ時期に書かれたものだろう。
この『創作ノート2』が刊行された当時、本コラムの編集担当でもある手塚プロ・I藤もこれを見つけ、当時の「虫ん坊」編集後記にそのことを書いていた。
・虫ん坊 2012年3月号 今月のひとこと
しかしこのときは、これが書かれた正確な年代もその意味も不明だったため、残念ながら考察がこれ以上深まることはなかったのである。
しかし今回『ママー國語辞典』が発掘されたことで、この言葉が1940年代に生み出されて以後も、こうして手塚の頭の中でずっと生き続けていた重要な言葉だったことが明らかになった。
そうした意味で、今回見つかった『ママー國語辞典』は、古代エジプト文字"ヒエログリフ"を解読する大いなるきっかけとなった"ロゼッタストーン"にも等しいマンガ界の至宝と言っていいだろう。
エジプトの遺跡に刻まれている古代エジプト文字"ヒエログリフ"は長い間誰にも解読できない文字だった。ところが1799年にエジプトのロゼッタで紀元前196年のものとみられる石碑のかけらが見つかった。"ロゼッタストーン"と名付けられたこの石にはヒエログリフを含む3種類の文字でまったく同じ内容の文章が記されていた。これが手がかりとなり、1822年、フランスのシャンポリオンらによって古代エジプト文字"ヒエログリフ"はついに解読されたのである。
さて、今回は「日本の国土ッ」という言葉とママーの関係がついに明らかになったわけであるが、次回はいよいよママーの正体とその誕生秘話に迫りたい。
謎生物ママーにはじつは元ネタがあった!? さらに『七色いんこ』以外のママー登場作品も一挙紹介する予定です。お楽しみに~~~っ!!
黒沢哲哉
1957年東京生まれ。マンガ原作家、フリーライター。
手塚マンガとの出会いは『鉄腕アトム』。以来40数年にわたり昭和のマンガと駄菓子屋おもちゃを収集。昭和レトロ関連の単行本や記事等を多数手がける。手塚治虫ファンクラブ(第1期)会員番号364番
手塚マンガあの日あの時+(プラス)
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